alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

子供とはなれて学ぶこと

2010年10月24日 | 子どもから学ぶ

 今週の水曜の夜、あまりに言うことを
きかない息子に本当に嫌気がさしてしまって
「もーそんなことばっかり言うんだったら
お母さんが出て行くからね!」と言ってた私は
旦那が家に帰ってからもしんどくなって
プチ家出をしてしまった。
といっても1時間くらい外をぶらついただけなのだけど


 すると帰って来たら息子は即座に「ごめんなさい」
とあやまって ちょっとはわかってくれたのかなあと
思っていたけど 次の日の朝も私はしんどく泣き出す始末。
そんな私を見かねた旦那は「じゃあ今週末は実家に行くよ!」
と土日に私を一人にしてくれることにした。

 「じゃあ朝の4時から行くから、、、」
はあ?朝の4時?なんでそんなに早い時間に
もっとゆっくりしたらいいのに、、、
と案外淋しくなった私には脇目もふらずに
彼らはさっさと出て行って なんだか
置いてけぼりをくらったような 私は
ちょっと淋しくなって さて2日間も どうしよう。


 はじめての一人暮らし?
どこかに行くなら別だけど
ポツンと家に取り残されて
どうしていいのかわからない。
いやいや研究しなければ
そのために時間をもらったわけだし
そうは思えど「2日間!!」
何だか長くてまるで大学院時代のように
あまりに時間が存在するから
逆に何から手をつけていいのかわからなくって
結局のところ何にもできない なんだかそんな雰囲気だ。



 さて そんな2日間 結局昨日は
カフェを3軒巡ったりして
1軒目では研究をして 2軒目では
カウンターにすわり お姉さんに
主婦生活の愚痴をもらしつつ
彼女の壮絶な専業主婦時代の話をきいて
「大変なのはみきちゃんだけじゃないのよー」と
慰められる。そしていつか子育てについての
文章を書きますと約束し
お姉さんは励ましてくれ なんだかちょっと
元気になった。

3軒目に行ったカフェでは
私の本を置いてもらっているのだけれど
「お客さんがかなり手にとって読んでますよ!」
とのことで またまたちょっと嬉しくなって
このあたりからシンクロニシティがおこりはじめて
ちょっと面白くなってきた。


 さて最後にフランス人の友達の送別会が
あったのだけれど 知り合いも一人しかいないし
彼女は他の人と仲良さそうにしゃべっているし、、、と
思っていたら たまたま隣に座った人と
やたらなんだか話があって それから我らは3時間
他の誰とも会話をしないで ひたすらずっと話つづけた。


 彼女は日本人なのだけど アメリカに2年住んでいて
保母さんの資格も持ってて また年末からアメリカで
働くのだといっている。こんな若いのに
子育ての話ができて しかも保母さんだし
幼児教育を学んでいるからかなりいいアドバイスをしてくれて
ああそうなんだ 怒ってても効果ないんだ
そうか 寄り添うことなのか、、、と学んでみたり
いっしょに茶化したり遊べばいいのか と納得をする。
彼女はこう言っていた。「結局ね 大人が
早くしなさい!とかって怒るのはたいていが
大人の理由なんですよ」 はー なるほどなあ
よりそって 子供の視点にたってみること
「いい子にしなさい!!」とやたら叱ってみていても
子供の顔はどんどん曇ってくばかりだし
彼らはやたらと抵抗するし どうしようもないんだそうな
「そこは大人が根負けしますよ。だからどう
機転をきかせるか、どうもっていくかなんですよ」

 そうなのか、、、 大人が成長するって
そういうことか。


彼女とは山ほど話すことがあり
とっても話があって本当に驚いたけど
別れ際に駅の近くで話していたとき
そういえば「教育」「遊び」「学び」「カフェ」、、、
あれ?私が知ってる先生達が「大人の遊び」って
いってたな、、、と思い出す。


 そこらへんから何かが私の中でつながりはじめた
ような気がして、カフェ、遊び、子供から学ぶこと
遊ぶ姿勢、遊びで子供は学んでる、、、
遊び って 一体どれほど重要なんだろう?
「大人」になると 「遊び」なんてほとんどなくって
私は最近バカになれてきた方だから
けっこう遊べてる気もしてたけど
「ちゃんとしなきゃ!!」と意気込んでしまい
「ああしなさい こうしなさい!
あれもだめ これもだめ もう全部だめ!!」
みたいになってしまうと遊びどころではなくなって
「遊び」も子供の想像力も なんだか
「時間の無駄」に思えてしまう。


 それじゃあ たぶん だめなんだ、、、


 ここは 私 変わるべきかも、、、
よりそうことか、、、そうしてその世界を
一緒に体験することか、、、 子供は小さな
ブロックで遊んでたってそこに宇宙を見ているらしい
そんな豊かな想像力を 一緒にもつことができたなら
それだけで私もわくわくできるし(実際子供と
運転ごっこで遊んでいたとき「ドイツに到着でーす
ああソーセージがおいしいね!」と言ってみただけで
なんだか解放された気分になって
ちょっとわくわくしたりした)私の思考が変化しそうだ。

 そう だから 「時間がない!」とか「早くして!」とか
「時間を無駄にしてる気がする、、」と思わずに
子供から学んでみること 子供と一緒に
その世界に入って遊んでみること
そうすることで カフェ文化を研究している
でもまだまだきっと頭でっかちな私が
きっと気づける 何かが待っているのだろう
シュールレアリストたちは幼児期の想像力ほど
すごいものはないのだ と言ってたし
きっとそれらと 創造力と カフェはどこかで
結びついてて それが何かはわからないけど
何かに気づくべきなんだろう。


 もっともっと 蓮太郎によりそって
蓮太郎の話をきいて 蓮太郎と考えること
一緒に世界を想像すること 
それをやっていたのなら
かちんこちんになってしまった 私の頭は
少しは子供のようになり やわらかくなって
ゆくのだろうか。

 「生産的なことをしてないような気がして、、、」と
子育てにかかりっきりのママはつい思ってしまうのだ
とゴゴのお姉さんは言っていた。
でも何が生産的かなんて その時点では
わからないわよ!と彼女は言った。
本当にそうかもしれない。
子供との遊びの中に 何かは隠れているかもしれない
そう 人生は どう導かれるか わからない。


 なんだかヒントがあった気がした
見慣れた三条京阪の夜の街角。
彼女と話して 私はなんだか一歩進めた気がする
たまたま隣の席に座った そんな不思議な巡り合わせに
感謝して もう少し 子供の世界を学んでみたい。

堀内誠一から学ぶ

2010年10月21日 | 想いをカタチに
堀内誠一 旅と絵本とデザインと (コロナ・ブックス)
コロナブックス編集部
平凡社


 「あなた 堀内誠一知らないの?
え?パリに住んでいるのに?
それくらい知らなきゃだめでしょー
本当に?ほんとに知らないの?」と

 かつてパリに住んでいた時
日本語の図書館の館長さんに言われてしまった。
それで、誰なんですか?何なんですか
その人は、、、と思っていたら
私の大好きなオリーブだったり
アンアンだったりのアートディレクションを
した人で アンアンは堀内誠一が
つくったと言ってもいいのだろう。
そう そんなすごい人だった。


 そんな彼 と パリが何の関係が?
といいますと 彼はパリにも7年住んでて
パリの話の本を書いたりもしていたそうな。

パリからの旅―パリとフランスの町々 (ギイド・アンアン)
堀内 誠一
マガジンハウス





 そんな話を随分前に聞いたまま
他の場所では 日本版『ELLE』の創刊号に
彼のパリ暮らしの話が載ってたくらいで
あとはあんまり知らないでいた。
けれども京都で展覧会のチラシを目にして
これは絶対いかなくちゃ!!と
先日わざわざ兵庫県まで電車に載って
堀内誠一 旅と絵本とデザインと」という
展覧会に行ってきた。


 これがよかったのなんのって!
あーわざわざ来た甲斐あった!!と
感無量 で ああ彼も 私と同じく
パリを歩いて パリのいいとこ
悪いとこ を 感じながらも
やっぱりパリに居続けたんだ と
原画をみながら本当にうれしくなってしまう。

 彼がつくったアンアンやオリーブ
それらは「パリ症候群」の元凶とされ
パリではあまりよしとはされてないけれど
だけど結局私はそこからかなり影響を受けていて
いいじゃないか 別に嘘を書いてたわけではないし
そりゃフランス語の難しさはどこにも
書いてなかったけれど 言語なんてとっぱらって
友人感覚で文化を伝える そんなことを
したかったのなら それはそれでいいじゃないか
と思ってしまう(でもそこに実際言葉のできない
人が行ってしまうからすごい打撃を受けるんだけど)


 さてそんな展覧会で 私がインスピレーションを
受けたのは 彼が書いてたアエログラムという手紙。
彼はフランスで絵入りの手紙を山ほど書いていたという。
へー いろんな絵 が あるんだなあ
カフェの絵もあればベネチアの絵も
ああいいなあ やっぱりいいよね
わたしもこんな絵描きたいなあ


 そうぼんやりと思っていたら
蓮太郎がお絵描きをしたさそうな日があって
「蓮太郎、、お絵描きする?」といったら
「する!」とのことなので お絵描きセットを
出し始め じゃあ私がお絵描きしよう!と
彼をほっぽりだして絵を描き始める。
するともう集中モードに入ってしまい
「ダメ!邪魔しないで!え?ジャムおじさん?
はいはい、、、」と適当に描きながら
私はガイドを見ながらベネチアの絵を描いていく
おー 意外と私も描けるじゃん!





 そうやってくと 楽しくなって
でもなんだか絵だけじゃものたりない、、、
うーん コラージュ?マスキングテープ?
いや 違う、、、そうだ 手紙を書いてみるのは
どうだろう!まるで堀内誠一みたいじゃないか!
やってみるとなかなかよくって
これがどんどんクセになる。



 私にとって 絵というのは
メディテーションの一種らしくて
ストレスがすごいときとか 精神がかなり不安定に
なってるときに 集中して絵を描いてみると
だいぶ穏やかになるらしい。
だったら1枚の手紙を書くのに
たとえ30分かかっても
それで私の気が晴れるなら
一石二鳥ではないか?
そう考えると楽しくなっちゃう。



 前回パリに行った時 個人の展覧会をみて
感動してたら「あなたもアーティストなんですか?」と
尋ねられて驚いた。「いや 違います、、!」と
即座に答えてしまったけれど そう問われたのが
嬉しくなった。芸術家なんてとっても遠いと
思っていたけど 2月に武蔵野美術大学の
新見先生のお話を聞いた際に得たことは
「芸術教育を受けてなくても 見るものを
存分にみたらあとは自分で創ればいいんです!
技術は関係ありません!」と先生が断言したことだった。


 本当?じゃあ 私も描いていいの?
観る分には、、、人並み以上に観たと思うけど
(パリでは勉強しないで美術館ばかり通ってたので)
先生がいいっていうなら私もじゃあ描いてみよう!と
その日から 絵をどんどん描きたくなって
私も描くようになってった。

 芸術家とか アーティストって 何をもって
そういうのかってわからないけど
写真家は 名乗った日からそうなるらしい。
「え?君はアーティストだと思っていたよ
だってカメラマンだったんだろう?」と
パリで会ったフランス人に言われたけれど
そういえばカメラマンもアーティストなのか
それなら私も一応アーティストとも呼べるかも!?


 そんなの遠いと思ってた。

 マンレイみたいな人生なんて
めちゃくちゃうらやましいけれど
私たちには遠すぎる と あの日真夏の六本木で
私は思った。だけど意外とありうるのかも?
子育てをしてる私にとって パリのカフェで
議論をするのが あまりに夢想に思えたように
はっきりと夢をみちゃえば そして
わくわくしてみたのなら
自動的 に 1年くらいたってみたなら
それらは叶うのかもしれない。



 絵を描いて 写真をとって
文章書いて 研究をして
発表したり ガイドもしたり
たまに旅して うはー
そんな人生があったなら
しかもそれがパリだったなら
そうしてなんとか生きていけるなら
そんなに嬉しいことはない。
せっかく生まれて来たのだから
私もただ憧れるだけじゃなく
ちょっとアーティスティックな人生に
一歩踏み出してみようかな。

子供との時間

2010年10月17日 | 子育て


 今日は日曜日なんだけど
旦那は1日東京に行ってしまうらしく
わー久々に旦那のいない休日だわあと思っていたら
そうそう 思い出すこの感じ
かつては週末なんてなかった我が家が
どうして大変だったのか、、、

 だって平日だったらかろうじて
ママサークルとか児童館とかいけばいいけど
週末はそんなのないんだもん!(特に日曜日)
かつ 友達になったママだって
「家庭」が日曜にはあるわけだから
遠慮しちゃって「日曜日ひま?遊ばない?」とは
なんだか言い出しにくくもあって
かといって 1人で子供を連れ出して
家族連れでにぎわうところに行ってみる と
父親不在を否応無しに感じて悲しくなるから
それが嫌で 外にも出る気になんだかなれない
そう そんなのが 旦那のいない週末でした。
雨の日にママたちが鬱っぽくなるのと同じくらい
子供と2人っきりの週末ってのは
ママの精神的によくない 私はそう思うのだけど、、
(今ではなんとも思わないけど「週末に
3人でどこどこに行ってね」という話を
聞くだけでも辛かった)



 さて今日は どこかへ行くのも面倒だから
まー家の片付けでもしたらいいかということにして
のんびり過ごすことにした。


 それでお昼ご飯に、一度つくって また食べたいと思ってた
中華風ネギもちというものを作ろうと決め
蓮太郎に「こねこね とんしたい?」ときいてみると
「こねこね とんする!!!」とのことで
昨日つくったお菓子を一緒に食べてから
お昼前からまた小麦粉を出してご飯つくりに挑戦だ。


 そういうわけで 今日は初の蓮太郎のお手伝い。
彼は生地も練ってくれ 生地のうえに
ベーコンとねぎを散らして それから
生地をのばすのもやってくれ 「蓮太郎すごいね!」
とほめていたらとっても嬉しそうだった。





 子供と一緒に料理をつくる

 子供と一緒にお菓子をつくる


 それってなんだか素敵だなーと
ずっと前から思ってて
やりたいな いや やるべきだなあと思ったのは
以前保育園の見学に行った時に その家庭的な保育園では
けっこう料理をするんですというのを聞いたからだった。
預けられた子供達は 先生と一緒にパンをつくったりするという。
それがとっても楽しいらしい。


 それってとっても素敵だけれど

 それこそ 本当は 親が子供にするべきなのでは?!

 と 私はちょっと疑問に感じて


 保育園を出た後に 考えてはみたのだけれど

 実際のところ 保育園でやってくれるような
これでもか!!みたいなサービスなんて
子供をみているだけで精一杯の 疲れた親には
あんまりできず 私のまわりで自分で子供をみている人は
口をそろえて「お昼ご飯も簡単だし 子供にたいして構ってやれない」
と言っている。それにひきかえ 保育園は 梅干しはつくるわ
お昼の献立は素晴らしいわ 絶対市販品使わないわ
絵の具でお絵描きもできるし ねんどもできるし
お歌も教えてもらえるし!で 楽園みたいにうつってしまう。


 だけど 本当はそんなこと 
親もいっしょにやってあげたら 
きっと一番いいのだろう 


 とは 思っても そんな余裕なんかないんだよー!
というのが本音なのだろう。


 でもちょっとはやってみたい!と私は思い
今日は一緒にこねこねしてたら 蓮太郎も
美味しそうにご飯をずっと食べ
眠そうになってお昼寝させに連れて行ったら
「今日お料理したねえ」と自分から言っていた。
「楽しかった?」「うん たのしかった」
「またお料理する?」「うん またする」
か かわいい。。。





 子供のいる喜びって こういうことにあるのかなあ

 子供に何かを伝えていくこと

 自分が大切にしたい価値観を
自分の子 に 伝えていくこと
かつて好きだった絵本とか 好きな音楽を一緒に聞いたり
子供は親がやってたら 「そんなの嫌!」とは文句をいわず
音楽だってきいてくれるし だいたい興味を示してくれる
それを次世代に伝えていくこと それができること
それが子供をもったもの の よろこびなのかもしれないな。


 子育ては私にとっては大変な方が多いけど
それでもやっぱりかわいくて 自分が大事にしたいところを
子供もわかってくれたなら 例えば彼も バーバパパの
キャラクターの名前を自分から覚えていったりするのだけれど
そして童謡をかなりしっかり歌うのだけれど
そういうのって あー 私が教えたからなんだ、、、
となんだか報われた気がしてちょっと嬉しくなった。
2年間本当に大変で 孤独な日々も山ほど経験したけれど
なんだか少し 報われてきた。
子供がいるからさみしくないし
話し相手になってくれるし
教えると吸収してくれる。

 いつの日か もっと料理を沢山教えて
10歳くらいになったなら ママが寝込んでいるときに
おままごとじゃない 本当の料理を 彼はつくって
くれるだろうか。料理のできる男めざして
今からいっぱい仕込んでおこう。

スーパーウーマンはこんなに大変

2010年10月16日 | 日仏子育て事情


 今日は土曜日だから思いきって研究は
お休みにして、普段できないことをしよう!と
思い立ち それなら前から行きたかった
展覧会に行ってこようということにして、
そこに行く途中によるカフェで 何しようかと
考えたけど これまた「研究」の本はやめ
最近面白くてつい読んでしまう
『スーパーウーマンはこんなに大変』を
持っていくことにした。

スーパーウーマンはこんなに大変
菊地 有子
バベル・プレス




 
 さーてあんまり時間もないし
バスを待ってる間から 何か有益なことがしたいと
思っていたら そうかこの時間でも読めるんだと
その本をバックがら取り出すと ついつい
ついついはまってしまって
結局今日1日で読んでしまった。
電車の中でも 電車を待つ間にも
カフェでジャズを聴いてる時にも
私はいつもそれを読んでて クスクス
つい笑っては 付箋を貼りたくなってしまう。


 この本は1987年にフランスで書かれた本で、
スーパーウーマンというのは、仕事、家庭、
子育て、そして女性としての役割を1人で
ばっちりこなす「有能で成功した」女性のことで、
著者はELLE誌のジャーナリストで2人の子供の母らしい。
彼女は特有のユーモアたっぷりに
スーパーウーマンであろうとすることが
本当はどれほど大変で それがいかに幻想に
満ちているのかを 沢山の友人たちの姿を交えて描き出す。


 これは発売と同時に瞬く間にベストセラーに
なったらしくて それというのも
そうとう彼女のような「本当はしんどい!」と思っている
スーパーウーマンたちの共感を呼んだからだろう。


 私が面白いなあと思った視点は沢山あるけど
その中でも「女たちは男性の権威を毛嫌いしていたというのに
今や女が男達にとって変わって 男が女になってしまった」
という視点とか彼女たちの時代に先行していたフェミニストたちに
対する攻撃だとか(というのも女達を解放した多くの
フェミニストたちがのちにはころっと意見を代えて
「家庭や母性もやはり女性には大切です、、、」
というようになってしまったかららしい)


 それから彼女はボーヴォワールについても
すごいことを言っている。


 「『第二の性』がこれほどの反響を呼び起こしたのは、
展開された論理の正しさによるものではない(これほどの
欠陥を、文句も言わずに認めることができるだろうか)。
それよりも、女性に対する厳しさ、あるいは意地の悪さ
ゆえなのだ。千ページにもおよぶ罵倒・・・(中略)

 奇妙なパラドックスだが、こうしてボーヴォワールは自分の
目的を達した。つまり女性たちを侮辱し、罵ることによって、
女性達を奮起させ、権利を主張させ、二千年に及ぶ隷属状態から
自らを解放させたのだ。つまり、《私はあなた方に何の
尊敬も感じない》と言いながら。彼女はまわりくどい言い方はせず、
女性達を傷つけた。」(p.176)


 彼女によれば「ボーヴォワールは男性だった、それも
徹底した女嫌いの男性だったとしか思えない」そうである。
『第二の性』は女性が書いたというまさにその事実によって
ものすごい反響を女性達に巻き起こしたけど
もし男性が書いていたなら あまりに激しい侮辱によって
フェミニストたちに罵倒されていたかもしれない。
男性だったらここまで書けない そんな恐ろしい書き方で
ボーヴォワールは「女性である恥」を説き
そんなままでいいのか!いいわけがない!と
女達を奮い立たせて そして世界を本当に変えてった。
彼女自身は この本を書いた時点では
そんな意図までなかったと述べていたけれど、、、
(だって彼女は小説家になりたかったわけだし
自分はフェミニストじゃないと何度も言っている)


 もしかすると スーパーウーマンの大変ぶりは
両立不可能な12個のものを無理矢理にでも
両立させようとしてへとへとになって息もつけない
そんなしんどい状況は「こんなんじゃだめだ!できるはずだ!」
ともっと自分に鞭を打つという そんな姿勢から来ているのかも。
それらはきっと「足りない」「まだだめ」というような
自己否定からはじまっていて それが
息苦しさを招いてしまってる なんだかそう見えてしまう。
だからきっと この著者は「できない」とは言わなかったけど
「少しくらいは休ませて!!」と叫びたくなる
そんな叫びに沢山の人が共感したから売れたのだろう。


 彼女はこう書いている。

 「もうやめようではないか。少しは私たちを解放してほしい。
あなた方はたえず自分たちのすばらしさを見せつけ、私たちを
苦しめていることに気がつかないのだろうか。
あなた方の栄光のおかげで、私たちはすっかりしょげかえっている。
私たちはあなた方の足元にもおよばないだろう。
そしてすでにぎっしり詰まった24時間を、48時間分
生きようとなお無駄な努力をしている。それは無理というものだ。

(中略)

 そして私たちに少しは同情して、あなた方もときには
つらいことがあると告白してほしい。(中略)
つまり成功するには、たとえ完璧な生活でも
どれか1つを犠牲にし、つらい思いをしても、
そうしなければならないのだということを認めてほしい。」
 (p,244)



 欲を持つこと やりたいことを持つことも
夢見ることも ワクワクするのも大事だけれど
ひたすらあくせく追われるように 秒きざみで
動いていくのと 彼女がつい憧れてしまう
ジェーンバーキンや他の有名人たちのように
「たいした努力もしていないと本人は言っているのに」
素敵な生活も地位も家族も手に入れてしまったという
そんな人たちは もしかして 似てはいるけど
何かの軸が かなり異なっているのかも、、、


 人からどう見られるかばかり気にしてあくせくするだけじゃなく

 本当の自分 等身大の自分、できない自分も認められること

 それってとっても大事じゃないか


 最近私はそう思う。



 私は最近2ヶ月くらい「ナマケモノとインテリジェンス」
について想いをめぐらせていて というのも前回
フランスに滞在したとき「ナマケモノであることと
知的であることは両立できる」と聞いてびっくりしたからで
どうやって?本当に?ほんとかなあ、、、と
私も最近ナマケモノを実践しながら考えている。


 ところがなんだか不思議なことに
「今日はもうナマケモノにしよう!」と思った日
そんな日に限ってなんだか あれ いつもより
いろんなことができている、、、?


 例えば今日は 朝ご飯をつくってヨガに息子と行ってから
朝市で買い物もして それからお昼ごはんをつくる傍らで
秋だしお菓子づくりでもするか!と思い立って
スイートポテトをつくったし。
それからジャズの生演奏が聞きたくて 久々の
高槻のカフェにまで足を伸ばして
それから兵庫の美術館に行き
電車の中では一冊本もちゃんと読めてしまって
なんだかかなり充実してた?!
でも私の中では「頑張った!!」という感じではなく
今日は「研究おやすみ、ナマケモノ、、、」な日なんだな。


 ナマケモノ実践をしてみて 1つこれかな?と思ったことは
他にたっぷり集中するほど 他のこともできる、ということ。
今日はもう朝から映画みちゃえ!とか まあいっか
蓮太郎とごろごろしてよう とか 「これでいっかー」
ということをそれなりにたっぷりしていると
脳みそが十分休んでくれるのか はたまた
違う部分をつかっているのか「じゃあ行ってきまーす」と
他のことをするときに かなりそちらにエネルギーが
集中できるみたいだなあ。集中力に差がでるのかしら?


 私はどちらかというと 自分で自分をしばりにしばって
「足りない!まだだめ!でも苦しい!」とがんじがらめに
やってきて バカにもなれない人だったから
今の自分はとても楽しい。しかもなんだか
エネルギーも沢山あるから 意外と英語もできるかも?とか
そんな気にまでなれてしまう。


 なんだか不思議な体験だなあ こんな生き方もありなのか、、、
頑張っているつもりはないけど 結果としては
頑張って頑張って頑張っていた そんな時より吸収したり
何かができたりしてしまってる そんなこと も
あるんだな、、、


 自己実現も 幸せな家庭も子供も欲しい
本当にそれはよくわかる。「女の幸せ?それは家庭よ」なんて
決めつけないでほしいと思う。だから私は
フランス流のやり方に とても興味を惹かれるけれど
でもそれが絶対なわけじゃない し 日本にも日本のよさがある。
だから私は「中途半端」に 「専業主婦!」の幼稚園ママにもなりきれず、
週5日働き続ける保育園ママにもなれない 
どっちつかずの日々を送っては悶々としているわけだけど
いつの日か 自分の中でいろんな視点を融合させて
女が幸せになるために こんな生き方も可能なのではと
そんな提言ができたらいい。

サードプレイスとしてのパリのカフェ

2010年10月15日 | サードプレイスとしてのカフェ


 この先どんな未来が待っているのか
私にはもうさっぱりわからないのだけれど
少しでも歩み始めてみたのなら
もう進むしかないのだろうかと
手をつけたことはやりはじめ
「2冊目の本を出したい!」という
気持ちは私の中ではかなり盛り上がって来てはいるので
これを機会に いわゆる研究を再開だ。


 私にとって 研究というのがどれほど
大切なのか 本当は好きなのか 好きではないのか
あんまりよくはわからないけど
1つだけ言えること は ママサークルで
話していたり 三輪車を押してたりする私より
図書館で本と向き合い ノートにがりがり
書き付けている 私の方が 私にとっては
自分らしい感じがするということだ。
(そしてああ書きすぎて手が痛い、、、というのが
ちょっとした快感だったりもする。。)


 そんな時間があるときに

 ああ しあわせ、、、

 研究できるってなんてしあわせ、、、と思ってしまう。


 1年前は 図書館にすら行くことなんて
できなくなっていたというのに 今では
憧れの日文研の図書室で 自分さえやる気があるなら
文字通り朝から晩まで研究できる。
それってとてもありがたい。


 さて最近は 今年前半にはまっていたのに
途中でやめてしまってたオルデンバーグの
'The Great Good Place'をもう一度読みはじめ
わー英語だよーと思っていたけど
もうインターナショナルな道をめざそう、
もうしんどいからできないだとか
幼稚園ママと同じ道をたどっているのに
そんなの無理とかいっていないで
3カ国語できるようになってやる!と
遠くの方を見るようにして やってみるのも悪くない。

The Great Good Place: Cafes, Coffee Shops, Bookstores, Bars, Hair Salons, and Other Hangouts at the Heart of a Community
Ray Oldenburg,Ray Oldenburg Ph.D.
Da Capo Press





 そしてやっぱりこの本はとても面白くって
この人も パリのカフェについては特別視してて
やっぱりなー パリのカフェって カフェの理想型
みたいなもんだし オルデンバーグもそう思うんだと
ちょっと嬉しくなってしまう。外国人だからこそ、
当たり前とはとらえられずに、う うらやましいと
指をくわえて見てしまう そんな光景がパリにはあって
オルデンバーグも私同様「フランスはとても美しい!
そうだったろう!」とフランスを旅行してきた娘の
友達に力説していたらしい。

そうやっぱり 生活に根付く美学というか
「おい、そんなとこに駐車場つくるなよ!」とか
「おい、こんなセンスの悪い建物つくるなよ!」とか
つい突っ込みたくなってしまうような
そんなことは フランスでは なかなかないようで。
東京で写真を撮ろうとしてもなかなか撮るものが
見つからなくって悲しくなった私からすると
やっぱりフランスはうらやましい。


 オルデンバーグの言葉には だいたいいつも共感してて
「そうだよね!やっぱりパリのカフェいいよね!!」だとか
「そうだよね!やっぱり郊外でサードプレイスのない生活なんて
最悪だよね!」とか「そうそう サードプレイスで
一番大事なのは温かさ!でもそれをわかってない人が
多すぎるんだよ、、、」とか 私は勝手に意気投合して
いつか翻訳してみたいとか 2冊目の本に
沢山言葉を載せてみたいとか いつかお話してみたいとか
そしたらきっと気が合うだろうとか
そんな妄想をふくらませてたりしてしまう。


 彼の本を読む度に だからさー
もう郊外の宅地開発やめようよ、、、(特に
うちの近所の桂坂は京都の高級住宅地だけど
サードプレイスなんて何もなければスーパーも
1つしかなく 恐ろしい、、、と思ってしまう)
と私は思い、やっぱり近所にいいカフェがあるところに
住みたいわ、、、という結論になる。


 オルデンバーグはめっちゃいいことを書いてるし
サードプレイスがいかに人々の生活にとって
あった方がいい場所なのか を 力説してくれてるのだけど
翻訳も出ていないまま 今度は日本が
彼の描いたかつてのアメリカ郊外みたいになってしまって
日本にもっと サードプレイスやカフェという場の、
人と人が 出会い 交わってく場の重要性を
声を大にして問う人がいないといかんと思ってしまい
では誰が?と思った時に 他にも誰かいるかもだけど
私もその1人では?と思うので 私は私で
できる限りの力を活かして この2年間
子供を寝かせてなんとか続けてはいた
研究の成果も活かして 何かが伝えていけたらいい。


 カフェに通った人は知っている。
カフェにはすごい力があると
カフェにもっとみんなが通えば
社会問題も少なくなるし それどころか
自主的に解決にむけて勝手に人が動きはじめるかもしれない
それほどの力があるのに まだまだカフェは「もったいない」。

 いつの日か 日本のカフェが もっともっと
面白くなり フランス人が指をくわえて
うらやましー と言いたくなるような
そんな場所になってほしい。

日本のカフェ文化

2010年10月11日 |  カフェ的な場で考えたこと



 先日翻訳をしていた際に 相手先に
問い合わせるのを忘れてしまったフレーズがあり
うーん これってどう訳したらいいのかなあ?と
思い立ってフランスの友人に電話してみることにした。


 その言葉というのは 'Art de vivre'というもので
昔自由が丘にまさにその名前のお店が存在していて
そこはとっても異色を放った素敵なお店だったから
だいたいのもつ意味は 理解しているつもりでいたけど
友人に つまりそれってどういうこと?と尋ねてみると
「うーん これは説明するのが難かしい!」とのことだった。
「洗練された暮らし方というか、、いろんなものが
よくセレクトされてて その空間に調和していて、、、」


 何分か会話した後 私はだいぶ理解ができて
それからこう言いたくなった。
「それってさ、日本には存在してないよねえ?」
「いやいやそんなことないよ!日本だって
洗練された暮らしがあると思うよ
だからフランス人は日本に興味を持つんだよ」
「えーそうかなあ 例えば、、、?」
「例えば、、京都とか?」
細かい話の内容までは しっかり覚えてないけれど
そうかな 本当に日本にも art de vivreはあるのだろうか
それが私の中で何週間かひっかかってた。


  art de vivre(アールドヴィーヴル)というものは
私が理解したところでは センスの良い暮らしというか
あー そこにそんなのがあったらまさにいいよね!素敵だねという
そういうことを 自分が自分で生み出していける
そんな力の気がしてて ちなみに私の電子辞書 で
art de vivreを引いてみる と「処世術」と書いてある。
確かにこうも訳せるけどさ それは多分 違うでしょう、、、
(意外と電子辞書にも間違いがあるらしいですよ!)
もっとこう ブドウの木の下でアペリティフを楽しむだとか
自分たちでテーブルを外に出して朝ご飯を外で食べるとか
夕飯の時にろうそくをセッティングするとか
そこで音楽はどうしようとか そういうものじゃないのかな。

 私はフランスに行く度に
ほとんどの人のおうちで そんな素敵な体験をして
(そしてママンの手作りタルトが出てきたり!)
なんて素晴らしい!! と夢見心地になってしまった。
そんなの日本で存在するのか?
普通の人の家に行った時「わーなんて素敵!!」と
思ったことより かなり雑然としてるなこのお家、、とか
シンプルだけど当たり障りがなさすぎだよな、、とか
つい思ってしまうことの方が圧倒的に多かったから
私はつい、「日本にはそれはないのでは?」と思ってしまった。


 だけど「あるよ!」と言われてしまうと
そうかなあという気もしはじめて
お医者さんで『家庭画報』や『婦人画報』をめくってみると
あー確かに 存在するかも!!美しい、、 でも 誰この人は、、、?
一体どんな階級の方なのかしら どこに住んでらっしゃるの?
銀座のカフェですれ違ってた エレガントな人たちのように
今までの人生においてはすれ違うことさえなかった
そんな人たちは こういう世界に生きてるのかもと
ちょっと思った。


 さて その他は?どこかにあるのか?art de vivre、、
と思っていたら 意外にあった!それはなんと
カフェなんですね、、、



 日本のカフェってなんで対話が生まれないんだろう?
なんでこんなに違うんだろう?でもそれはそれで
独特の1つの文化領域に達してて
世界に誇れる文化かも?と思ったりもすることがあり
時にセンスのいいカフェに行っては その空間造りに
驚くことが多々あった。


 あー これか!と 奈良のカフェ でピンときた。

 これが日本の文化なんだわ。
茶道のあとをひく文化。

 そう カフェの主人は 茶道の亭主のようなもの で
粋をこらした自らのセンスを問うてる空間に
人を招きはするけれど そこで偉いのは主人であって
招かれた客はというと 私が望んでいるような種類の
自由はあまりない。そこでは客は小声で話し
静かに本を読んでもいいけど その程度しか許されていない。
私が京都の「ソワレ」で感じた違和感や
(それまで一緒にいた友人と店に入ったとたんに
話したかったことすら話せなくなってしまった)
先日訪れた京都のカフェで感じた違和感
(皆ものすごい小声でしゃべる)
好き勝手になんて振る舞えないけど
客たちはそれをよしとしていて
「何か」をそこで受け入れている。
「何か」をそこで尊重している。
それは主人がそこで示している空間のセンスや
提供されてる空気感。

 ああ 私には真似できないけど
なんて素敵なんだろう。
私も少し とりいれられたら
こんな空間が私の部屋になったなら。
ああそうか この花の使い方は真似できるかも、、、





 そんな感じで おそらくカフェ空間とは
だいぶギャップのある自分の生活空間を
もう少しだけよくできるよう 夢をみさせてくれるような
そうまるで『天然生活』みたいに
自分はあまりに忙しくって 料理する暇もないけど
みているだけで心地いいから いつの日か、を
ちょっと夢見て買っておこうとする 癒し系の雑誌のように
日本のカフェという空間は 「どう?こんなに
なったら素敵でしょう?」という店主独自の世界観を
空間と食べ物と飲み物を用い 五感をつかって
感じられるように つくりあげている空間で。


 それってまさに茶道じゃないか。

 やっぱり現代の茶道がきっとカフェなんだ。
絵巻物が漫画になっていったように
日本のカフェは1つの文化領域になっている。
それはとっても素敵だけれど
そうそこで 人々は日常生活にちょっと足りない
art de vivreを感じてみたりするわけだけど
(ちなみに茶道を習っている人はよく
茶道の空間を「非日常」と表現しますが
日曜日にいく素敵なカフェも同じように
「非日常」を味わいにいく空間なのかもしれません)


 私はそのカフェで痛感しちゃった。
ここでは議論はおこらんわ、、、
だって主従関係があるんだもん。
カフェの店主こそが偉い。
どう?こんなこともできるんですよ?と
圧倒的な力を示されるほど 客達は
受動的にならざるを得ない。
それほど空間の力は強い。
だから誰もその店主を 越えることなんてできないだろう

 だから私は言いたいのだけど
日本のカフェはサロン化している。
そうじゃない 自由な雰囲気のカフェも
少しはあるけれど 方向性は全く違う
だけどカフェに自由がなければ
いったいどこに この日本で
好き勝手なことを話せて
好き勝手に振る舞っていい
自分が思うように何かをしても
誰にも非難されることのない 
そんな場があるというのだろう?
(それはもしかしたら「対話」の場や
OSTなどのワークショップかもしれませんが
あまりに高い料金を払えない人はそんな機会さえもない)

 カフェこそ人を救うのに
カフェこそ潜在力があるというのに
日本のカフェは あまりに店主の格が高くて
あんまり自由が存在しない。

 だからこそ
私にちょっと使命というのがあるのなら
私は私で伝えるべきだ。
カフェの他の姿というのを。
「茶道的カフェ」だけじゃない
もっと客が自由に振る舞い
その個人こそが 何かを生み出していけるような
場としてのカフェを
そんなカフェ が 可能なことを。
やっぱり2冊目の本にむけて
私は力を注いでみよう。

いにしえの都へ

2010年10月10日 | インフォーマルパブリックライフ


 前回奈良に行ったときから その景色の
雄大さに 感動し 京都に住んでる間に
そして車が使えるうちに もう一度!
奈良に行きたいと思ってた。


 今回は3連休、というわけで、
歴史の教科書でおなじみだった三輪山めざして
行ってみました。


 奈良 なら は 何が違うかと言いますと
前回車で通った時に 山や空の時空を超越した感じに
うわあ ここは 日本の母なる大地なんだな、、、と
なんだか感じ入ってしまって 万葉集とか
古代の物語を 21世紀に入った今でも感じさせる
その懐の深さにおそれいる。


 夕暮れ時に車で山の麓を走っていたら
ちょうどご飯を食べようとした国道沿いから見えた山は
まるで妊娠している女性が横たわって寝ているような
形をしていて ああ ここって 本当に
胎内のような 母のような 日本の原風景や
原点があるような、、、そんな不思議な魅力をもった
場所なんだなあと思ってしまった。


 私は京都に住んでるけれど 以前は街中にもいたけれど
どうも京都は「人間の技をみよ!これでもか!!」という
感じがすごくて お寺はいっぱいあるけどなんだか
ギスギスしている感じで 悠久な時を感じて
自然の偉大さにおそれいる、、、という感じとは
全然違う気がしてしまう。京都で偉いのは人間、人間
人の目を気にしてなんぼ な 気がするけれど
なんだか奈良はどーん としてて
小さい子が お母さんに抱っこされるような感じなのかな?


 そんな奈良 で 今日はたまたま
街中の近くを通り 私はガイドの試験を一応受けたというのに
一度も大仏様を拝んでいないままなので これではいかんと
思っていたから「時間があったら大仏みたい!!」と
見させてもらうことにした。


 そうして途中で素敵なカフェに立寄り
大仏殿を見学してから、かの有名な東大寺南大門金剛力士像をみて
それから奈良公園で蓮太郎に鹿せんべいでも持たせてあげよう
そう思ってたらどんどん どんどん時は過ぎ


 なんだか気持ちのいい時だった。


 奈良公園は 何かが違う

 なんだかここは パリの公園みたいじゃないか!
何が違うって?そう みんなが楽しそうに
好き勝手に振る舞っている!日本で一番パリっぽい公園かもしれない。


 どうしてそれが可能かといえば
答えは鹿がいるからで 鹿は案外凶暴で
150円の鹿せんべいを買った横から人をつついては
せんべいよこせ!!と襲ってくる。
だからけっこう怖いのだけど それでも
みんな買ってしまって ワーワーいって
たまに追いかけ回されたりもしながら
なんだかその場が盛り上がる。





 そうして素 の自分がでちゃって
装っている場合じゃなくって(だってけっこうビビります)
うひゃーとかいってるうちに なんだか楽しくなってくる。
人間やっぱり 限界に挑戦したり
バカなことをやってみる と 素がでて楽しくなるんだね。


 というわけで ここでは子供も走り
大人もたまに叫んでて そのかたわらでは
素敵なクラフトマーケットが のーんびりと開催されたり
その向こうには かの有名な若草山がまた
のーんびりと みんなを見おろしていて
なんだか とっても気持ちいい。
しかも東大寺では消防士さんたちのブラスバンドフェスタがあったり
いろんなところでしっちゃかめっちゃか 
好きなように楽しめる。


 奈良って なんか 不思議な街だ。


 大仏も お寺も 人間のスケールを遥かに越えて
なんだかやたら大きいし 公園のスケールも
やたらでかいし お洒落なカフェやら
お店もけっこう存在してるし デザイン力が高いのかなあ
(せんとくんはいけてないけど でも彼は蓮太郎に似てる、、
そして蓮太郎はせんとくんの人形を買ってもらって喜んでいた)

 奈良には なにかが存在してる
それは多分 日本人が 根っこにもってる大事な何かで
でも現代の生活には 存在しない
忘れ去れた 大事な何かで 
あの奈良の夕暮れと 
東京の高層ビル街の夜景というのが
同じ日本に存在してる?
それがなんだか とっても不思議


 東京にちょっとつかれた方は
京都に来るのも悪くないけど
奈良で3日でののんびりとして
ちょっと田舎(飛鳥とか)に言ってみたら
価値観がちょっと変わるかも。
日本に奈良があってよかった。
奈良は遷都1300年
なんだかとっても面白そうです

小さな存在

2010年10月09日 | 子どもから学ぶ


 我が家の小さな怪獣は
最近めきめき色んな能力を発揮していて
毎日毎日すごいなあと感動したり
この子天才?!と思ってみたり
いやバカすぎる、、、と思ってあきれはてたりの繰り返し。


 子供って、、、と思うことも
沢山あるけど 今日はぐずる彼を
子守唄で寝かしつけたら 久しぶりに
おっぱいをあげていたときを思い出し
あー 大きくなったんだなあと
その手のひらを握りしめてたら
愛しさがこみあげてきて
なんだかとっても幸せな気分になった。


 おっぱいをあげてるときは
ラプホルモンというのが出るらしく
あー愛しいなあ かわいいなあ
おっぱいが大好きなんだなあ
と しんどかったけど
あの顔をみる度に愛しくなっていた。

 そんなことが終わってからもう
1年以上が過ぎていて
思い返せば おっぱいが終了したから
私は私で少しは動きがとれはじめ
フランスに行けたりだとか
やりたいことに向かっていけて
それは本当にありがたいことだと思う。


 とはいえあの一体感とか
母と子がつながる感じ
あーいうのって よかったなあ
最近は別存在になってしまって
それはそれでおもしろいし
とっても可愛いのだけれど
ずっとぴったりくっつくことももうなくなって
なんだかちょっと 不思議な気分。



 蓮太郎は もう言葉もかなりしゃべれて
すごいレベルに達しつつある。

 例えば今日あった会話のサンプル。

 「お母さんきれいだね!」(ありがとう!
そんなことまで言ってくれるの?!
美容院に行った帰りにそう言ってもらえました)


(オレンジ色のブロックを小さなフライ返しにのっけて)
 「これケーキ。 食べてくれ」
「あのねえ 食べてくれっていうのは
蓮太郎より年上の人にいうのはちょっと失礼なんだよ
食べてくださいっていうの わかった?」
「わかった。ケーキ食べてください」
「ありがとう。美味しいね!」

 
 「あっがと」
「あのね 蓮太郎、ありがとうって言う時はね
なるべく人の目を見て言った方がいいんだよ。
その方が嬉しいでしょう?ありがとうとごめんなさいは
目を見て言うようにしなさい。ありがとうって言ってごらん」
「(目を見て)ありがとう」
「あら偉いねー!!」



 ちょっとうまく思い出せなくなっているけど
彼の日本語は相当な会話能力がもうあって
多分私がフランスに留学したときより話せるレベルで
本当にその能力がうらやましい。
ものの名前も うさぎとかワンワンだけじゃなくって
ペンギンにねずみ、はたまた かたつむりまで知っている!
もちろん車の名前ときたら ミキサー車に
クレーン車、ブルドーザーにゴミ収集車、
廃品回収車に高所作業車に蒸気機関車
彼はなんでもござれです。(今2歳3ヶ月)


 蓮太郎、、、頭いいね!
そんな蓮太郎に母は希望を抱き
将来は何になるかな?画家になる?
それともソムリエ?探検家?旅人?とか
いろいろ想いをめぐらせ尋ねてみるけれど
どんな風になってくのかな
そんな風に 親が勝手に夢を見たって
子供の大多数はサラリーマンになるのだろうけれど、、、


 さて、一見将来有望にみえる我が息子。
一度遊びはじめるとバカさを発揮し
あーこりゃだめだ、と2人でバカ親子をやっている。
2人はいつも 相も変わらず怪獣ごっこで
激しい戦いを繰りひろげたり、
どこかでちゃんばらごっこをしたり
今日なんて雨なのにベビーカーカバーを使って
連れ出してみたら 帰りは乗らない!!と言い張って
仕方がないからベビーカー片手に傘をもう一方に持ち
「じゃあちゃんと歩きなさいよ!わかったね!」と
念を押したものの 一歩目からジャジャ降りの雨に
突進していく、、、 その嬉しそうな顔といったら!!


 そしていつもの喫茶店から 彼はすごい勢いで走っては
ドーンと転び また満面の笑みでダーっと走り
普段は歩かせると「だっこ だっこ!!」の連続なのに
かなりの早さで家につく。そしてほとんどずぶぬれだ。
でもその嬉しそうな顔!
なーんだ 雨の日は家で鬱々してるより
傘さして長靴はかせて外出すればいいんだわ、、、

 「やっちゃいけない」ことをする
その時のあの顔といったら!彼は本当に楽しそう。
あんな風に 満面の笑みで 瞬間瞬間を楽しんでたら
どんなに人生楽しいだろう。 蓮太郎が
どんな使命をもってこの世にうまれてきたかはわからないけど
少なくっとも 生まれた時から
とても楽しそうにしてるから
彼にとっては この世に生まれた甲斐がすでにあるのだろう。
沢山のことを学んで 沢山の人と出会って
沢山悪いことをして お母さんに怒られて
そうしていつか また眠り
そうして朝に また起きる。
そんな1日 そんな日々 が 彼にとっては
かけがえがなくて 本当に楽しい日々なのだろう。


 子供って 小さな存在だけど
なんだか 本当にすごいなあ
蓮太郎、 いつも怒ってしまうけど
お母さんは あなたがいるから
笑えるのかもしれません。
これからも沢山おもしろいこと バカなことして
お母さんを笑わせててね。
小さな存在 小さなおてて
かわいい寝顔のこの男の子
生まれてきてくれてありがとう。

再び 孤独と書くこと 

2010年10月08日 | 書くということ


 いい加減京都に帰らなけりゃなと思っていたのは
ママサークルを何度も休んでいるのも申し訳がないからで
今日こそは行こうと思って 蓮太郎と行ってはみたけど

 どうしてなのか 私は行く度 そこで
孤独を感じてしまって

 いつもいつも それが終わるたび
何かをどこかで発散したくて 
私は書きたくなってしまう。


 1人でカフェにいったところで
1人で東京を歩いたところで
もちろんパリを歩いていたって
ここ最近は全くもって孤独なんて
感じたこともないというのに
不思議なことにママサークルや
このニュータウンの集まりにいると
私は孤独を感じてしまう。


 なんで どうして なのかなあ


 なじんでみようと それなりにして
それなりにいろんな努力はしてきたけれど
やっぱり やっぱり何かが違う
東京や 横浜やパリで感じていられた
居心地の良さ や きっと自分が自分でいられる感じは
この郊外のニュータウンでは得られなくって
なんだかつらく なってしまって
私はまた つい 口を閉ざしたくなってしまう。


 今日はサークルにいき 
そのあと喫茶けやきにも行ってみたけど
この場所に 欠けてるものは
ダイナミズム かもしれない。


 何かが起こって 何かがぐーんと変わってく感じ
東銀座のタリーズにいたときに夢をみさせてくれた感じは
当たり前のことだけど このニュータウンでは得られなくって
あれは銀座だったから。都会には都会特有のよさがあり
都会のカフェには 田舎のゆるいカフェでは得られない
都会特有のよさがきっとあるのだろう。
ここはのんびりしてるけど 本当に
子育てと 子供と山と田んぼしかなくて
知的な刺激を得ていたくって
誰か面白い人と交わって 熱く議論をかわしていたい
そんな私にはとてもつらい。


 孤独っていったい何なのだろう

 どうして私は 1人でいても孤独じゃないのに
むしろ1人でいたいのに 大勢の人に囲まれてると
孤独を感じてしまうのだろう。これは幼稚園頃からそうで
だから私は 日本特有の女子で群れるという
そういうの が とても嫌だったわけだけど



 どうしていったらいいのだろうか

 1人でカフェで創作してればいいのだろうか

 1人でこうして 書いていればいいのだろうか
私の息子を寝かしつけ 少しだけの余った時間で





 私はどうも ママサークルの人たちのように
子供に人生をだいぶ捧げて生きていくのは
かなり難かしいようだから 
子供はやっぱり1人にしておく方がいいのかな
サークルにいるとみんな2人目の話をするけど
相も変わらず 私はそれを恐れてる。
自分の道や人生っていったいどこに向かうのだろう
ここにいる人はもう家も買って 幼稚園も決まったりしてて
ずっとここに住むんだそうな
私もけっこうがんばったけど
私にはどうもそんな暮らしや生き方は
向いていないようであり 
もっとダイナミックに議論して
知的な刺激を受けていたいな
もっとワクワク もっと興奮していたい。
わたしはのんびり暮らすより 刺激的に
自分の限界にちょっと挑戦するくらいで
生きてる方が楽しいらしい 


 もっと楽しく生きるには?
もっと自分を知ることか。

フランスの子育て

2010年10月07日 | 日仏子育て事情


 最近よくいわれるものの
フランスの子育てって実際どうなのだろう
そんなに日本と違うのだろうかと
疑問をもって もう一度
以前読んだことのある
『フランスの子育てが日本よりも10倍楽な理由』を
読んでみた。10倍も楽なわけあるかよ!と思いつつ、、、

フランスの子育てが、日本よりも10倍楽な理由
横田 増生
洋泉社



 2度目の今日は なんだかスーッと入ってきて
あーそうか、こんなに補助金の額が違うのかとか
へー外国人でもフランスに住んだらいけるのかとか
なるほど2人目からだと月に500ユーロももらえるのかとか
だいぶ自分の中にすとんと落ちていったのは
もしかしたら 私の見方が変わったから なのかもな。


 この本は男の人が書いていて
かなり数字も使われてるし
ちょっと難かしそうな言葉もけっこう
出てきたりする本だから 日本で
子育て中の主婦が読んでも
おそらく全部読まれることはないのでは?
少子化対策室の人なら読むだろうけど、、
とつい私は思ってしまう。
(これは自分の本の経験をふまえてわかったので
今度はもっと読みやすい本をつくりたい!)

 それでも今回なるほどなーと思えたのは
私自身が一度目に読んだときよりフランスでの
子育てを 身近なものとして考えるように
なっていったからだろう。

 とはいえ日本とフランスとでは
この著者がいうように 結婚、子育て観に関して
2世代ほどの開きがあるらしく
日本ではあいかわらず おばあちゃん世代のいうことが
それなりに正しい という感じで「自然に出産
自然に子育て そして自然に専業主婦?」という
流れがあるけど かつて私がパリのパスツール研究所の
フェミニストな所長さんと話をしたとき
彼女は私にこう言った。「自然 って あなたはいうけどね
それは人間がつくった文化よ。自然じゃないわ
そこははき違えちゃいけないの。」


 そのときはよくわからなかった
だって私は「自然に専業主婦」になったから
だけどそれは 社会制度の違いであって
それが必ずしも幸せな家庭や生き方を生み出すかと
問うてみれば 決してそんなことはない。
日本では7割の女の人が子供を3歳まで自分で
育てているそうだけど フランスでは8割の
女性は子供を産んでも働くらしい。
フランスでは専業主婦は肩身が狭いんだって
でも保育園そんなないって聞くけどね、、、


 やっぱりあの国では ボーヴォワールが与えた影響というのは
はかりしれないものらしく 日本で専業主婦をしながら
たまにボーヴォワールを読んでは自分に目覚めた私に向かって
私の旦那は「今日は様子がどうもおかしい
ボーヴォワール読んだ!?ボーヴォワールは毒ですよ、、、」
と言ってのけたりしたけれど
私はやっぱり 戦後あれだけ変化をとげた
フランスという地が気になっている。

 私もいつか この日本でのしっかりとした
「専業主婦 団地妻 しかもママサークルまでいった!」という
いわゆる主婦の経験をいかした上で フランスでの
子育て事情を身体で比較し 本が書けたらいいよなあ
もっと主婦にピンとくるもの
もっと日本の普通の女性が読めて 共感が湧くものを
私もいつか 書いてみたい と
あまりに異なるフランスの事情について書かれた本を
読む度思うけど まずは経験することで
読んでるだけでは わからない。

 子育て事情も 生き方も 学校の教育の仕方も
かかるお金も全然違うあの国で
私もいろんな経験をして いつの日か
ボーヴォワールが残したように
沢山の人に力を与える そんな本が書けたらいい

 ちなみに『フランス 新 男と女』とてもおもしろいです!
同じ時代を生きてるのに本当に?こんなに違うの?
日本とフランス!?とびっくりします。

フランス 新・男と女―幸福探し、これからのかたち (平凡社新書)
Muriel Jolivet,鳥取 絹子
平凡社


 せっかくなので好きなフレーズを引用しておきます。
すごく日仏の違いがでていると思います。


 「僕は日本人の視点はとてもよくわかる。
「すべて、一つまみの幻想のためじゃないか!」ってね。
でも逆に僕のほうから日本人に聞きたい、
何のために我慢してるんですかって。
だいいち日本でも、人はすべて幻想で動かされているんだ。
キャリアを積み、いい会社に入り、安定したものをみつけ、、」
(中略)
「たしかにフランス人は、日本人の言う
「平凡な生活に対する憧れ」では満足しない。
でもその「平凡」っていったい何だろう。
僕は日本人に、僕のようになれとは言わないよ。
でも僕がショックを受けるのは倦怠感だ。
どの顔を見ても退屈しきっている。
だから、僕はかんがえてしまうんだ。
待てよ、僕の目の前にあるこの顔こそが、
この国を証明しているのではないかって。
顔にあらわれている
あなた方はいつも眠っている!
そこから僕に疑問がわく。
あなたたちは満足しているんですかって。」


 ちなみに この文章はフランス人が書いていますが
(何故か日本人がフランスの子育て事情をかくと
礼賛!!になるけど フランス人は別に
そこまで素晴らしいとは言わない。
私の知人はみんなパリで子育てするのは難かしいと言います)
最後にこんな言葉が書かれていました、、、


 「バルザックは知人からの結婚の知らせを聞いて
「ああ、またひとりの女性が人類のために失われた!」と言い放った。
この言葉を現代に置き換えるとすれば、結婚ではなく
出産が当てはまるだろう。」
と「終わりに代えて」で書いています。
もう10年前の本なのでだいぶ変わったんでしょうか
やっぱり知りたいところです。


想いをカタチに

2010年10月01日 | 想いをカタチに


 もうこちらに来てから銀座通いもだいぶ慣れ
相変わらず東銀座のタリーズに行っては
様子をうかがい うーん今日もまた
お洒落な人やら格の高い人が来ているなあと
ちょっと圧倒されるけど さすがに何度か
通っていると おや?あの人昨日も来てたじゃんとか
あの人はもしや前に隣に座ってた人?
というのもわかり なんだか三条スタバみたいで面白い。


 私は父のお見舞いのかたわら そんなにたっぷり
時間もないけど カフェに通っては2冊目の本を
創りたいので それをどうしようとか考えてみたり
実際の作業をしたり 翻訳したり 電車にのっては
ノートに書いたアイデアを再び読んで
それにまたメモを加えてみたり
ふとした瞬間思いついたことをメモしたり。
そして夜更かしの息子が寝た後 母はもっと
夜更かしで 1時くらいまでまた「仕事」を
してみたりする。


 「私ねえ 銀座のカフェで仕事しててね」

 とかなんとか言ってみる と
なんだかその響きがよくって だけどそれは嘘じゃないから
ただのタリーズなんだけれども それだけで
なんだか私は嬉しい。そういうのって大切だ。
子供を産んだ直後に「丸の内」とか そういう
地名を聞いただけ でうらやましくって仕方なかった
私からしたら夢みたいなことだから。


 最近はポジティブシンキングをしようとしたり
友達にやたら元気に語ってみたりもするけれど
そのあとでどーんとネガティブ思考にとらわれ
ああ やっぱり、、、と鬱々とすることもある。
だけど何かは 動きつつある気がしてて
何か を きちんと動かすためには 
いったい何が必要だろう と考えてみると
クリアにイメージしてみることと
ワクワクがやっぱり大事だろうなと実感できる。


 ものの本には「ワクワクできたらもうできたも同然!」と
書いてあり ほんとかなーと思っていたけど
「できそうになかったのにできちゃった」ことを
思い返してみてみると あれってワクワクできたから?と
思えたりする。


 例えば大学受験のときは 高校3年の12月になり
やっと本気になれたけど(なんども言いますがそれまで
模試はE判定なのに早稲田に受かると公言してた)
その時も古文の世界にどっぷりひたって
「ああ風流ってなんて素晴らしい、、、」と
平安時代に生きていたい!と思っていたから
なんだか楽しくなっていて そういうことの
効果もあって 合格したのもあるのかなあ

 それに当時の私といったら
入試の時には「かかってこい!」という気持ちで受けてて
7人に1人しか受からないならその1人になってやる!と
強いイメージをもって受けていた。かかってこい!と
思えたのなら きっと人は強いんだろう。
そんな気持ちで試験を受けると 試験自体も
楽しくなって ちょっとわくわく面白く
余裕をもって臨めたときは だいたい試験は
うまくいってる そんな経験もだいぶした。


 そうだから 面白い と 思えるか。


 2冊目の本に関しては 勝手にパリで妄想をして
それならもう取りかかっちゃえ!やろうと思ったのが
やりどきだ と勝手に思い 色々とカタチにしようとしてて
うーんどうかなと思ってたけど 昨日無印良品に
立ち寄ったとき 面白そうな文房具を見て
インスピレーションが湧いてきて
そうだ こんなものをつかって こうやって表現をして、、、!
と考えていたら なんだか楽しくなってきた。


 そう 想いがあって ワクワクできて
それがだいぶクリアになって しかも共感してくれる人がいたのなら
あとはもっと具体的にして 現実化するだけなのだ。。。


 本当は 何もそんなに 難かしくなんてないのかも。


 本当は 自分が躊躇しているだけとか
方法がわからないとか 共感してくれる人に出会えなかっただけでしかなく
もしかして 共感して 面白いかも!といってくれる人にただ出会えたら
それだけで 何かはグーンとスピードアップするかもしれない
たとえそれが ばかみたいなアイデアだって
面白い そう思えたのならいいわけで。

 
 「いやー馬鹿みたいだよね あはははー」と
思いながらも 何かを現実に近づけていく 
そういう作業は面白い。本当に そうなるのかな?
ワクワクができて 人に語れて?誰かが共感しれくれたなら?
例えば2冊目の本を出すのも?
例えばパリにまた住むというのも?
例えば地中海に別荘を持つというのも?
子育てについての本を書くのも?いつか叶う かもしれない。


 不思議なことに ブログに書いたいろんな思いは
私個人のノートにちょっと書いたことより
叶う頻度が高い気がする。多分それは ちょっと
公に 自分の気持ちを出すからだろう。
ギャザリングの時やっていたけど 熱い想いが
湧いてきて しかも企画がちょっとたてられたなら
口をすべらし みんなの前で「やります!」と
言ってしまうことがいい。だって あとにひけなくなるから
「本当?じゃあいつするの?」と言われてしまうから。
私にはもっと 実現したい たくさんの想いがあるから
ワクワクとイメージの力を借りて
それからこのブログも借りて
ひとつひとつの 想いをカタチにしていこう。


 まずは2冊目の本を出版したい!
それからもう一度パリに行って、、、
書くのが仕事にできたらいいな。


 よかったらみなさんも想いを書いてみてくださいね
実現するスピードが早くなるかも?!

フランスに行くなら

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