alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

親子共学

2012年02月27日 | 子どもから学ぶ


 「遊びは学び。」かつて訪れた吉野のParty for the Futureで
上田先生はそう言っていた。遊びは学び。それが最近の
教育学の最先端。だから大人の学び場も、遊び心のある場も必要なんだ。


 そうなのか ならば私は息子から学ぼうと
息子がまた小ちゃかったときに思っていたけど
正直言ってそんな次元ではあまりなく どちらかというと
疲れてて そして上田先生の『プレイフルシンキング』を読んでは
「主体的な子育てをしてみる?」と思ったりした一方で
主体的な子育てなんてないよ、、、追われてるだけじゃんと
思ったのが現実だった。


 ところが最近!!インフルエンザの最悪な事態を
ちょっと乗り越えてくれたからなのか
息子が言うことをそれなりに聞いてくれるということが判明しつつあり
「これは禁止!!」と言ったらまさか?と思うけど
意外とわかってくれたりもする。息子、成長したなあ、、、
(インフルエンザ中はあれもこれも禁止!で本当に大変だった。
「マスクしなさい!」「下で遊んじゃダメ!」「お外は行けない!」
だったけど さんざん言い聞かせていたら自分でマスクをするようになった!)

 
 「うんち おしっこ おなら アハハハ!!!」と突然言い出し
毎20分ごとにそれを言うようになった息子にあきれ果て
これってタミフルのせい?と思っていたけどタミフルが終わっても
変わらなく うーんどうしたらいいものか、と思ってまわりの人に
きいてみたら「男の子なんてそんなもの」(諦めなさい)そうなのか、、、

 だけど昨日だったか「もう うんち おしっこ おならは禁止!
バーカもだめ、あっかんべーもダメ!次からお尻叩くからね!!」と言ったら
ダメというのがわかったらしく あっかんべーとしかけてもやめたりだとか
バーカと言いかけて「あっ?」と思ったりとか 「うんち おっしっこは
だめだけどおっぱいはいい?じゃあおなかは?」とか聞いてくる。
「うーん おっぱいとお尻は恥ずかしいからだめだけど まあお腹ならいいか」と母。
そんなこんなで言うことを聞かないこともあるけど あれ?と思うと聞いてくれたり
なんだか不思議なんだなあ。


 蓮太郎はとてもかわいい。彼はどうしてなのだか生まれてこのかた笑ってる。
こんなにも笑ってる3歳児っているのだろうかと思うくらいに
何が楽しいのかわからないけど やたら楽しそうに笑ってる。
「蓮太郎、何がそんなに楽しいの?」と尋ねてみても ろくな答えは返ってこないけど
(でも今日は「ママがかわいいから!」と言ってもらえた。。。)
なんだか彼は人生を楽しんでいるようだから ちょっとまねしてみようかと思い
時折私もまねしてみたり(でも「うんち おしっこ おなら!!は全然楽しくなかった)


 さて そんな蓮太郎に 色々と教えてやらなきゃと思っていたけど
今日一緒にバーバパパのYoutubeを見ていたら あ そうか 私
教えてあげなきゃと思ってたけど 一緒に勉強すればいいんだ!と気が付いた。
バーバパパなら フランス語でもいいのだけれど 英語で見てもけっこうわかった。
実は子供用のアニメというのは語学習得にはもってこい。
絵本もいいけど 通常の絵本には音声はないし アニメはもっと
「本当に普段使う言葉」を普段通りにしゃべってる。だからその
表現方法がすうっと身に付いていくなら言うことない。
でもいくらアニメがいいと言っても 大人になって語学を習得しようとする
まじめな人は アニメに時間を割かないだろう(日本語を習得したい
フランス人のオタクは別かもしれない)だけど私だったら 子供にアニメを
見せておきながら一緒に習得ができるんだ!これはかなりいいかもしれない、、、

 そういうわけで 今までは息子がYoutubeをやってても お母さんは知らんぷりだったけど
「じゃあこれからママも英語がフランス語なら一緒に見てあげる」ということにした。
バーバパパでもフランスのアニメでも(キティちゃんもフランス語をしゃべってる)
トムとジェリーでもなんでもいいや。英語の勉強もできそうだから
私もちょっとは見てみよう。息子はといえばそれが英語だろうがポルトガル語だろうが
韓国語だろうがスペイン語だろうが一向に気にせず楽しそうに色々見ている。
言語に左右されるのは私だけなんだ。


 それに加えて前々から集めていた息子用だと思っていたフランス語の
iPadのアプリも いくら言っても息子は素敵な絵本のアプリを半分くらいしか
読んでくれないけれど そういえば私がやればいいんだ。絵本で学ぶフランス語だなんて
本当に使える言葉じゃないか!もういいよ 蓮太郎が読まなくっても
お母さん電車の中で一人で読むから。そういってどんどんアプリを買ってしまった。
これだって「星の王子様」の本とカセットテープに2000円くらいかけて
わざわざ日仏学院まで買いに行った時代を思うと比較にならないくらい安い。
iPadには音声があるから語学の習得には本当にいい。
息子は私が集めたアプリで遊びながらフランス語の音を聞き
私は横で「そうかそんな発音なのか」と思いながら発音練習。
なんだかインターナショナルな時代です(家に居るだけなんだけど)


 お金もないし あんまりおもちゃも買ってやれない と思ってたけど
そういえば想像力こそ一番大切じゃなかったの?そうか ないのなら
創ればいいんだ!そう思って息子が前から欲しかったというお風呂に
浮かせる船をがんばってブロックで作ってあげたらかなり喜んでくれていた。
そうすれば私の発想も豊かになって いろんなことに役立つわけだ。
なーんだ 本気で遊べばいいんだ。


 そう 一緒にちゃんと遊んだら たっぷりとかけっこしたら
私はだいぶ汗をかく。これは健康にもいいではないか。
今日20年ぶりくらいに縄跳びを買い、息子はあんまりできないので
私がぴょんぴょん跳ねていたらなんだかあったかくなって楽しくなった。
これエクササイズにいいんじゃない?それにこれ一本で電車ごっごができるので
歩かない息子を「機関車だー!」とかいってつなげばけっこうな距離を
走ってくれた。恥ずかしい親子だけれど息子が歩いてくれるのならば
もうなんだって構わない。(たまに我らは飛行機だー といって
両手を広げてどっちが速いか競争しながら走って帰る。そうしないと歩かないから)


 だからこれからもっと一緒に遊ぼうかなあ
ちゃんとこっちも遊べばいいんだ そこには私にとっても学びがある。
やっとそんな年になってくれた蓮太郎。「僕もバトミントンしたい!」というけど
あんたとバトミントンしてもねえ、、、と母は思ってしまうけど。
(でもサッカーは相当うまい!ドリブルもできる3歳児。)
何かがないならないなりに 想像力を使えばいい。
それこそが一番大切かもしれない。想像力でよだれが出たら
もうそこに行ける日だって来るかもしれない
(かつて息子と行ってた公園でハンドルをまわしながら
「ドイツに到着しましたー あービールが美味しいなあ!」とか
言ってたらいつの間にかフランスに行くようになった)
だったらごっご遊びを沢山すればいい。
お金持ちになっちゃった!とか 飛行機がパリに到着したとか
モンマルトルのカフェでショコラを飲んでいますとか?
想像力って大事なことだ。それを働かせて何かをつくる
ないところからやってみる それって本当に大事なことだ


 なーんだ ないからこそできることもあったんだ。


 そんなことを学ばせてくれた蓮太郎。
息子がいるから笑っていられる 私の隣でぐーすか眠る
蓮太郎はとても愛くるしい。

再び異なるものの見方で

2011年10月15日 | 子どもから学ぶ


 信じる というのはどういうことなのだろう
そうかも と 思えるというのは一体どういうことなのだろう
何かに合点が行くというのは その人の価値観や体験に
それがそれなりに説得力を持ったものとして
映っていたからで だからちょっと半信半疑で
そうかなあ そうかもね?と思って人は新しい価値感を
受け入れてみようとするのだろうか。


 最近私は 私って頭がおかしいだけなのかしら
 
 と思うこともよくあって でもまあ普通に人と
話は通じているし どうなのかわからないけれど
なんだかまた ボーヴォワールやブルトンなんかが読みたいなあと思う。


 世の中には 世界を変えた人がいる。
ボーヴォワールもブルトンも スティーブジョブスも
そういう人で そういう人たちは まわりの人とは
かなり異なるものの見方をしていて まわりから
おかしい人だと思われていた だけど彼らにとってみたら
まわりの方がおかしいんじゃない?と思うことも
多かったろう どっちが正しいとかではないけど
ジョブズについてはよく知らないけど
私はブルトンとボーヴォワールが開いた世界は
もっと追求されてしかるべきなような気がするな


 結局彼らは それはジョブズもそうかもしれない
「人生こんなもんなのか?」ってそう思ったわけだろう
ブルトンは嘆いてた。「幼児時代が終わってしまったら
人生はもうくすんだものでしかないのだろうか?」
だけど彼は最終的にはこう言えた。「私は今まで
私が夢みたように生きてきました、、、」
(こんなこと言ってみたい!)
ボーヴォワールはこう言った。「私は毎日
少しずつ高みに向かって生きていた。窓辺に映る女達の生活が
私の身にも降りかかる運命なのだということに気づくと
私は不安にかられた。私もこうなる運命なのだろうか?
いや 違う 私の人生はどこかに到達するのだ。」


 「こんなはずじゃない 人生はもっと違っていたって
いいはずだ、、、」ときっと彼らは想い強く願い
何かを想い描いてみたのだろう。ブルトンとボーヴォワールがしたことは
彼ら自身がかたくなにとらわれていた固定観念からの開放だった。
彼らはとても とらわれている人だった。
藤田だってそうだった だから彼は パリで
日本からもってきた絵の具箱を叩き付け
今までの人生を捨てることにした。


 私もずっととらわれていた。 自分を縛っていたものは
日本的な固定観念だったけど それにとわられがんじがらめに
なっていたのは 他ならぬ自分自身で もしも誰かが
「そうじゃなくてもいいよ」と言ってくれたとしても 私自身がガチガチに
縛られてたから ほどくことができなかった。


 彼らはパリで カフェという自由な場に会い
圧倒されて 目が丸くなり こんな世界もありなのか!!!と
本当に驚いた。私も昨年の6月にパリのカフェのテラスを眺めて
なんだか本当に驚いた。そうしてパリのカフェに出会って人生を変えていった
マンレイなんかはこう言っていた「芸術家がするべきことは
自由と快楽の追求であるべきだ。苦しんでいる芸術家がいるとすれば
それは束縛から自由になっていないのだ」これは彼自身も
とらわれていて かつ開放されたから言えることなのだろう。


 とらわれから開放されてものごとを全く違う視点で
眺めてみたら どうなるのだろう。 私は21世紀の思想に
興味があったけど よく考えたらガチガチに20世紀どころか
近代の 計れるもの 目に見えるものの思考にとらわれていた。
だけど5次元があったなら?本当は パリにいた彼らが
感じたように目の前には2つの異なる世界が広がっていて
地図で計れる「実際の」距離なんて 簡単に超えてしまえる
何かがもしも あったなら?心理的距離感が「ぐわん」と
近づきなにかが揺らいでしまったときに そんな距離なんて
もしかして意味をなさないのでは と思うこともあるのだけれど


 子供たち は 自信に満ちて この世に生まれおちてくる
彼らはどこからやってきたのだろうか?それすらもよくわからない。
彼ら子供はあんなにも自信があって柔らかい頭をしている
そこに大人達はがんじがらめな価値観をつめこんでいく
その教育はもう2歳くらいからはじまってるから
学校に行った頃にはその子の頭もそういう色に染まっているのだろうけれど
私たちが教わって来た 世界の見方やものの見方が
数字や見えるもので全てをはかって 過去と未来が
存在していて 世界には沢山の国が存在していて
戦争が絶え間なくって 世界はとても難かしくって
だから身を守ることが大切で、、、


 そういう不安な価値観に 何かを信じられなく
なってしまったから 目にみえるものを頼りにすれば
大丈夫なんじゃないかというような そういう
不安や怖れからはじまっている価値観に 私たちは
染められていく やれあれが必要だ 家も買って保険も入って
おそらくそれが とても大事なことなんだけど
でもそれが 本当に?本当に どれくらい大事なことなのかは
私にはなんだかわからない。


 私はずっと不安で自信もなかったけれど
子供というのはどうやら普通 相当な自分は愛されている、
愛されてしかるべきという自信をもってこの世に生まれて
生きて行こうとしてるらしいというのが最近わかり
じゃあ私はどこかでそれを失ってしまったのだけど
子供のような自信とこわいものなさをとりもどして
カチコチの大人と違う見方でものをみてみたら
一体どうなるのだろうというのが気になって来た。

 私たちは 子供に自分が教えることができると思っている
だけど全然違う答えがどこかにあるかもしれない
それを子供はヒントとしてもっているかもしれない
世界はこうだと教えられて来たけれど
もしかしたらそう思っている限りはそう見えるけど
違ったものの見方をしたら違う解答がでるかもしれない

 今は脱皮の時期なのだろうか
人間にもっと可能性があるのなら
もっと本来の力を出して多くの人が幸せになれる
社会や生き方がありうるのなら 私はそれを探りたい。

蓮太郎から学ぶ

2011年10月14日 | 子どもから学ぶ


 れんたろうって、、、 どーしていつも
こんなに幸せそうなんだろう??!というのは
彼が生まれてこのかた3年間のかなりの疑問で
それはさすがに私一人が感じることではないようで
うちの家族も「れんちゃんはいつも幸せそうだねー」と
ちょっと不思議そうに言っている。

 自分の引き寄せの法則のことはなんとなくわかるような
気がしても 他人に関してはわからないから
蓮太郎の笑みがまた幸せをひきよせもっと幸せになるのか
どうかはわからないけど 彼はアッハッハー!!と大口を開けて笑い
嬉しい時はやっほー!!と言い まあ泣くときは大泣きだけど
喜怒哀楽がここまで表現できたらなんか楽しいだろうなあと思う。
彼はなんだか 日本人というよりフランス人に近いのだろうか?


 最近はアイパッドのお陰かポジティブシンキングのお陰か
多分相乗効果なのだろうけれど アイパッドを買って以降
おそらく2週間くらいほとんど蓮太郎と喧嘩も悪いムードに
なることもなく 仲良しを続けられている!これは
私の3年間の育児の中では奇跡に近いことなので
なんだかものすごく嬉しいんだなあ そして蓮太郎が本当にかわいい。


 愛 って一体何なのだろうと思うけど
私にはまだわからないけれど 自分への愛というのが大事らしいことは
最近になってようやく知って 自分が自分を認めて満たしてあげることで
ようやく人に愛情をもって接することができるような、、、


 そりゃあ人にもよるのだろうけど
日本で「母」になってみると 特に「もう私はこれなのよ」という
仕事をやってきてそれに復帰というわけでもなく なんとなく
流れで専業主婦みたいになってみると より一層
「主婦として」とか「母として」プレッシャーみたいなのが
強くなり 「よき母であらねばならない」「こうでなければ!」
というのにがんじがらめになってくと 本来の愛情から接するよりも
義務感とか やらなきゃ という気持が強くて
自分のこころはもう「助けて!!」と叫んでる そんなことがあるような。


 今日は蓮太郎とよく行く外国風のおもちゃやさんに来てた
若そうなお母さんが「旦那があんまり帰ってこなくて大変なの
家では鬼みたいになっちゃうの」と言っていた。鬼みたい?
あーなんかそれよくわかる。ママサークルにいた人たちも
「怒り始めたらもう止められなくなる」と言っていた
そう 私だけでは決してなくって 特にママになって以降
感情のコントロールができなくなってしまう人はけっこういると思う。


 さて そんな人はどんな人かと思ってちらりと見てみると
なんだかきれいなお母さんで とても鬼なようには見えない。
やっぱなあ こういう公共空間にいると みーんな
うまくいってるように見えるけど でもフタをあけてみて
密室空間で母子2人になってしまうと そんなにバラ色じゃないんだな、、、


 そんな時 に 日本では 「あなたのことを大切にしなさい」
というよりも「子供をまず大事にしなさい あなたは二の次」と
いう風潮が強くって 誰かのために ずうっとやってみるけれど
そこで自分への愛や自分の欲求が満たされてないと
いつまでたっても子供がなんだかうっとおしく思えてしまう
そんな気がする。


 そこでアイパッドを、、、!といいたいわけでもないけれど
私はアイパッドのお陰でずい分変わった。まずスケジュール管理ができて
それまでは小さい手帳で十分と思っていた自分の人生、しかも
追われてて時間がないと思っていた自分の生活に
意外と空白が沢山あることがわかった。じゃあ
明日は何しよう この1週間は?じゃあ今日は?
今晩、今からどうしよう という予定がたてられるようになり
だいぶコトを自分で進められるようになってきた。
これは本当にありがたい。

 それから「子供がいるから遠くて行けない」と思っていた
アクセス不可能に思えたものたちが急に身近になってしまった。
今では電車の中でもルモンドが読めるし ちょっとお金を払えば
フランスの雑誌をダウンロードできてしまう。「飯田橋まで行けないから」
とか「東京に住んでないから」という理由ではもうなくなった。
読めないって?それは読む気がないか語学力がないかのどっちかです!
ハイ その通り、蓮太郎のせいじゃありません、、、ということになる。


 それに子供向けのおもしろいアプリが多い。私が嬉しいのは
お金持ちじゃない人の子供でもインターナショナルな教育に
手が届きそうなこと。例えば私たちのよく行く外国のおもちゃ屋
ボーネルンドは知育玩具が沢山あるけどみんな高い!!
ただで遊ばせてもらえるから嬉しいけれども買えないなーと
思ってた。でもアイパッドで外国のアプリを探すと
似た様なパズルとか形探しゲームとか、私がとても
気に入ってるのはフランスのアルファベットを覚えるゲームで
それは音が出るので蓮太郎も楽しく触れ、私は時間のあるとき
発音をきいてスペルチェックをやっていくということができる。
これで350円。 それにフランスの子供むけの読み聴かせ絵本があって
これは向こうのプロがしゃべってくれるし 私は訳して読み聴かせ
なんどかやるうちに蓮太郎も単語を覚えて面白い。
これで1冊170円!素晴らしい。。。
ちなみにひらがなのアプリもあります。カルタとかついてて
おもしろかった。こちらは無料。


 理由を数え上げたら切りがないけど
「~だからできない」と思ってたことが「え?できるじゃん!!」
になってしまった。あとはやるかやらないか が自分の
選択になってくる。それでもやらなかったらなんだやっぱり
自分の想いはそんなもんだったのか というのがわかって
納得がいく。それに軽いから持ち運び便利!子供が寝たとき
カフェでさっと取り出して さーて今日は何するんだっけと
なんだか焦りがなくなった。これってとっても不思議だなあ


 そうすると息子にも優しくなれて いっぱい笑って
いっぱい遊んでいっぱいアホなことをして
今日は公園でピクニックしてボールを蹴ったり
坂からミニカーを転がしてみたり。先日も2人で
多摩川沿いでピクニックして、高島屋を覗いてみたり。
我等はいろんなとこに行くけど 役所や郵便局や
病院やらでひたすら絵本を読んでいたらこの1ヶ月は
今迄でいちばん絵本を読んだ様な気がする。
やっぱり我等はノマドみたいだけれども 家の
外にいたってこれだけ絵本を読む機会はあるし
公共の施設やおもちゃ屋さんでこれだけ遊べるのなら
おもちゃ買わなくてもいいんじゃない?と思ったりもする
歩いて 笑って バカなことして 歌を歌って
ボールを蹴って 息子が寝たら勉強をして
そんな生活も悪くない。

息子から学ぶ人生の楽しみ方

2011年09月09日 | 子どもから学ぶ


 我が息子 は みなさん写真でご存知の通り
笑顔がウリで ブログを見てから会った人にも
「まあ写真の通り 本当によく笑うのね!!」とだいたい
いつも言われるように まあよく笑っている訳で


 かつての私は どーしたらこんなに笑えるのかな
どうしてこんなに彼は人生が楽しそうなんだろうと
思ってた。当時の私はかなり「犠牲の母」だったので
子供が産まれて「母」という身分になって
それでしかない自分になって 得体のしれない苦しみがあり
(でもそれは私だけではなかったことが高校時代の
同級生で子育て中の人たちにあってよくわかりました)
そこから抜け出したい、本当はこんなの嫌だ、という
気持で一杯だった。壁のような団地に囲まれ 三輪車を押しながら、、、


 さて、最近は色んな心境の変化があって
まあ多分 パリに行って変な人たちに会って来て
帰って来てから「私はそんなに変じゃない」と思ってたけど
どうもそうではないようで いろんな現実が変わり始めて
もうこうなったら仕方ない。どうせ私はおかしいですよと
思い始めることにした。最近なんて 自分でもたまに
頭おかしいんじゃないかと思うことがけっこうあるけど
でも私の好きな人たちは(ボーヴォワールとか藤田とか)
自分は頭がおかしいんじゃないかと思ってたこともあるわけで
まわりからもおかしいと言われたことはあったけど
だけど彼らはそれでも何かを貫いた。


 
 不思議なことに 京都のニュータウンに居たときは
普通のママであることをへんに心がけ ママサークルに行っても
ほとんど自分を出さず、私はそんなに違わないというか
無理に合わせようとしてがんばっていた
(でも客観的にみたら相当浮いていたんだろう)


 それはやっぱり自分に自信がなかったりとか
「合わせなきゃ」という雰囲気の中 向いてないけど
いいママを演じようとしてみたり なんとか主婦であろうとしたり
私は私なりにがんばったけど それは演じてただけだった。



 今私の置かれてる状況は 素晴らしいのか 素晴らしくないのかは
わからないけど でも先日本当に子育てで自分をほとんど
なくしてしまって かなり苦しそうな状態にいる友人と会い
痛いほどその気持がわかって お茶をしながら色々話をしたけれど
私は少なくともあの状態から脱出させてもらえただけ フランスに
行かせてもらえてよかったんだなあ と 思った。
私はどこか違う世界にピューンと飛び出してしまったから
今は違う世界から彼女の置かれてる状況や 過去の私が
置かれてた状況の苦しさが 客観的にわかるようになったみたいで
その選択が この先にもいいものをもたらしてくれるのか は
神のみぞ知るわけだけど それでも私は私になった
自分 というのを思い出した それだけで大きな収穫だった。


 そうして私はまた今度日本に帰って 自分が人とは違っていること
自分はどうやら変であること それをついに認めざるを得ない時がきて
「もういいよどうせお母さん変だもん!」と思ってしまうと
これはかなり気が楽で 「どうせ変ですよー」と思うと
人目を気にしないで済むようになる。それに息子も変なので
2人で変なことをしてると楽しい。それがわかった。


 私はかつては「真面目が服を着たような人」と言われたりも
してたけど 今でもきっと根は真面目なわけで バカ と言われるのが
怖かった。私は頭のいい人に憧れていた。でも最近のフランス滞在で、
どうもインテリジェンスとバカは両立可能らいしということが
わかった気がして そうさ、最新の教育学では「遊びこそ学びだ!」って
言ってるんでしょ?なら誰に遊びを教わるかって 子供に
学んでこそじゃない?というわけで 私は人生の楽しみ方を
息子に教わることにした。


 そして秘訣はどうも思いっきりバカなことをすることじゃないかと
私は学び だからお風呂の中でも思い切り遊び 外にいっても
2人で飛行機のマネして長い距離を走って行ったり
変なポスターや変なものをみては「変だねえ フランスみたいだねえ」
といって笑ったりして そうしていると なんだかけっこう面白い。
いかにして楽しむか いかにしてバカなことをするかというのは
やっぱりかなり頭をつかうことらしい。インテリジェンスと怠け者が
両立するというのも多分そういうことなんだろう。
私は産後しんどくて あまり動きたくなかったから
できるだけソファーに寝転がったまま動かないで かつ
息子を喜ばせるすべを考えていた それでいろんな遊びを
生み出して それで彼は笑顔になった そんな気がする。


 「れんたろうって変だねえ だからフランスで
へんたろうって言われるんじゃない?(フランスは
Rの発音がHみたいになるのでそう聞こえる)」
「へんたろうってよく言われちゃう あはははー(満面の笑み) 
でも ママも変だよねえ?」
「そうだねえ みんな変だねえ」
そんな会話をしょちゅうしていて なーんだ
変だと思ってみると どうせ変だしと思ってみると
なんだか気が楽だなあ。前は「私は別に変じゃない」とか
「私は普通だ」と思ってたけど自分でも
私はおかしいかもしれない と 思ってみると
人にたとえそう言われても 「まあそうですよね
私もそう思います」としか言いようがない。
でもおかしいよなと思ってる時に 奇跡が起こることもある。
普通では考えられない様なことがありえてしまうこともある
だからなんとも判断できない そんな気もするのだけれど。


 息子がいるからできないことも山ほどあると思ってた
でも逆手にとったらこんな息子がいるからこそ
できることも沢山あるはずで それはやっぱり
相手と一緒に楽しむことだ。なんせ一人じゃバカはしにくい。
でも2人だったら一緒にアハハと笑っていられる
明日もなにか 面白いことあるかなあ
いろんな発明 いっぱいバカなことを考えて
一緒に日々を楽しみたい。


 

蓮太郎から学ぶ

2011年08月17日 | 子どもから学ぶ


 我が息子 蓮太郎の特徴はといえば
いつも笑顔でとても愛くるしいとこなのだけど

 この笑顔を失わないためなら何でもしよう
と かつて子育てばかりしていた時に思ったものの
2年前のそのころノートをみると「蓮太郎、
生きるって楽しい?」と書いてある。
どうみても かなり重症な感じの言葉、、、


 そんな母に育てられながらも 彼は
ものすごい笑顔の子に育ち 今日は
私も彼から学ぼうと 人生を楽しむ秘訣
いつも笑顔でいる秘訣ってなんなのかなと
観察していた。 観察するだけではもちろん
だめで 一緒に笑わないと損だから
蓮太郎が笑ったらとりあえず私もアハハと笑う。
かつてはただ彼につられて笑ってただけだったけど
今では蓮太郎がいてくれることのありがたさが
身にしみてよくわかるので 本当に嬉しいなーと
思いながら一緒に笑わせてもらってる。


 さて どうして蓮太郎は いつも楽しそうなんだろう?

 目の前にいる彼と私は ほとんど同じものを
見ているわけで 例えば彼が水遊びをしているときに
私も足をつけたりしていて 環境はだいぶ同じなんだけど
1個すごい違いというのは あれこれ頭で
遠い先のこととかを考えていないというのがあるのだろう


 蓮太郎は 遊んでいる時 そのことを存分に楽しんでいる。
この水が気もちいいとか 葉っぱを使って何かしたら
面白いとか それを頭にのせてみたらどうだろうとか
どうやったら面白いかな?どうやったらもっと楽しいかな?
どうやったらもっとおかしくできるかな?
と 目の前のものごとに対してそう取り組んでいるように思える
(まさにプレイフルシンキング?)


 私はというと 同じ環境にいるときに
将来の不安とか あーどこそこに行きたいなとか
頭をつかって 本当はどうでもいいことを考え始め
目の前の同じものをみてても「すごい楽しそうな対象」というより
「そんなもん」くらいになってしまっているのかも
それで脳みそは違うことをつい考えてしまう、
でもそれじゃあ目の前のことが楽しくない!!
(でも昔公園の遊具でハンドルを握った蓮太郎と
「じゃあドイツに連れて行ってくださーい
ああビールとソーセージが美味しいなあ」とか
やってたときは楽しかった)


 この2日ばかりは蓮太郎の存在にやたら
感謝しているからか 彼に笑顔をわけてもらおうと
思っているからか とにかく彼が楽しそうなときは
一緒に楽しもう!と思ってて そうやって
自分も一緒にバカになったり もっと蓮太郎を
笑わせようと思って何かを考えたり発明したり
そうしているとても面白くなってくる
私 バカって 馬鹿なんだわ と思っていたけど
息子はよく「この子は頭がいい」と言われるのだけど(親ばか)
バカができるって 頭がいいってことなのかなあ
それだけ発明できないと バカには簡単になれないもんなあ
そうして息子とバカをしている それがなんだかとても楽しい。



 そうなんだー 頭で他のことを考えないことね
目の前の対象のことばっかりで そこで楽しむことなのね
あとは想像力とか発明すること?
それにしても我が子はいつも笑って偉いなあ
悪いとことかないのかなあ?と思っていたら
あったあった 息子はよくいじけて泣くのであった。


 さて、今晩いじけモードが全開になると
いつもは笑顔!!の蓮太郎もネガティブスパイラルがはじまって
だんだん全てが哀しくなるらしい。 そうすると
ないもの探しがはじまって そう、それすると
自分ほど哀しい存在はないように思えてくるよね
でもそのネガティブモード全開の息子を隣でみていると
ああそうか これはよくない。そりゃあ
笑ってくれてる方がいい それだけでよっぽど
まわりは幸せで こんなにも気を使うのと
自分で勝手に気分を変えて ケラケラ笑ってくれるのだったら
自分で一人で笑ってくれる そんな人のほうが
いいよなあと とても納得がいってしまう。


 ネガティブモードになる気持はよおくわかるのだけど
それを隣で見ていると「でもあんたこんないい環境に
いるくせに!」と思ってしまう。あーそうか
私のまわりの人で私にそういうことを言ったひとたちは
今の蓮太郎を見ているような気持だったということか
それは状況が本当に最悪なんじゃなくって
あんたの気持がものごと全てをそう見てしまってるだけなんだよって
そうだよね そういうことなんだ。


 そうしてまた息子がケロリと笑顔になると
まわりの人もまた笑い 息子はアハハ!面白ーい!と
大声で笑い始めると まわりもつられて笑い始める
蓮太郎 あなたは人を幸せにしているよ
今更ながら 私は人生勉強中で お腹から出て来た息子に
いろんなことを教えられ 人生をもっと楽しめるよう
あなたみたいに笑って毎日生きられるよう
今は君から学びたいです 明日もまた 沢山一緒に
アッハッハ!って笑いたい そしてそれから
私も一人で あー面白い!あー楽しい!って
自分から笑い始める人に なっていけたらいいよなあ
蓮太郎 いてくれて本当にありがとう。

子供の強さ

2011年06月07日 | 子どもから学ぶ

 私が子供を産んだのは
子供から学べることがきっとあるのだろうと
思ったからでもあったはず で 最近は
不安な時とか 蓮太郎 本当にいてくれてありがとうとか
もしかして彼がいなかったらフランスにこんなに
長く居れてないかも?とか思うこともあったりもする


 そんな彼とパリの公園に行ったりしながら
フランスのはちゃめちゃなエネルギーのある
子供たちをみていると(やつらは集まると
めちゃくちゃうるさい!!)なんか
子供って すごいんだなあと思わされる。


 例えばけっこうレベルの高そうなアスレチックが
あったりしても 怖い物なしで仲間達と
いろんな風に身体を使って遊んだりして
私なんか そんなとこ行くことですらこわいのに
8歳にもならないであろう子供達は いろんなことを
ひょいとやってのけ「ちょっとそこのちびっ子
邪魔なんだけど」と言いたげに 走り回って何かをしている


 子供って 怖れとかないのかなあ??


 私は最近子供を見る機会が山ほどあるので思うんだけど

 どうして子供が言葉を覚えるのが早いのか
どうしていろんなことがあんなに簡単にできるようになってしまうのか
それは若いだけじゃなくって 怖れとか 壁を自分でつくっていない
からなんじゃないかと思ったりする。


 私はまず先に怖いと思う。そして不安になったりもする
例えばベルヴィル公園という、めちゃ長いすべり台がある公園で
息子が滑り始めた直後に体勢を崩し 頭からすごい勢いで
滑り落ちてしまった時に後ろから追ってた私は青ざめた。
このままでは息子は死んでしまう!!!本当にすごいスピードだった
どうしよう 助けなきゃ!と思ったけど 彼は私より
よっぽど早くて おそろしい着地の瞬間 たいして
何事もなかったように うまく手をついたのだろうか
泣くこともなく着地して 私はほとんどパニックだったから
その瞬間がよくわからない。けれども彼は元気で心配そうな
私を見ながら平気だよーみたいな顔をしていた。


 「あ あんた 怖くなかったの???」

 私はとっても驚いた 息子はまだ三歳にもなってないのに
母よりなんだか勇敢で 今日もラビレットの子供館みたいな
すごい遊具(教育 科学的遊具みたいなの)がいっぱいあるとこに
行ったのだけど そこで木製の工事の機械がいっぱいあって
クレーン車をうごかしたり 家をつくったり
手動でいろんな機械を子供達が動かしていて
なんだか「きのくに」という かつて見学しにいった
自由学校みたいだなあと思ってしまった
子供って 家も作れるんだよね
それにそういうの したいと思ってるんだよね
しかもやらせたらけっこう上手だったりするわけで


 なんかすごいなーと圧倒されて見てしまう


 きっと彼らは勇気があって しかもあまりバリアがないから
パリの幼稚園児のおにいちゃんの中に勇気を出して混じって行った
息子のように ちょっとしたら なんとなく意気投合してみたりして
それから吸収してみたりして そうしてぐーんと成長していく
かつてそんな子供だった私は6年生の時に国連のことを学んで
こう思ったことがある「みんな仲良くすればいいだけじゃない?」
きっと 本当は 仲良くすればいいだけなんだ
だけど大人になると 宗教だとか お金のこととか難かしそうなことが
たくさんからんで 「そういうわけで無理」になることが沢山で
本当のところはどうなのだろう
大人にとって 重要そうにみえる しかめっつらをしながら話さないと
いけない複雑なことというのは 本当はどれほど大事なのだろう


 子供の心 子供がもってる好奇心や素直な勇気や素直な気持
それらに私は圧倒される でもそれは大人に守られているからなのかなあ?
不安や怖れというものが そんなに大きくならないで
「面白そうじゃん やってみよう」と 子供みたいに
やってみれたら 何かはちょっと変わるのだろうか
いつからか私はくそ真面目で一歩引いた人になってしまっていたけど
やってみて 進んで行ったら面白いことも多いのだろう
大人になるって何なんだろう 子供から何を学んだらいいんだろう
なんだかよくわからないけれど 子供はけっこう おもしろい。

蓮太郎と二人旅

2011年02月13日 | 子どもから学ぶ

 最近はパリから帰って来てから蓮太郎と探検ごっこに
はまってて それというのも普段私と二人では
ほぼ決して歩くということをしなかった蓮太郎が
父母のもとでは実家から駅まで歩いていたというのを
知ったから で もしいつか パリに行くなら
ベビーカーは使えないし 三輪車もちょっと非現実的かも
しれないと思うから ここは鍛えさせるしかない!と
これを機にがんばっていた。

 
 息子をソムリエにしようかとか 探検家にしてみようとか
旅人になったらだとか 料理は仕込んでおかないととか
いろんなことを思うけど 我が子はけっこう私に似ていて
探検するのは好きらしく「探検行く?」と言うと必ず「行く!」と
言い返し やっぱり行かないことにしたりすると
けっこう後で文句を行ってるような気がする。


 
 さて そんな息子とちょうど機会があったので
瀬戸内海に住む友人の家に遊びにいってみようかと思い
それなりに心づもりをしていたら 二人旅の前日に
ちょっと探検しに行った西京区のお寺に行く途中で出会った人が
「連休は天気が大荒れですよ 旅行はやめたほうがいい」と
歩きながら忠告してくれた。え、そんなあ。。。


 何も知らなかった私はその後も近所のカフェで
天気予報を聞いたりしたけど「雪 雪 雪!!」とのことで
それじゃあだめかあとがっかりきていた。
でもなんとなく 今がタイミングな気がしてて
そりゃやることも積もっているけど 今は頭を空にしないと
いいアイデアすら生まれない そんな気がして
気持的には行きたかった。でも当日の朝は大雪で
蓮太郎は風邪っぽくって やっぱりだめか、、、と
諦めて 「もうお母さん 一人で行こうかな 蓮太郎
風邪みたいだし、、」と言ったら「蓮太郎風邪じゃない!!」と
言い張る息子。 「本当に?本当に行くの?新幹線いい子にできる?
疲れても「蓮太郎もうあるけない 電池きれちゃった、、」
って言わない?言ったら置いて行くからね!」
「お父さんとお留守番する?」「しない、行く!!」と一点張りで
仕方がないので子連れでも一人で行っても電車賃は
変わらない し そういえば最近は一人で旅するよりも
蓮太郎といる方が面白いかもしれない 
そう思って出かけて行った。


 大雪の中 ザックを背負い 長靴をはかせ
雪にそなえてスノースーツまでザックにいれて
2泊3日の旅に出た。さすがに一人でこんなことを
するというのは私もはじめての経験で
私にとっても大きな経験 彼にとっても大きな経験
おたがい沢山成長をした。
(ちなみに乗った乗り物は新幹線、バス、車、
ローカル線、ロープウェイ、レトロバスと船!)


 なんとこの旅の最中に いつも「抱っこ抱っこ!!」の
蓮太郎はほとんどそんなことを言わずに 尾道の千光寺から
下の道まで全て自分の足で降りて来た。どこまでも続く階段を
おっとっと っとといいながら 駆け抜けて行った私たちを
まわりの人は笑ってて 私たちみたいなバカな親子は
どこを探してもいないけど なんだかほほえましかったみたいで
電車でも沢山の人に話しかけられて面白かった。
蓮太郎と私はバカ親子なんだけど 
そんなことをやってると まわりもだんだんバカになっていく
それがなんだか面白い どうやらバカって伝染するんだ
そして周りがいい表情になってゆく
それってけっこう 素敵だなあ


 友人の家に行っても 愛想のいい息子はすぐに
友人夫婦と仲良しになり 沢山一緒に遊んでもらって
寝る時もほとんど夜泣きもなくて 基本的には
よく眠ってた 眠れなくってどうしようと思っていたのは
親の私なんだけど、、、


 息子は私の手をひいて 私は息子の小さな手をひいて
二人で一緒に街を歩いて 時には街を駆け抜けて行く
尾道に向島に生口島 に 鞆の浦 で 私たちは美しい
景色をみつめて きれいだねえと言い合って
2泊3日で信じられないくらい沢山の人に出会っていった
家族でどこかに動いていたって出会いはほとんどないけれど
母と息子が二人でどこかを探検してると
本当に世界がこちらに開かれてきて
あの笑顔に引きよせられて 沢山の人が話しかけてくれる
今日なんてついに彼は鞆の浦で写真をとられてモデルになって
それをとったおじさんが喜んでお駄賃をくれるほどだった

 そして貧乏な母はといえば そのお駄賃で息子に
甘酒をおごってもらって 二人でお店で半分こ。
いつの日か 息子と地中海にも行けるかなあ
いつの日か ノルマンディにも行けるかなあ
船が見たい また海が見たい
美しい景色がみたい それできれいだね って言っていたい
沢山の写真をとって 写真を何かに活かしたい
ずっと一人で旅をしていた そんな私の相棒に
息子はなってくれるのだろうか

 本当に彼はよくがんばった。息子はまだ2歳6ヶ月だけど
夜中に電燈のない道を懐中電灯で照らしてくれて
なんだか息子が心強かった 私は一人じゃないんだな
これからも彼があの笑顔で笑っていてくれるように
出来る限り 一緒に楽しく生きていたい。

子供とはなれて学ぶこと

2010年10月24日 | 子どもから学ぶ

 今週の水曜の夜、あまりに言うことを
きかない息子に本当に嫌気がさしてしまって
「もーそんなことばっかり言うんだったら
お母さんが出て行くからね!」と言ってた私は
旦那が家に帰ってからもしんどくなって
プチ家出をしてしまった。
といっても1時間くらい外をぶらついただけなのだけど


 すると帰って来たら息子は即座に「ごめんなさい」
とあやまって ちょっとはわかってくれたのかなあと
思っていたけど 次の日の朝も私はしんどく泣き出す始末。
そんな私を見かねた旦那は「じゃあ今週末は実家に行くよ!」
と土日に私を一人にしてくれることにした。

 「じゃあ朝の4時から行くから、、、」
はあ?朝の4時?なんでそんなに早い時間に
もっとゆっくりしたらいいのに、、、
と案外淋しくなった私には脇目もふらずに
彼らはさっさと出て行って なんだか
置いてけぼりをくらったような 私は
ちょっと淋しくなって さて2日間も どうしよう。


 はじめての一人暮らし?
どこかに行くなら別だけど
ポツンと家に取り残されて
どうしていいのかわからない。
いやいや研究しなければ
そのために時間をもらったわけだし
そうは思えど「2日間!!」
何だか長くてまるで大学院時代のように
あまりに時間が存在するから
逆に何から手をつけていいのかわからなくって
結局のところ何にもできない なんだかそんな雰囲気だ。



 さて そんな2日間 結局昨日は
カフェを3軒巡ったりして
1軒目では研究をして 2軒目では
カウンターにすわり お姉さんに
主婦生活の愚痴をもらしつつ
彼女の壮絶な専業主婦時代の話をきいて
「大変なのはみきちゃんだけじゃないのよー」と
慰められる。そしていつか子育てについての
文章を書きますと約束し
お姉さんは励ましてくれ なんだかちょっと
元気になった。

3軒目に行ったカフェでは
私の本を置いてもらっているのだけれど
「お客さんがかなり手にとって読んでますよ!」
とのことで またまたちょっと嬉しくなって
このあたりからシンクロニシティがおこりはじめて
ちょっと面白くなってきた。


 さて最後にフランス人の友達の送別会が
あったのだけれど 知り合いも一人しかいないし
彼女は他の人と仲良さそうにしゃべっているし、、、と
思っていたら たまたま隣に座った人と
やたらなんだか話があって それから我らは3時間
他の誰とも会話をしないで ひたすらずっと話つづけた。


 彼女は日本人なのだけど アメリカに2年住んでいて
保母さんの資格も持ってて また年末からアメリカで
働くのだといっている。こんな若いのに
子育ての話ができて しかも保母さんだし
幼児教育を学んでいるからかなりいいアドバイスをしてくれて
ああそうなんだ 怒ってても効果ないんだ
そうか 寄り添うことなのか、、、と学んでみたり
いっしょに茶化したり遊べばいいのか と納得をする。
彼女はこう言っていた。「結局ね 大人が
早くしなさい!とかって怒るのはたいていが
大人の理由なんですよ」 はー なるほどなあ
よりそって 子供の視点にたってみること
「いい子にしなさい!!」とやたら叱ってみていても
子供の顔はどんどん曇ってくばかりだし
彼らはやたらと抵抗するし どうしようもないんだそうな
「そこは大人が根負けしますよ。だからどう
機転をきかせるか、どうもっていくかなんですよ」

 そうなのか、、、 大人が成長するって
そういうことか。


彼女とは山ほど話すことがあり
とっても話があって本当に驚いたけど
別れ際に駅の近くで話していたとき
そういえば「教育」「遊び」「学び」「カフェ」、、、
あれ?私が知ってる先生達が「大人の遊び」って
いってたな、、、と思い出す。


 そこらへんから何かが私の中でつながりはじめた
ような気がして、カフェ、遊び、子供から学ぶこと
遊ぶ姿勢、遊びで子供は学んでる、、、
遊び って 一体どれほど重要なんだろう?
「大人」になると 「遊び」なんてほとんどなくって
私は最近バカになれてきた方だから
けっこう遊べてる気もしてたけど
「ちゃんとしなきゃ!!」と意気込んでしまい
「ああしなさい こうしなさい!
あれもだめ これもだめ もう全部だめ!!」
みたいになってしまうと遊びどころではなくなって
「遊び」も子供の想像力も なんだか
「時間の無駄」に思えてしまう。


 それじゃあ たぶん だめなんだ、、、


 ここは 私 変わるべきかも、、、
よりそうことか、、、そうしてその世界を
一緒に体験することか、、、 子供は小さな
ブロックで遊んでたってそこに宇宙を見ているらしい
そんな豊かな想像力を 一緒にもつことができたなら
それだけで私もわくわくできるし(実際子供と
運転ごっこで遊んでいたとき「ドイツに到着でーす
ああソーセージがおいしいね!」と言ってみただけで
なんだか解放された気分になって
ちょっとわくわくしたりした)私の思考が変化しそうだ。

 そう だから 「時間がない!」とか「早くして!」とか
「時間を無駄にしてる気がする、、」と思わずに
子供から学んでみること 子供と一緒に
その世界に入って遊んでみること
そうすることで カフェ文化を研究している
でもまだまだきっと頭でっかちな私が
きっと気づける 何かが待っているのだろう
シュールレアリストたちは幼児期の想像力ほど
すごいものはないのだ と言ってたし
きっとそれらと 創造力と カフェはどこかで
結びついてて それが何かはわからないけど
何かに気づくべきなんだろう。


 もっともっと 蓮太郎によりそって
蓮太郎の話をきいて 蓮太郎と考えること
一緒に世界を想像すること 
それをやっていたのなら
かちんこちんになってしまった 私の頭は
少しは子供のようになり やわらかくなって
ゆくのだろうか。

 「生産的なことをしてないような気がして、、、」と
子育てにかかりっきりのママはつい思ってしまうのだ
とゴゴのお姉さんは言っていた。
でも何が生産的かなんて その時点では
わからないわよ!と彼女は言った。
本当にそうかもしれない。
子供との遊びの中に 何かは隠れているかもしれない
そう 人生は どう導かれるか わからない。


 なんだかヒントがあった気がした
見慣れた三条京阪の夜の街角。
彼女と話して 私はなんだか一歩進めた気がする
たまたま隣の席に座った そんな不思議な巡り合わせに
感謝して もう少し 子供の世界を学んでみたい。

小さな存在

2010年10月09日 | 子どもから学ぶ


 我が家の小さな怪獣は
最近めきめき色んな能力を発揮していて
毎日毎日すごいなあと感動したり
この子天才?!と思ってみたり
いやバカすぎる、、、と思ってあきれはてたりの繰り返し。


 子供って、、、と思うことも
沢山あるけど 今日はぐずる彼を
子守唄で寝かしつけたら 久しぶりに
おっぱいをあげていたときを思い出し
あー 大きくなったんだなあと
その手のひらを握りしめてたら
愛しさがこみあげてきて
なんだかとっても幸せな気分になった。


 おっぱいをあげてるときは
ラプホルモンというのが出るらしく
あー愛しいなあ かわいいなあ
おっぱいが大好きなんだなあ
と しんどかったけど
あの顔をみる度に愛しくなっていた。

 そんなことが終わってからもう
1年以上が過ぎていて
思い返せば おっぱいが終了したから
私は私で少しは動きがとれはじめ
フランスに行けたりだとか
やりたいことに向かっていけて
それは本当にありがたいことだと思う。


 とはいえあの一体感とか
母と子がつながる感じ
あーいうのって よかったなあ
最近は別存在になってしまって
それはそれでおもしろいし
とっても可愛いのだけれど
ずっとぴったりくっつくことももうなくなって
なんだかちょっと 不思議な気分。



 蓮太郎は もう言葉もかなりしゃべれて
すごいレベルに達しつつある。

 例えば今日あった会話のサンプル。

 「お母さんきれいだね!」(ありがとう!
そんなことまで言ってくれるの?!
美容院に行った帰りにそう言ってもらえました)


(オレンジ色のブロックを小さなフライ返しにのっけて)
 「これケーキ。 食べてくれ」
「あのねえ 食べてくれっていうのは
蓮太郎より年上の人にいうのはちょっと失礼なんだよ
食べてくださいっていうの わかった?」
「わかった。ケーキ食べてください」
「ありがとう。美味しいね!」

 
 「あっがと」
「あのね 蓮太郎、ありがとうって言う時はね
なるべく人の目を見て言った方がいいんだよ。
その方が嬉しいでしょう?ありがとうとごめんなさいは
目を見て言うようにしなさい。ありがとうって言ってごらん」
「(目を見て)ありがとう」
「あら偉いねー!!」



 ちょっとうまく思い出せなくなっているけど
彼の日本語は相当な会話能力がもうあって
多分私がフランスに留学したときより話せるレベルで
本当にその能力がうらやましい。
ものの名前も うさぎとかワンワンだけじゃなくって
ペンギンにねずみ、はたまた かたつむりまで知っている!
もちろん車の名前ときたら ミキサー車に
クレーン車、ブルドーザーにゴミ収集車、
廃品回収車に高所作業車に蒸気機関車
彼はなんでもござれです。(今2歳3ヶ月)


 蓮太郎、、、頭いいね!
そんな蓮太郎に母は希望を抱き
将来は何になるかな?画家になる?
それともソムリエ?探検家?旅人?とか
いろいろ想いをめぐらせ尋ねてみるけれど
どんな風になってくのかな
そんな風に 親が勝手に夢を見たって
子供の大多数はサラリーマンになるのだろうけれど、、、


 さて、一見将来有望にみえる我が息子。
一度遊びはじめるとバカさを発揮し
あーこりゃだめだ、と2人でバカ親子をやっている。
2人はいつも 相も変わらず怪獣ごっこで
激しい戦いを繰りひろげたり、
どこかでちゃんばらごっこをしたり
今日なんて雨なのにベビーカーカバーを使って
連れ出してみたら 帰りは乗らない!!と言い張って
仕方がないからベビーカー片手に傘をもう一方に持ち
「じゃあちゃんと歩きなさいよ!わかったね!」と
念を押したものの 一歩目からジャジャ降りの雨に
突進していく、、、 その嬉しそうな顔といったら!!


 そしていつもの喫茶店から 彼はすごい勢いで走っては
ドーンと転び また満面の笑みでダーっと走り
普段は歩かせると「だっこ だっこ!!」の連続なのに
かなりの早さで家につく。そしてほとんどずぶぬれだ。
でもその嬉しそうな顔!
なーんだ 雨の日は家で鬱々してるより
傘さして長靴はかせて外出すればいいんだわ、、、

 「やっちゃいけない」ことをする
その時のあの顔といったら!彼は本当に楽しそう。
あんな風に 満面の笑みで 瞬間瞬間を楽しんでたら
どんなに人生楽しいだろう。 蓮太郎が
どんな使命をもってこの世にうまれてきたかはわからないけど
少なくっとも 生まれた時から
とても楽しそうにしてるから
彼にとっては この世に生まれた甲斐がすでにあるのだろう。
沢山のことを学んで 沢山の人と出会って
沢山悪いことをして お母さんに怒られて
そうしていつか また眠り
そうして朝に また起きる。
そんな1日 そんな日々 が 彼にとっては
かけがえがなくて 本当に楽しい日々なのだろう。


 子供って 小さな存在だけど
なんだか 本当にすごいなあ
蓮太郎、 いつも怒ってしまうけど
お母さんは あなたがいるから
笑えるのかもしれません。
これからも沢山おもしろいこと バカなことして
お母さんを笑わせててね。
小さな存在 小さなおてて
かわいい寝顔のこの男の子
生まれてきてくれてありがとう。

子供から学ぶ

2010年03月29日 | 子どもから学ぶ
 3月はいろんなことを考えたけど
結局は子育てを楽しもうというモードになって
ため息ばかりついてた日々から
吉野にいって 吉野の山からメッセージをいただいて
そうだやっぱり 今私のしていることは
大切なんだ と ことあるごとに認識をして
れんちゃんとの時間をもっと大事にしようと思い始めた。


 2月はけっこう研究モードになっていたけど
3月は色々と考える事も多かったからか
れんちゃんが寝ている時間も 何故か研究モードに
なれなくて そのかわり子育ての方法については
だいぶわかったような気がした。


 自分のやりたいこともしたいし
子供の面倒もみなきゃいけない
そんな時 どうしたらいいのだろうか?
それは きちんと遊ぶ事!なんじゃないのかな。


 保育園ママじゃなくても 自分で子供をみているママでも
実は家事やらやるべきことに気をとられ
あんまり子供と遊べていない しっかりと
向き合えてない そんなことは往々にしてあるようで
保育園にいったほうが よっぽど先生がかまってくれてる
そんなことすらあるようだ。


 そして自分で面倒をみているママも
イライラしててよく怒る。「もーやめて!!
なんでそんなことすんの!!何度言ったらわかるの!?」と



 ところで私はだんだんと気づいてきたのだけれど
子供のする「悪さ」がエスカレートをしていくのは
きっとつまらないからなのだろう。
お母さん もっと構って とか
お母さん もうここにいるのは飽きたとか
そんなわけで 小さな空間にいるだけじゃ
つまらないから その中をほじくりだして
冷蔵庫をあけはじめたり お鍋を全部とりだしてったり
お母さんがいやがる事だとわかっていても
それをやりはじめるのだろう。


 それで私がわかったことは
「もーこの子本当に大変なんです!!!」という親の子は
実はあんまり外で遊ばせてもらってないようで
外にいったら 相当ストレス発散なのにと思うけど
それでも家の中にいるから 行動がエスカレートするしかなくて
お母さんはよけいイライラ でも外にいったらもっと
大変なことになるかと思ってよけい出れなくなったり
そんなことになっているんじゃないかなあ


 それからもう一つわかったことは
子供とちゃんと向き合う時間をとること
これってとっても大切だ!!!


 今までは 私も家事の合間であるとか
ちょっと疲れたときだとか に
れんちゃんも甘えてくるからじゃあ
構おうかなーと構ってたけど
そんなんじゃなく ちゃんと構うこと
きちんと遊んであげる事 って どうやら
とっても大事らしい。


 最近は旦那も飲み会の日がけっこうあって
そんな時は手持ちぶさたで どうしようかと思うけど
仕方がないから 遊ぼうか!!と遊んでみると
れんちゃんは大喜びで もっともっと!!と
一緒に遊ぶ。 ああそうか この子が
誰より一緒に遊んでいたい そんな相手は
ぬいぐるみでもトラックでもなく 
お母さんの私だったのか と気づかされる。
だってお母さん 大好きだもん
大好きな人と遊ぶ方が 一人で遊ぶよりよっぽど楽しい
そんなことに 今更気づく。


 そしてちゃんと構ってあげると
そのうち彼も満足をして
また一人でも遊んでくれて その間に
家事ができる そういう風になっている


 ところがこれがお母さん優先だとさあ大変!!
「なんで今頃泣くの!!」とか「お母さん
忙しいんだからね 泣いてないで我慢しなさい!」とか
そんな風になったあと 次の予定が
子供を遊ばせられるものじゃなく
大人同士の会合とかだと もう最悪
彼はストレスがたまってて そこで吐き出されることになる、、、
そこでお母さんは大後悔「あーもう!!こんなところに
子供を連れてくるんじゃなかった!もーイヤー!」


 最近経験からわかったことは
子供は自分の言う事をきいてもらっていたのなら
ちゃんと親の言う事だって聞いてくれる
だけど我慢ばっかりさせていたら ストレスになり
あとでしっぺがえしをくらう
それに親も 子供と一緒に楽しむ事で
すごく柔らかくなり 成長することができるのに
いつまでもかつての視線だけで子供を見つめ
子供をしばって まわりの大人の反応に
おびえて子育てしていると 子育てなんて楽しくないよ
だって子供は 大人の世界じゃ理解できない
反対にちかい そんなことばっかりする生き物で
子供の視点で大人の世界を眺めてみると
ため息ついて まじめくさって みんな黒いスーツきて
しかめっ面して生きているのが なんだか
おかしく思えてくるけど
大人の視点をもってるままで 子供を自分が育ててみると
かなりのストレスになるだろう。
だって思い通りにならないんだもん
あまりに予測不可能だしね


 だけどそれが面白いんだ
そうやって 子供の柔軟性を学ぶ事が
面白いんだと思えたら きっと大人は成長していく
本当は 子育てって 子供を育てるためじゃなく
大人が違う世界にむかって 成長していくためにある
そんな気が最近している
大人の学び場?大人の成長?
それはラーニングバーに行く事だけじゃないんじゃないか
子育てという経験を与えられた人たちは
本当はマイナスやハンディじゃなくて
すごく成長できる機会というのを与えられた人たちなのかも

 大金をはらってワークショップに行くのもいいけど
何年間か子育てをして 子供から学ぶ事 で
人間は大きく変わり もっと包容力のある人になれる
そんな気がするんだけどな 子供はやっぱり 贈りもの。

子供といる幸せ

2010年03月11日 | 子どもから学ぶ
 東京と京都をいったり来たりしていると
京都に帰れば家事は山ほど待ってるし
親類縁者は誰もいないし 東京の友達ほどに
仲良くできる友達だっていないから
「あーあ!!」と思う事が多いけど

 東京の生活をいったん離れて
それはそれ と思ってしまえば
ここでの暮らしも悪くはなくて
東京のような刺激はないけど
なんだか身体が気持ちいい。


 ゆったり のんびり という程に
自分を休めてはいられないけど
(息子さんが突然泣くから
そして昼寝の時間に研究しないと
研究を続ける事が不可能だから、、)
ここにはゆっくりとした時間が流れて
街行くひとものんびりしてるし
犬の散歩の人はわんさかいるし
おばあちゃんたちはあたたかい目で
れんちゃんのことを見てくれる。


 あー子供がいて幸せだなあと思ったのは
れんちゃんといい時を過ごしている時であり
それってどんな時かというと
横浜で雪が降って自分の子供と
ソリで遊んでみた時だとか
追いかけっこをしてみたりとか
かくれんぼみたいなのをしてみたりとか
結局のところ きちんと関わる 
それが大切なんだなあ。


 旦那さんにれんちゃんを一泊二日で
みてもらったあと 彼は私にこう言った。
「蓮太郎はね すごくいい子だったよ。
そんな悪い子じゃないよ。こっちが
ちゃんと構っていたらちゃんといい子に
してくれるんだよ」そうなのかー!


 家に居る と れんちゃんが泣いてばかりで
大変で どうしてみんな一日中家にいるとか
できるのだろう?と思ってたけど
(その答えの一つにテレビがあるというのは
あるらしい 我が家にはテレビがないのだ)
家にいると 私は家事やらやりたいことにも
追われてしまって れんちゃんをあまり構わない。
一緒に積み木とかほとんどすることないしなー

 そんな時間は お客さんが家にきて
夕飯をつくってる間にみてもらったりするときで
そんな時彼は嬉しそうにやっているけど
私と家にいるときは 基本的には
「ちょっと一人で遊んどいて!」という感じ


 だけどちゃんと遊んであげると やっぱり笑顔の
質が違って あーこの子 お母さんのこと
大好きなんだなー!と嬉しくなる。
あの笑顔は 素晴らしい。

 私の場合はそうなるときは 家事の合間か
1日2回の外出で 外に行ったら
私ももう仕方がないのでだいぶ遊べるようになってきた。
昨日も工事を見に行って
今日はちょっとかけっこしたり(そしてバーン!と転んだ)
フリスビーを投げにいったり そういう時間は
なんだか楽しい。


 今日はれんちゃんをあそばせようと
近所のショッピングセンターの前の広場に行って
その間に私は缶コーヒーでも飲んでようかと
自販機でカフェオレを購入したら
彼は「チャッチャ チャッチャ!(お茶)」といいはじめ
「じゃあチャッチャ飲む人はあそこのお椅子に
座って!」といったら本当に座って
結局二人でカフェオレを半分こすることになる
(一歳児なのにいいんだろうか、、、 よくないですね)


 そうして二人で何もない広場の前で並んで座って
「ハポッポ!(鳩のこと)カーカ!(カラス)」
と言ってると あー なんだかここはイタリアみたいだ。
イタリアの広場も何もなくて ただカフェやレストランの
椅子があり 目の前を人々が行き交っていて
真ん中に鳥たちがやってきている、、、
なんだかそんな風に見えてしまって幸せだった。
れんちゃんはとても幸せそうにカフェオレを飲み
こうやって となりに座った自分の息子と
そういう時間を堪能している 「もっと?もうダメ!」
「ヤヤ!!(やだ)」とか言い合いながらも
そんな時間を過ごしてる それがとっても幸せだった。


 れんちゃんと 真央ちゃんの真似をしながら
クルクルしたり マイケルの真似をしながら
帽子かぶったり そういう時間が何だか楽しい。


 お母さんになるってことは 子供を愛すことでもあるけど
子供から無条件に 愛をもらうことでもあって
その愛といったら絶大だから 子供をたくさん生むほどに
それだけ自分が愛してもらえる それって幸せなんだろうなあと
なんだか思うようになる。


 子育てはとても大変だけど
大変さ は 代表とかの大変さととても似ていて
苦しい分だけ 得るものがある ハイリスクだけど
ハイリターンなものだと思う。自分の子供は本当にかわいい。
れんちゃんにつられて 私はどこかに行くだけだけど
そういう時間も いや本当は そういう時間が
お母さんがぽっかりしている そんな時間が
きっと一番二人にとって  大事な時間なのかもしれない。

子供を預かる

2010年02月26日 | 子どもから学ぶ
 今日一日はもともとの予定としては何もなくて
母から「今日はゆうちゃんを預かるからねー」と
言われてた。全然知らなかったけど 私の今回の
帰省の日 と 兄の引っ越しはかぶってて
そういうわけで 実家にはれんちゃんも私もいるのに
それに加えて兄の子も預かる日が続くらしい。


 私はといえば 普段は母に子供をまかせて
ふらふらふらーっとどこかへいってばかりいたけど
預けるって大変だ!!と実感するのは預けてみたときではなくて
人の子を預かってみた時だろう。
(預ける場合は「ありがとう!!」「すみませんでした」
「どうでしたか?」「そうなの!よかったねえ!!」
それとお礼の何事かでだいたい終わる)


 今日は朝の10時半から夜の9時までその子と過ごして
丸一日 ほとんど休みももらえることなく相手をしていて
本当に疲れてしまった。 明日の15周年行けるのだろうか、、、


 自分の子供が一人だけなら そして自分の知ってる家なら
自分が大変になってるときは 「もーいいわー 何されても!
好きにやっててー お母さんはしんどいんだから!」と
放置することもできるけど 他人の子だとそうはいかない
何かあったら大変なのだ!!


 自分の子なら 頭を打っても ちょっとくらいの血がでても
「痛いのいたいの飛んでいけー!」とか「それくらい大丈夫!」とか
適当に言ってたらなんとかなるけど 他人の子だと
「もしこれが重大な事故になったら、、、」と
考えるだけで恐ろしいから 決してそんなことがないように
常に見張ってないといけない。

 「小さい子って目が離せなくて大変ですよねー」と
よくバスに乗ると言われるのだけど 「そうですよねえ」とか
言ってはいるけど 私の場合はけっこうれんちゃんを
放ったらかしてて いつでも遊んであげてるわけではないし
隣の部屋で放ったらかす事もよくあるけれど
他人の子だと緊張をする。


 それでもだいぶ 兄の子とれんちゃんは仲良くなって
れんちゃんが生まれたときは もう別世界の生き物のように
二人はまったく違っていたのに 大きくなったら
7ヶ月の差があるだけで 背丈も2倍違うというほどではないし
身体能力の差はあるけれど れんちゃんももう走れるし
階段の上り下りもだいぶできるようになったから
なんとか彼についてけて もう慣れたから
けんかにも泣いてばかりじゃなくなった。


 そうして彼らはうちの父のジープに乗って
二人でハンドルを奪い合い じいじのマネして
帽子をかぶり サングラスをかけ 手袋をはめて
運転席でハンドルを握ってる。そしてハンドルが
ちょっとあいたら すぐにもう一人がそれを奪っての繰り返し。


 ジープをおりて 今度は外で歩いてみると
兄の子は猛ダッシュで走っていって
れんちゃんは後ろの方でうろうろしていて
兄の子を追う私だけでは手が足りないから
じいじに「れんちゃん見ててね!!」とお願いしながら
彼を追う。そして追ったと思ったら
彼も勢いをだしておおいに転び
アスファルトに頭を打ってエンエンと泣く。
それからまた元気になるけど私もびびる。
そんなことの繰り返し で 今日は小雨だったというのに
彼らはいっこうに家に入る気配がない。


 無理にご飯だからと連れ戻しても
れんちゃんはかんしゃくを起こして泣く始末。
それでもなんとかかんとか家に入れて
ようやくお昼だと思って食べたら
楽しみにしていたフィギアがはじまり
これだけはなんとしても見てやる~!と思って
テレビにかじりつく と 置いてけぼりの
二人はつまらないのか リビングの引き出しをあけ
父の蓄音機のロウカン(レコードよりもっと古いもの)を
ぶちまけはじめ 宙に投げては喜んでいる。
危ないよー!と思ったものの フィギアをみたいのと
いい加減かまうのにヘトヘトになっていたから
もう勝手にやってくれ と思っていたら
二人の行動はエスカレートしていき
たくさんのロウカンが宙に舞い あるとき一つが
パーンと割れた。さすがにこらー!!と怒って
全部片付けることにしたけど
彼らの力は恐ろしい。


 最近二人は仲良くなって 二人でげらげら笑ってて
なんだか力も2倍になって 一人だけを見ているのより
はるかにエネルギーが必要で もうやめてー!と
思いたくもなるけれど 二人の笑顔はかなりかわいく
そう思う間につぎの行為にうつっているから
本当に休む暇もない!


 そうして気がつくと時間がたって もう3時になっていたけど
家の中だけにいるのもなんだから と なんとか
もう一台のジープを動かし (二人ともジープを
熱愛しているのでジープがいなくなるだけで
ひと騒動なのに加えて じいじがいなくなると二騒動!)
チャイルドシートを二つもつけて あてのない
ドライブに繰り出してみた。


 すると二人は20分もしないうちにこてんと眠り
じゃあ一時間は車の中か と 仕方がないので
じいじにマックのドライブスルーでお茶とお菓子を
買ってもらって ゆっくりお茶でも飲もうとすると
あれ 兄の子が起きている、、、
じいじの注文する音で もう目が覚めてしまったらしい。


 また仕方がないので 寺家ふるさと村というところを
さがして その近くで車をとめて 森の中で
雨宿りをしながらみんなでしばらく遊んで
深呼吸して 横浜なのに森を感じた。

 それから雨がひどくなってきたから
じいじが車を近くに持ってこよう と
ジープを運転しに戻っていったら
二人の子たちは「じいじ!!じいじ!!」と言って
雨の中を濡れまくりながらもじいじの方を
追いかける。「だからじいじは戻ってくるの!
森の中で待とう!」といっても誰も言う事を
きくこともなく 彼らはじいじを追いかける。
私はれんちゃんを抱っこでつかまえ
兄の子をなんとかつかまえて説得をする。


 そんな馬鹿みたいな光景も
思い返せば楽しくて 彼らはいっつも笑って
泣いて かんしゃくおこして でもまた
げらげら笑って 私も笑っての繰り返し。
帰りの車では私と3人でいろんな手真似で
合唱をし みんなで笑い転げて面白かった。

 もう夜には疲れ果てていたけれど(子達を除く)
待ちに待った兄達が帰ってきても
彼らか彼らで疲れ果ててて 夕飯を食べてる彼らは
自分の子供に全く構いたそうな雰囲気ではなく
誰か見ててー というオーラをかなり発していたので
仕方がないから私がまた3人で遊ぶことになる。
早く寝てくれという一心で 「みんなでお風呂に
はいろうか?ゆうちゃんもよかったらいれますよ」と
提案すると かなり兄達は喜んで
「本当!?みきちゃん 本当にいいの!?」と
いう感じ。


 いいですよーとはいったものの
疲れてる私もちょっと後悔したけれど
そして案の上彼らはお風呂の中で
水をめちゃくちゃバチャバチャし
まったくリラックスではないのだけれども
みんなで笑って水をかけあい 兄の子も
とってもいい表情をみせてくれ
本当に楽しい時間が過ごせて嬉しくなった。


 仲良くなるには時間がいって
二人育てるのはものすごく大変だけど
彼らはとってもいい兄弟みたいになれたみたいで
その笑顔 が 輝きが 本当に素敵なんだなあ

 子育てって 大変だけど 預けるのは簡単だけど
保育園の先生は きっと今日の私をもっと大変にした
感じだろうけど きっとこう思うのだろう
本当に大変だけど だけど素晴らしい笑顔をみせてくれるから
私はやっていけるんだって
そうしてこうも思うのだろう。 こんな笑顔を私は
毎日みてるのに お母さんはちょっとしか接してないなら
それはなんてもったいない とも、、、

 子供って 誰かが育てて面倒をみないと
どう考えても育たない。子供のいる誰かが
すきなことをやっていられるのは 誰かが
その人の身代わりになって 面倒をみているからで
それって相当大変だけど でもなんとかやってけるのは
かれらが本質的にかわいい存在だからなんだと
本当に思う。「こんなにもかわいい時期を
みていないのはもったいない」預けない人たちや
三歳までは自分で育てたら?という人たちはこう言っていた。
誰かに見せてるその笑顔 見せてもらえるものならば
「保育者」じゃなく やっぱりママに見せてほしい。

遊びの可能性

2010年02月25日 | 子どもから学ぶ
 私がこの一年に出会った教育学の先生達は
「遊びは学び」なんだと主張していて
子育て真っ最中の私としては まさに
それを身体で学べる そんな時期にあるのかななんて
思いながら れんちゃんと一緒に過ごしてた。


 時に何やってんだろう と思いながらも
時に空しくなりながら も
時に働きたい!と思いながらも
彼との時間を重ねていった。


 そうして葛藤しながらも子育てをしていく中で
先日の「未来をつくるワークショップ」に
参加をして知った事 は 「遊ぶ事の重要性」を
認識している人たちが多いといっても
実際に毎日毎日仕事をしている働き盛りの
男性達は 遊ぶという経験どころか
身体をつかう そんなことすらないらしい。


 そんな話を聞いていて ああ もしかして
私って恵まれた状況にいるのかも、、、
とちょっと思った。それまでは
「いいなあ社会の第一線で働けて!!!」と
かなりうらやましがっていたけど
みんながみんな 自己実現して楽しく仕事を
できているというわけでもないし
「今日も会社に行きたくない~!!」と
思いながらもなんとか行ってる そんな
人たちもけっこう沢山いるようで
それと比べるのも変だけど
私はれんちゃんにかまいながらも
毎日遊びを開発していて
それはとっても面白い。


 子供にただただつきあって
「つまんないなー 早く家に帰ろうよー」という
気持ちだけで眺めていると 寒いし
子供の遊具は大人にとっては楽しくないし
もう嫌だーと思ってしまう。
公園に行くと そんな顔して
嫌々ながらも仕方がないから遊ばせに来た、
そんな顔をしたお母さんにもよく出会う。


 だけどそんな時気持ちを変えて
遊びを発明してみると 意外と自分も
その世界に入っていけたり
れんちゃんはめちゃくちゃいい笑顔で
喜んでたり 二人でイメージの世界に入って
げらげら笑う それもけっこう面白い。
そういう訳で なんだかんだで
私たち は 毎日大きな口をあけて
あっはっは!!と笑いあってて
それはそれで とても素晴らしい経験なのかもと
ワークショップで気がついた。


 子供達 は 生まれたときから
ものすごい可能性を持っていて
それをどんどん開花させてき
イメージをふくらませては
自分の世界をつくってく。
公園で遊んでいる小学生をみていると
設計された通りに遊ぶ子なんて誰もいなくて
激しく反対方向だったり
アスレチックで鬼ごっこしたり
ブランコに二人乗りしてすごい高さまでこぎあってたり
すさまじく動き回っている。

 こんなにも遊びを開発しまくっている
人たちが 激しい身体能力の
ある人たちが 大人になって会社員になってしまうと
ほとんど遊ぶこともなく
「遊びが学びだ!」ということを
まじめな会場で椅子に座って聞くことになる。


 シュールレアリスムをはじめたアンドレブルトンは
「まじめくさった大人達の社会が大嫌いだ」と言っていて
かつ「一番素晴らしい経験ができたのは幼児時代だ」とも
言っていた。なんだか子供と時間を過ごしていると
そういう意味がよくわかる。

 子供の無邪気な視線で大人達の真面目くさった
行動をみていると なんだかおかしく思えてしまって
そんな大人になるために この子達は生まれてきたのか
そんな大人になるために お受験を重ねていくのか
そう思ってしまうと 子供をどう育てていいのか
検討もつかなくなってしまう。


 個人的には ブルトンの思想は大好きだけど
子供や無意識や偶然などから沢山学んでいきたいし
まだまだ学ぶところは大きいだろうと思うけど
子供はいつか「社会」に入っていく訳で
そこがとっても難かしい。
大人がもっと 子供たちから学んでくれたらいいんだけどな
もうちょっとゆるい社会に 少しくらいは
誰かと向き合うゆとりのあるような社会になってくれたらいいのに
子供は本当に素晴らしいものをもってうまれてくるのに
だれしも子供だったのに
いつしかそれらを失っていく

 それらを失っていく事が
大人になることかもしれないけれど
それらも大事にしたままで
大人になるってできないのかな?
そんな人たちもいると思うし
そんな人たちはすばらしい才能をもって
活躍してると思うから
もっとみんなが自分の可能性を広げていって
笑顔になれる そんな社会になってほしい。

 子供達 と 遊ぶこと で
見えてくるものもきっとあるから
普段は接する事のない 小さな子達と
機会があったら向き合って遊んでみてください

子供の世界

2009年08月22日 | 子どもから学ぶ
 れんちゃんが生まれることになる少し前から
子供の世界に興味があって それを知りたいという
気持ちもあって 子供がちょっとほしいかもという
そんな気持ちになっていた。


 なんでそんな世界に興味があったのかというと
私が読んでたボーヴォワールやアラゴンなんかが
小さい頃に すごくしっかりとした自分の世界を
持っていて 大人がそれをわかることなく
「子供扱い」をされていたことに かなり腹を立ててたからだ。


 そんなにも 子供って 自律した世界を持っているのかな
それが不思議だったけど れんちゃんを生み
子供と接する機会が増えて ほんとうに子供ってすごい!と
圧倒されることが多かった。


 特に関心してしまったのは 先日旦那の実家に行ったときで
彼の実家のお父さんはプールの監視員をしてるので
必然的にれんちゃんも何度かプールに行くことになり
私も同行していった。 私はといえば 小学生のころから
プールが大の苦手で なんども体調を悪くして横で座っていたし
中学や高校といえばプールが義務でない学校をあえて
選んだほどだった。 だけどいい加減泳げないとな
そう思って少しはプールにつかってみるけど
毎年毎年 やる気がでない。


 だけどそこにはめちゃくちゃ泳げるしっかりとした
子供達が沢山きていて 私がたまたま出会った子は
私のコーチをしてくれて 鬼コーチは「もっともっと!
足ついちゃだめ!!!」とすごい剣幕で私を怒って
仕方がないからひたすら練習することになる。
ところで彼女は何歳なんだろう?聞いてみると三年生。
ちなみに私と一緒にビート板で横で泳いでくれてた子は
なんと小学一年生。でもこんなに泳げるんだな!
しかも今日は一人でバスで来たんだそうな すごいなあ

 
 彼女たちは ほんとうにしっかりしていて
小さい子の世話もしてくれて 子供たちだけの世界をみてると
ほんとうに大人だなあ!と関心させられ 何もできない
自分がなんだか哀しくなってくる。

 今日もれんちゃんをつれて公園に行くと
男の子たちが寄ってきてくれ 「見てみてー!行くよ!」
といろんな技をみせてくれる。まーよくそんなところ
身体をよじって行けるよなあ!というようなことを
あれやこれや見せてくれ れんちゃんの世話までしてくれ
ところでいくつ?と聞いてみる と でたでた まただ
「7歳」だって!


 れんちゃんを生んでから なんどこのしっかりとして
ちょっと偉そうな「7歳」に出会ったことか!
7歳って 小学校では一年だけど 公園だとか
外の世界では もうかなり立派で色々できて
私より沢山のことを知っている。以前私がであって
昆虫や動物について色々と説明してくれた男の子は
なんと4歳だったけど 本当にしっかりしてて
私は「すごいねえ!!お姉ちゃん何にもしらない、、、」と
関心するばかり。大人は子供を「子供」というけど
ランドセルしょった小学生を「ちびっこ」としか
思ってないのだろうけれど 子供ってすごいよなあ
勇気あるし 体力あるし できないことに挑戦するし
学ぶこと 知っていくことが 楽しくて仕方ないような

 そんなきらきら しっかりとした 大人顔負けの
小さな大人は いつからその輝きをどこかにやってしまうのだろう
子供がそんな世界観のまま ちゃんと成長していけば
大人になったらはるかに力を持った人になる
そんな気がしてならないけど 何かがどこかで
終わってしまう なんだかそんな気がするなあ


 保育園にいれてしまったら れんちゃんはもまれて
成長するのだろうけど 私は保母さんなわけじゃないから
子供の世界をかいま見れない それはちょっと残念だ。
せっかくだから もっと沢山子供に出会って
勇気もなくって 体力もない そんな自分が恥かしいけど
いろんなことを教わりたい。

遊びと学び

2009年05月21日 | 子どもから学ぶ
 最近どういうわけだか教育学に関わる人と
お話をする機会が増えて そんな人達が
よく口に出す「遊び場 学び場」という言葉がある。
いろんな研究を重ねた結果 私にそういうことを
話してくれる人達がたどりついた結論は
学び=遊びなのではないかということらしい。


 先日吉野に行った際には、研究者の人がこういっていた。
「子供は遊びを通してしか学ばない」そう断言してた。
それほどまでに遊びというのは大事らしい。


 ところで遊びってなんなのだろう?
これは子供がいない人にとっては「おもちゃで遊ぶこと」
とか「公園の遊具で遊ぶこと」とか「レゴで遊ぶ」と
思われそうな気がするけれど 私もそう思っていたけど
「遊び」ということの意味は もっと深くて
遊びのための遊びではない そんな気が最近してる。


 「子供にとって遊びは大事!」そう言われると
じゃあおもちゃを沢山買わないといけないのかなと思うけど
子供をみてると 彼らにとっての遊びというのは
母親たちが「悪さをする」という言葉をつかうそのことで
本棚の本を全部出したり 戸棚の中身をひっぱりだしたり
ティッシュを一枚一枚とってみたり そういうことな気がしてて
子育てをしてみた人は「子供はおもちゃじゃ遊ばない」と
口を揃えていっている。おもちゃよりも 好きなものは
れんちゃんで言えば何より携帯!このために彼はハイハイしたし
めがねも好きで 昨日はこのためにパパの身体をよじのぼって
進んでいったし タッパーのフタやら洗濯ばさみもお気に入り。


 そういうわけで 子供っていうのは「遊びのための遊び」を
したいというより 大人の世界を観察したくて
大人の世界に近づきたくて 子供なりに触れて 見て 研究してる
そんな気がする。そうして「遊び」を通してマネしていって
学んでいく そんなプロセスなのかなあ


 そうだとすると 児童館とか保育所とかの やたらと遊具が
あるとこも 実際のところ そんなに楽しくないような
そのうちすっと あきてしまう日がくるような なんだか
そんな気がしてしまう。


 けれども主婦は うちの中をきれいに保つのが
かなりの仕事なわけだから それに全部逆行してくる
子供というのはむかっとくる存在でもあり
なんでもかんでも放り出されて むきー!!っと
なってしまったりする。だから手を出されないように
みーんな鍵をかけたりしまってみたり
そうして家はきれいになって 子供はおもちゃを与えられ
でも なんだかそれって 本質とちょっと違ってるような
そんな気がしてしまう。


 女が子育てしていると つい家をきれいにしたくて
子供という 何でもかんでも放り出してはポイする存在を
つい許せなくなってしまうけど そこにもっと
おおらかなお父さんとか 子育てをよく知っているおばあちゃんとか
そんな人が必要だと思う。だって どう考えても
「家をきれいに快適に保つこと」とこの時期の子育ては両立しない。
そこをなんとか広い心で この子はこれで学んでるんだ!と
思ってみるのは いつも努力してみるけれど なかなか至難の技だなあ


 それでも私は「子供は遊びからしか学ばない!」と聞いていたから
なんとかやってみてるけど この先どんなになるのだろう
片付けしても 片付けしても 彼は端から落とし始める
しかも落とす行為が好きらしく 落としたものには興味がない
でもつまんだり よーく見たり こうして学習してるんだなあ
おもちゃよりも大好きな 憧れの大人がつかう本物で
ちゃんと学ばせてあげたらな そう思うけど
なかなか我が子は大変だ。

フランスに行くなら

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