alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

桜狂

2015年04月11日 | 私の人生


 どうして桜を観るのだろう?
それは、美しいから?
それともはかなく散ってしまうのを知っているから?

 古文では花 というと桜をさしていたという。
中学時代、古文の先生が何度も「無常」について説明してくれた。
それでもまだ13歳程度の娘達には そんな意味がよく理解できないままだった。
けれど先生は何度も力説していった。
「無常こそ 古文に流れる大切なテーマなんですよ・・・」

 桜を花と呼ぶのなら 無常というのは桜の在り方そのものだ。
散ればこそ いとど桜はめでたけれ・・・
いかにその美しい命が短いか、年を重ね、経験を重ねたものはよく知っている。
だから 今観るしかない。何をさしおいても観るしかない。
365日ある中で、桜の花が存在するのはたった10日くらいなものだ。
そのうち天気のいい日が半分、自分の都合が合う日がまた
半分しかないとするなら、素晴らしい桜に出会えるのは
1年に2~3日しかない計算になってしまう。



 それならば?他をさしおいてもいいではないか?
いやむしろ?何よりも優先させてもいいではないか?
日本は桜の国なのだから。 そしてあれほどまでに妖艶で
美しい樹というのは 他に存在しないのだから・・・

 私が桜に惹かれるのはあの長い冬を知っているからだろう。
桜の樹は芽がでる直前まではまるで枯れ木のようにじっと
静かに動かない。もしかして、この樹、今年はもうだめなのかも・・・
そんな心配さえしてしまう程、梅が咲いても桃が咲いても
黄色い花々が目を覚ましても 桜はうんともすんとも言おうとしない。
そして他の花々に目を奪われ、春の陽気がやってきた、と思った
ある時、桜は一気に目を覚ます。そのスピードたるや
恐ろしい。今日なんて目の前の桜が散っていくと同時に
半日くらいでぐんぐんと若葉が伸びていくのを目の当たりにして
そのスピード感に恐れ入った。
けれど桜はどっしりと構える そう私たちの目に映る。
桜の中ではものすごい変化が進行中でも 焦ることなく
ドーンと構えている かのように見えてしまう。
それが桜の偉大さなのだろう。



 あんな樹 は他に一体あるのだろうか と満開の花を観るたび
疑問に思う。たわわに実ったような花達。枝の先には花ばかり。
他の多くの植物は葉っぱがあって、花があって、セットのような
気がするけれど、桜が完全に満開な時、そこに緑色は存在しない。
それもまたとても不思議で奇妙に思えてしまう。



 私は桜の優しさが好きだ。包み込むようなあたたかさ
さっきまで完全に眠っていて まったく自己主張しなかったのに
いきなりドーンと開花し、それでもつつましやかな感じが残る。
穏やかで優しく、自己主張しないのに気づけばドーンと目立ってしまう。
奇をてらったわけではない。桜は桜のままなのだけれど
他の植物とは違う。ただあるがままに咲き、咲ききった時
それまで見向きもしなかった人たちが一斉に上を向く。
その顔といったらまあなんとも嬉しそう・・・
桜を観るには顔を上にやるしかない。たとえ携帯をにぎっていても
今度ばかりは下向きでなく、上を少しは向くしかない。
「わあ きれい・・・」そう言ったとき、その人の中で
何かが少し ましになる。桜はそんな多くの人々を
非常に優しく包み込む。



 桜はちゃんと 知っている。
人の世は常ならず。おごれる者も久しからず。
彼らはしばしどんちゃん騒ぎをした後で、また自分の存在を忘れてく。
でも今あなたが私を愛でてくれるなら 恩返しを致しましょう。
美しい姿と光をあなたにみせてあげましょう。
そうして桜は本当に語りかけるかのように
とっておきの光を呼び込み 優しく包み込む美しい姿を
パアッーと目の前に示してくれる。それはまるで
孔雀が羽を広げたかのように世にも眩しい キラキラとした
そんな姿を 「愛してくれたご褒美にね」そんな言葉で
見せてくれるように思う。





 美しい桜に圧倒されながら 私は目を細めてしまう。
ここに同じ姿があるではないか 浮世絵と同じ姿が目の前に・・・
目の前にはぼんぼりがあり、カメラではとてもとらえきれない
どこまでも続く川とそれに沿った桜が存在している。
あまりに美しい景色の中で 人々は嬉しそうに上を見上げる。
広重の時代から変っていない 日本の文化が目の前にある。
ここは2015年のはずなのに 東京はこんなに変ってしまったのに
今目の前に ほぼ変らない光景がある。これを文化というんだな・・・
そして私は一人そんな光景に感動を抑えきれずに
ついカメラを手に握ってしまう。日本の文化は存在する・・・
文化というのは人々が気にもかけない、そんなの当たり前で
そこまで嬉しくも思わない そんな中にあるのだろう。



 あまりに美しくはなかいものが 今目の前に存在する
それはルーブル美術館展でもベネチアまで行くのでもなく
自分の普段の行動範囲をあともうちょっとだけ広げることで
無料で目にすることができてしまう。
葉桜になったらもうおしまいだ。毛虫がでてきてその後
ほんのわずかに心地よい時間があって、それから蚊たちがやってくる。
日本の夏は外にも出れない。ピクニックしたら熱中症で
倒れてしまう。だからこそ今、ほんのわずかな春の期間に
外の美しいものを目でないと。そう思って私は来る日も来る日も
外に出る。もう体がもたなくっても取り憑かれたように出てしまう。
そしてまた美しい桜に出会い、つい呆然としてしまう。
どんなに足や腰が痛くても、まあいいや、と思ってしまう。
美しいものには力がある。人の造るものも美しい。でも
自然のままで、本当にかなわないほど美しいものは日本に沢山
存在している。桜と紅葉、それだけはどうしたって観ないといけない。
年を重ねる度にそう思う。


フランスに行くなら

<iframe frameborder="0" allowtransparency="true" height="60" width="468" marginheight="0" scrolling="no" src="http://ad.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/htmlbanner?sid=2716631&amp;pid=879463511" marginwidth="0"><script language="javascript" src="http://ad.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/jsbanner?sid=2716631&amp;pid=879463511"></script><noscript></noscript></iframe>

ブログランキング

http://blog.with2.net/link.php?1215861