alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

まちがもっと気持ちのいい場所になるために必要なこと

2018年01月21日 | パリのカフェ的空間で


投稿がご無沙汰しているのにイベントの案内で恐縮ですが、
昨年から必死になって研究を形にしようとしている
インフォーマルパブリックライフの活性化の方法と、
そのためにオープンカフェが果たす役割について
1月28日に胡桃堂喫茶店さんでお話させていただきます。


以下案内文になります。うまくいくまちづくりや空間づくりには
セオリーがあります。そのセオリーをしっかり活かしていく上で
カフェは欠かせない存在なのです。それをなんとか今年は
本にしていこうともがいています。
ご興味があれば是非どうぞ・・・・
(申し込みは一番下のフェイスブックイベントページからお願いします)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「まちがもっと気持ちのいい場所になるために
必要なこと 〜インフォーマル・パブリック・ライフとカフェ〜」

みなさま、どうもこんにちは。
クルミド出版の今田と申します。
 
この度思いがけない機会が実現しましたので
みなさまにご案内させていただきます。
 

カフェ文化研究家・飯田美樹さんをお招きし
----------------------------------------
パブリックライフとカフェの関係性
----------------------------------------
ということ考えてみたいと思います。


飯田さんとの出会いは、
クルミドコーヒー店主/クルミド出版発行人である影山が
2009年に飯田さんの著作『caféから時代は創られる』
を読んだことがきっかけでした。
 
ピカソ、モディリアーニ、レーニン、ヘミングウェイ、サルトル……
20世紀の初頭、パリのカフェが
いかに「時代を創る」役割を担ったかについて
実証的に語ってくださるこの本に
スタッフ一同、今も勇気づけられている本です。
 
昨年、そんな飯田さんとお話しする中で
現在の関心が
「インフォーマルパブリックライフにおける
 カフェの重要性」にあるということをお聞きしました。

"informal public life"
直訳すると
「気取らない公共生活」でしょうか……。
なんだかいまいちピンと来ませんね。

もともとはアメリカの社会学者
レイ・オルテンバーグが"the Great Good Place
(邦題『サードプレイス』)"の中で語っている言葉で
飯田さんが
「老若男女が行き交い、ちょっとした時間を過ごし、
なんだか楽しそうな雰囲気のある場での過ごし方」と説明してくれました。
こうなると、なんだかちょっとイメージが湧いてきませんか。
 
ただ一方で、
先ほど"public life"を上手に訳せなかったことが示すように
日本ではまだまだイメージできないのが現状。
「ヨーロッパは進んでいていいなぁ」
なんて思う方もいるかもしれませんね。
 
しかし、ヨーロッパの多くの都市も昔から変わらずに
"public life"が存在し続けてきたわけではありません。
それらを獲得してきた歴史があるのです。
 
ではどうすれば
インフォーマルパブリックライフを豊かにしてくれる
心地よい公共空間をつくることができる のでしょう。
  
飯田さんは
研究や実践を重ねてきた先人たちの知恵を学びつつ、
その質を高めるのは
カフェにあるのではという仮説を持っています。
 
当日は飯田さんの発表を聞き、
来ていただいた方と一緒に
ディスカッションができるといいなと思っています。
 

また、実は
クルミド出版から
飯田さんによる上記のテーマの本を出版予定です。
 
出版は英語ではpublishing。
文芸作品や情報を製作し、周知するプロセス。
すなわち、情報を公にするという意味合いが含まれます。
 
出版と日本語に訳してしまうと
どうしても物質化するイメージに固定化されますが
「知を公にし、その先討議して、知を深めていく」
ということも出版社の役割であると考えます。
 
また、カフェからはじまった出版社である我々が
カフェというメディアを通じて
情報を公にしていくのは
自分たちの役割なのではないかとも考え
今回の企画を着想しました。
 
カフェという場に興味のある方
都市社会学/サードプレイスに興味がある方
まちづくり/パブリックライフ学に興味がある方
なんとなくピンと来た方
ぜひ、お越しいただけたらと思います。 
 

< プログラム>
1.ごあいさつ
2,飯田さんより発表(50分)
3.クルミド出版発行人・影山から飯田さんへ質問(30分)
4.質疑応答(30分)
 

日時:2018年1月28日(日)9:00~11:00
   ※この日は11:30〜の営業となります
場所:胡桃堂喫茶店
参加費:2,000円(ワンドリンク込み)
定員:30名
お申込み:このイベントページの「参加/Going」ボタンを押して
     いただけたらOKです。 
また、メール:info@kurumido2017.jp
   お電話:042-401-0433
店頭でも受け付けております。
定員に達し次第、受付終了となりますので
よろしければ、お早めに。

■ゲスト:飯田美樹(Miki Iida)

カフェ文化研究家、東京大学情報学環特任助教。
専門は20世紀前半のパリのカフェ文化。
高校時代からエコ・リーグという環境NGOに関わり、
数々の宿泊型イベントに参加、企画。
その体験から人生が変わる場、社会変革の発端となりうる場
について興味を抱く。学生時代にフランスに留学し、
パリのカフェに足繁く通っていた頃、
カフェが社会変革の場であったと知り、研究を開始。
著書『caféか ら時代は創られる』(いなほ書房)では、
「天才達がカフェに集ったのではなく、
カフェに通うことで天才になっていったのでは」という視点で、
カフェとい う場のポテンシャルについて考察。
出版後各地でカフェという場の力について講演。
現在はパリのビストロ、カフェ文化を紹介するサイト”Paris-Bistro.com”
日本版代表として記事の執筆、翻訳等を行っている。
ワインエキスパート。フラン ス語講師。フランス語通訳ガイド。

 
みなさまのお越し、お待ちしております!

申し込みはこちら
https://www.facebook.com/events/553243441714479/

語学力という武器

2017年07月11日 | パリのカフェ的空間で

 語学力は武器になる、と日本では宣伝文句のように語られている。
でも一体どういう武器なんだろう?
本当に武器になるなら、もっと本気でやっている人が多くてもいいように思うのだけど、
日本では語学というのはどうも二の次、ついでとして捉えられているように思う。

 先日パリで、留学時代から姉のように慕っている
英語とフランス語のバイリンガルのカナダ人の友人が
カナダから来た友達を紹介してくれた。ジャッキーというその女性は
日本に住んだことがあるらしく、私に興味を持ってくれ、
話をするうちうらやましそうにこう言った。「あなたすごいわね、フランス語が
こんなにペラペラで、英語もできて!」そう、私は去年
イタリアで決意をしてから英語を必死で頑張って、この1年でずいぶん
英語力を上げたのだ。おかげでフランス語には劣るものの、
英語だけでもかなり会話ができるようになってきた。

 でもそんな彼女に私はすかさず言った。
「でもね、ジュスティーヌとパリで出会った頃は
全然フランス語ができなかったのよ。とくに初めの半年は。」
そんな頃からしてみたら随分成長したものだけど、
ここに至るまでに15年もかかったことを考えるとなんとも
馬鹿馬鹿しいような気持ちになってしまう。

 私が姉のように慕うジュステーィーヌは
当時もっと若く、アメリカ映画の主人公を思わせる
華のある輝きを持っていた。
彼女はパリ国際大学都市という、第一次大戦後に
作られた、世界の若者達がともに出会って将来より
世界をよくしていくためにという希望のつまった場所の
中心部にある寮の寮長だった。
だから彼女はしょっちゅうイベントを開催し、たくさんの人に
囲まれて、いつも生き生き楽しそうに笑っていた。

 それに比べて私はといえば自分から望んで入った
その寮のあまりにインターナショナルな雰囲気に圧倒され、
そこに住むエリート達の楽しそうな会話に混ざりたくでも
内容が理解できずに苦しんでいた。そう、本当に辛かったのだ。
だから次第に共用スペースもさけるようになり、
かなりコンプレックスをかかえていたように思う。
そんな中でもジュスティーヌは私にも優しくしてくれ
寮の構内でダンスパーティがある時はよく連れ添って踊っていた。
他にも寮のお仲間とパリのアイリッシュパブに出かけたり、
唯一の日本人で早稲田の先輩だった方と一緒に
夜中に道端で早稲田の校歌を歌ったり、いろんな思い出が混じっている。
世界からエリートが集まっていたのは留学先のパリ政治学院だけでは
なかったようで、実はこの寮もそうだったのだと先日初めて理解した。


 まわりにはEUで働くことを目指すヨーロッパ出身者たち、
早稲田の先輩もフランス政府留学金の受給者で、フランス語はペラペラだった。
アフリカからは奨学金をもらって勉強しにくるトップクラスのエリート達が
ロベール・ガリックというその寮には集まっていた。
そしてその場所は国際大学都市の中でもとても特殊だったらしい。
というのも国際大学都市部は基本的には日本館、アメリカ館というように
同じ国出身の人たちが住む建物で構成されており、私たちの寮だけが
唯一、各国の人が混じるタイプの寮だったのだ。
同じ寮にいたエルサルバトル出身の女性はパリで精神科医として働いており、
なんと同時期に住んでいた女性の1人は大臣になっていたという。
学校の先輩は大統領に、同じ寮の人は大臣に・・・
今年になって気づいたけれど、本当にすごいところにいたものだ。

 私は彼らにはとうていかなわないとはいうものの、そんな特殊な状態が
今の私の原点になったことはどうも間違いなさそうだ。
あとの時は何一つかなわなかった。今でも追いつけないけれど、
それでも少しでも理解したい、彼らの議論に、笑う話題に
私も混ぜてもらいたい。日本を小馬鹿にされたときに、きちんと
反論して説明したい。自分の意見を彼らのようにしっかりと
話せるようになりたいと、私はいつも思っていた。
そしてあれから16年。ようやく私はそれなりに流暢なフランス語を
手に入れて、それなりの英語力を手に入れた。
だからね、全然、そのときからそうだったわけじゃないんです・・・
ねぇジュスティーヌ、私はあなたたちがとっても羨ましかったんだよ、
と私は昔の状況をカナダ人の女性に説明していた。

 語学力とは所与の才能だと思っている人が日本には多くいると思う。
そして言葉が出来る人は自分と違って才能に恵まれており、その人にとっては
ちょっとした言葉を訳すことくらいごく簡単なのだと勘違いしている人も多いと思う。
ところが実際にはそうではなく、語学というのは日々の努力のたまものなのだ。
どうして語学をやるかって?それは文字通り自分の武器になるからだ。
武器というのは履歴書にかく強み、という意味ではなく、
文字通り身を守り、相手からの攻撃をかわし、必要があれば反撃できる
それが武器としての語学だと思う。

 今回は帰りの空港で大変な目にあった。
いつもは3時間半前に着いている私も、ちょっと甘く見てしまい
2時間半前に空港到着。余分なことはほとんどせずに
トイレに1回いったくらいで、パンすら買わずに列に並んでみたものの
(インターネットチェックインも済ませていた)
シャルルドゴールの搭乗検査口は信じられないほどの行列ができ、
そこを通過するのに1時間以上かかるほどだった。
さすがにやばい、と感じた人は私だけではないようで、
目の前にいた赤ん坊を抱えたお母さんも、後ろにいた女性も
その後ろの家族連れも、私と大差ない出発時刻の人たちだけれど
皆出発1時間前を切っていた。それでも列は進まない、
どれくらいやばいのかもわからない。本気でまずいと思った人は
まわりの人に交渉し、列を飛ばして先に入れてもらっていく。
私は係の人に3回くらい話をし、あなたの時間は大丈夫、と
言われたものの、やばいのでは、と思っていたところに
先ほど話した後ろに並んでいたフランス人のおばさんが、
新しい検査口が開いたのをすかさず見つけ、すぐに私を
手招きしてくれた。こういうときは周りのことはお構いなしで瞬時に動かなければならず、
私も即座にダッシュした。おかげで私はなんとか間に合ったとはいえ、
交渉に交渉を重ねた末に機内に辿りついたのは、出発5分前の最終コールの時だった。

 ようやく飛行機に乗れたとほっとするのもつかの間、今度は
搭乗券に北京行きとしか印刷されていないのに気づく。
北京乗り換えで羽田行きのはずなのに?つまり私は北京から羽田の
搭乗券を持っていない状態で飛行機に乗ってしまったのだ。
(これはミスというよりエールフランス側でそう発券していた)
仕方がないので北京につき次第何度も係りの人に英語で尋ね、なんだかよくわからない
裏口みたいなところを通って手書きの搭乗券を作ってもらう。
こんな時に心底思う。言葉がもしできなかったらどうなっていたのだろう?
私は多分飛行機に乗れてなかったし、北京でも大惨事だったかもしれない。
言葉ができないということは、その場で何が起こっているかの
状況把握ができないということで、情報収集しようにも
まわりの人とコミュニケーションができないと、的確な情報がつかめない。
なぜこうなのか、ではどうしたらいいのか、最善策は?
それを瞬時につかめないと、例えばテロが起きた時、
大混乱が起きている時、一瞬の判断ミスが本当に命とりになるだろう。
フランス人も、世界の人も、日本人ほど優しくはない。
搭乗時間に遅れたら個人の責任として閉ざされることもある。
私が空港で最後に会った係の人は日本人で、乗れるかどうか
尋ねたところ、私の便には100人以上がまだ乗れていないと説明してくれた。
そのわりには飛行機はそこまで遅れずに出発し、私のあとから99人も
入ってきたような様子はなく、空席さえもあるようだった。
彼らは本当に全員乗れたのか、それとも置いてけぼりにされたのか
真相は私にはわからない。けれどそんな状況になったときに
大切なのは自分の状況を説明してなんとか入れてもらう交渉力だ。
私の目の前にいた子連れの女性もまわりの人に応援されて交渉し、
列を抜けて特別なゲートに入っていった。後ろの女性も、もう無理よ!といって
列を通過する覚悟を決め、交渉して前に進んでいった。
私より15分搭乗時間の早かった日本人の団体客は「飛行機は
待ってくれるらしい」といってのんびりと列に並び、ずっと携帯をいじっていた。
あの人たち、本当に乗れたのだろうか・・・・
(一応忠告はしたんですが・・・)


 広い世界に出た時に、以心伝心は通用しない。
彼らのルールで、彼らの言葉で、大きな声で伝えなければ
彼らは耳すら貸してくれないだろう。それが世界の厳しさだった。
大学生の時日本で生き生きと活動していた私は
「次は世界に羽ばたいてね!」と言われてパリに送り出された。
日本のみんなはこの子は世界でやっていけると無邪気に信じてくれていた。
ところが世界の壁は厚すぎて、私は半ば鬱になって帰国して
そんな自分の状況を理解してくれるのは大学時代に
留学を経験した人たちくらいなものだった。

 それから15年もたった今、ようやく
向こうの人たちにミキは勇気があるとか強いねとか、
褒めてもらえるようになってきた。そして今ではそんな彼らと
ちゃんと話ができるのが、本当にどんなに嬉しいことか。
3ヶ国語ができるなら、話せる人の幅が広がる。
その分だけ自分がとれる情報の幅も広がり、見れる世界が広くなる。
言葉は自分を守ってくれる、そして自分を助けてくれる。
母国語のように自分の意見を他の言葉で言えたなら、
そんな気持ちのいいことはないだろう。
お金があるからできることは世の中沢山あるだろうけど、
言葉があるから開く世界も山ほどある。
言葉があれば、お金だけがある人よりも時には扉が開くのに。
言葉は自分を救ってくれる。どういう理由かわからないけど、
北京からの飛行機はビジネスクラスになっていた。
言葉があれば道が開ける。まずはイタリア語を頑張ろう・・・

本物に触れる

2016年12月19日 | パリのカフェ的空間で
 子供に本物に触れさせること
子育てで何を大事にしてるかと問われたら
最近の私の答えはこれを置いて他にないと思う。

 どうしてそれがそんなにも大切なのか?
この必要性を感じていない日本人は多いと思う。
我が子はまだ8歳だ。そんな時にどうして
わざわざ美術館やお寺巡りに?もちろん子供は
それが好きじゃない。他の低学年の子供たちといえば
習い事に忙しく、英語に野球、サッカー、プール、
バレエもあるから土日はとにかく暇がない。
でも私はこう思う。今、この時に無理やり、
子供の興味は一旦さておき、きちんとしたものに
触れさせること、それは本当に10歳くらいになるまでの
今しかできないことではないのだろうか・・・

 でも、子供はそんなの興味ないじゃない?
そう、確かにそうだけど。
正直そんなのどうでもいい。
親の手を引っ張ってくれてるうちに、
まだ勝手に自分でどっかにいかないうちに
無理やりにでも、いいものはいいと伝えていくこと
それは文化の継承という上で死活問題じゃないかと思う。

 日本には美しい文化がある。日本の伝統は美しい。
でもそれはもはや死にかけていると私は思う。
京都では生きているかもしれない、田舎でもまだ少し?
でも東京において、伝統を意識して生きることは
それが職業な場合を除いてごく稀だ。
私たちは椅子に座って生活し、多くの家から畳が消えた。
もちろん囲炉裏なんて存在しないし、もはや
昆布と鰹で出汁をとらない家も多いという。
小さいときに、右も左もわからぬうちに
無理やり本物に触れさせておく。
そうすると子供はうんちく以前に
「〜とはそういうものだ」と思っていく。
「出汁とは昆布と鰹でとるものだ」と思っている家で育った子と
「出汁とは粉末を加えてつくるものだ」と思って育った子とでは
大人になった時にも大きな違いが出てくるのではないだろうか。
そういうものだ、と思っていればそうするし、
そんなこと面倒臭い、なんの必要があるの?と思えばそうしない。
そしてそんなことしてどうするの?という人が大半を占めてしまうと
その伝統は支持基盤を失って消滅に向かっていってしまう。

 感覚が鋭いうちに、無理やりにでも
直に、そのものがもつ美しさや力強さに触れさせること。
そうすれば子供はきっとわかるだろう。
京都の紅葉は美しい。たしかにこの燃えるような赤は東京にはないのだと。
だが東京のイチョウの煌めく黄金色の美しさ。それもまた京都のイチョウとは違う。
たっぷりの鰹節を使った出汁のしみじみ旨いこと。
あつあつの炒り大豆の止まらない美味しさ・・・
大人が感動するような美しいものや旨いものは
子供にだってよくわかる。我が子は6歳の時も
京都の紅葉めぐりに駆り出され、高雄では
転んで泣き、東山では傘が壊れ、散々な想いをしたものの、
最終日、雨の降る清水の舞台の上で、
山の上にもうもうと立ち上がる霧を見てこう言った。
「ママ、きれいだね。」

 私は泣きそうになってしまった。
あんた、綺麗って・・・わかるの?
今回は私が言わせたわけではなく、彼から自分でそう言った。
3日間無理やりだけども連れてきた甲斐があったと
心底思えた瞬間だった。

 直に触れることがなぜ大切が、柳宗悦は述べていた。
大切なのはウンチクでも固定観念でもない。
観念から入ると人は色眼鏡で見てしまう。
楽茶碗は美しい筈だから美しい。しかし、本当に美しいのか?
美しく見せようとしすぎた上の作為に満ちた茶碗が
本当に美しいと言えるのだろうか?
「美しいと言われているから美しい」
そういうものの見方をする人が増えていくと
自分の判断よりも他人のものの見方が優先されて、
自分の意見を言うのが恥ずかしくなり、それを隠して生きてしまう。
その結果として日本では美しくない街並みや建物がまかりとおっているように思う。
あんなの・・・本当にいいと思うの?もし誰もが正直に
口を開いたのなら、建てられるはずのなかった建造物や
壊されるべきでなかったものが、この国には山ほどあった。
高速の下の日本橋を見るたびに、そんな思いがこみ上げてくる。

 直に見て判断すること・・・そして自分がどう思うかを
素直に表現してみること。そうして感覚が養われ、
研ぎ澄まされていくのではないのだろうか。
小さな子供は先入観を持っていない。だから直に見るには最適だ。
「いいといわれているものだからいい」そんなの子供に通用しない。
「これ、つまんない、早く終わんないかなあ」
そう言われるとカチンとくるけど、大抵そういう類のものは
大人だって我慢しており、終わった後、たいして心に残らない。
子供のときから良いものに触れ、その感覚を養っていく。
パリの人たちはその点が卓越していて、幼稚園の時から
美術館に行くのは至極当然だし、美味しいものを知っている人たちは
早いうちから味覚の訓練もさせている。どうして子供の時にかといえば
おそらく大人になってからではあまりに遅い、それを
実感としてわかっているからだろう。

 日本の伝統文化が危機に瀕しているのは
それが次世代に伝えられなかったからだと思う。
その美しさ、重要性がストンとわかっていなければ
それを残そうとは思わない。それが実は隠された世界に
まだ存在していることも知らないならば、そこを覗いてみようという
気持ちも起こらない。やっとそこを覗いてみたって
その世界が危機に瀕しているとは思っていない人たちは
高級な着物を売りつけ、わからない者を馬鹿にしたような眼差しで見る。
そして今日も、日本の伝統文化は刻一刻と死んでいる、そんな気がしてならないけれど。

 伝統文化は面倒くさい。
私は最近朝ごはんをあたためるのにレンジをやめて
蒸籠で蒸している。でも蒸籠はめんどくさい。
もし味に明らかな違いがなければ、レンジはよっぽど簡単だ。
蒸籠のごはんとレンジのごはんの味の違いがわからなかったら?
誰もがレンジを選ぶだろう。

 着物はとても面倒くさい。どんなに早く着れたって、
たいていの人は20分はかかるという。それに現代社会は
乱雑すぎて、着物で移動するのに向いていない。
着物は重い、はじめは苦しい、そして早く脱ぎたい!と思うだろう。
けれど着物にも良さがある。まず見た目に美しい。
着物を着ているだけで、普段なら見向きもしない高級店の
店員さんが向こうから「いらっしゃいませ」と声をかけてくる(この差は本当にいやらしい)
それになんだか世界がちょっと変わって見える。もっと
美しくてゆったりしたはずだった世界、穏やかな世界に
少しの間存在できる、そんな気持ちになっていける。

 そんな面倒くさいことを文句も言わずに今日に至るまで
守ってきてくれた職人さんの世界があり、一方でパンとコーヒー、
ダウンコートをばっと羽織って電車に飛び乗る慌ただしい日常がある。
伝統の世界はもはや東京の日常と乖離しているけれど、
それでも私たちが日本人とは何かと自分に問いかけた時
戻ってこられる世界というのは、そこにしかないんじゃないか、
最近とみにそう思う。

 日本には美しい世界があった。
私が小さかった時、八芳園では眩いほど美しい夏祭りが開催されていた。
起伏のある緑の丘に、鮮やかな赤の縁台があり、細かな飴細工がつややかに光っていた。
私はあまりの美しさに思わず目を細め、これが現実なのかと思わざるをえなかった。
そんな世界は今でもわずかに残っている。紅葉時の京都のお寺の枯山水、
華やかな都をどり、赤、黄、オレンジに染まった八瀬の山、素晴らしい旅館のおもてなし・・・
そういうものがいい、恋しい、またなんとかしてあそこにいきたい、
そう思えるにはまずそれを知ることが重要で、手をとって連れていく誰かが必要なのだ。
でも誰もそこに連れて行ってくれなかったら?もはや存在にすら気づけない。
それらの多くはあまりにも日常からはかけ離れ、隠れた所にあるからだ。

 先日ようやく息子を連れて行けた歌舞伎の世界は美しく、
そこには私たちの日常と大きく離れた日本文化が存在していた。
歌舞伎座の伝統があるからこそ、銀座という街が今でも
本物とは何かを伝えてくれているのだろう。とはいえ
やはりあの世界はあまりに遠く、日常に還元するのが難しい。
失われつつある日本の文化、日本の美、それを大事にするには
どうしたらいいのだろう。一つは自分がそれを身につけ、
ほんの少しでも伝える側として貢献することだろう。
また一つは、相変わらず敷居と金額の高い日本文化を
もう少し日常的に触れられる機会を増やしていくことだろう。
西欧に留学したって、どうあがいても日本人でしかないのなら、
私たちの強みというのはフジタがしたように、日本の強みを
ウリにして個性をアピールしていくことではないのだろうか。
失われつつある日本の文化、外国人に伝えるより真っ先に
日本の次世代に伝えていくこと、そっちの方がよほど重要だと思う。

アメリカ大統領選

2016年11月12日 | パリのカフェ的空間で
 大統領選から3日が経って様々な情報が
飛び交う中で、けっこうショックを受けるのは
今回さえも、多くのメディア関係やアメリカ政治が
専門の人でさえも「本当に予想外」「結果にショック」
と真剣に言っている人がいることだ。

 たしかにBrexitは私も予測できなかった。
本当にこんなことがありうるのか、と衝撃的な
気持ちだったし、結果もわりとすれすれだった。
でも今回は違う。接戦になるのかと思いきや、
え?もう決まったの?という具合に結果は発表されて、
なーんだ、ほらやっぱりトランプだ、と思ったのを覚えてる。

 何故彼が大統領になったのか?
まるで彼が不正をしてアメリカ人の大半を騙したかのように
今でも「ありえない!」と言われているけれど、彼はきちんとした手続きを経て
共和党の候補に選出されて、しっかりとした投票結果で
アメリカ人の大統領に選出された。その結果はまさに
国民が出した答えであって、わりとすんなりヒラリーさんも
それを受け入れ、オバマ大統領も受け入れた。
そうなったからには仕方ない。共に協力するしかない。
引き継ぎのための全面協力は惜しまない、
それに私も引き継いだときにブッシュ氏とは仲が悪かったのだ・・・

 それなのにどうして今頃、と私は思ってしまう。
彼が選ばれたのは彼の暴言に国民が扇動されたからではない。
それほどまでにアメリカ人は馬鹿なのだ、とあの国のエリートたちは
今も信じているのだろうか?頭がよければヒラリーを選び、
考える能力のない人だけがトランプに投票すると?
そして女であったらそれだけの理由でヒラリーに投票すると?
結果としては高卒の白人男性だけでなく、わりと裕福な
一般の白人も多く彼に投票したという。42%の女性は
彼にあえて投票し、しかも白人に限ると53%がトランプ氏に
投票したという。女性軽視発言を受けた上で、それでもあえて
ヒラリーではなくトランプに投票するのはそれなりの意思があるからだ。

 それほどまでに、一般的なアメリカ人は変化を望み、
エリートに支配される国の政治に嫌気がさしている。
おそらく彼なら変えられる、オバマ大統領のできなかったことを
彼ならできるかもしれない。なぜなら彼は、70歳という年にして
不可能を可能にしている人だから。そんな期待をこめた
ささやかな一票を、他人に自分の胸の内をあえてさらすことなく
投票したのだろう。周囲の大手メディアも頭がよさそうな口ぶりの
学識経験者も皆が口を揃えて「トランプに投票するな!」と
いう中で、実際には彼の言葉が(3割くらいの誇張はあるにせよ)
心に訴え、ピンとくることを語っていたならば、
自分の大切な一票を、「エリート社会で暮らしてきて、
語る言葉は美しいけど遠い世界の(うそつき)ヒラリー」よりも
「言い過ぎなだけど、肝心なところは的を射ている」
トランプに共感したと言えるだろう。
彼なら変えてくれるかもしれない、オバマ大統領に抱いた期待と
ほぼ同じような期待を抱き、アメリカの「忘れられた」国民は
トランプに投票した、それだけのことだろう。
彼が大統領選に勝ったのは、ひとえに彼の言葉と態度に力があった、
そしてそれが多くの人の(隠れた)共感を勝ち取ったことによるだろう。

 アメリカは確かに偉大な国だった。70年も生きてきたトランプ氏は
それを身をもって知っているのだろう。でも今のアメリカには
その影はない。ニューヨークやワシントン、そしてポートランドなど、
例外的な都市ではエリートたちが華々しく自分のキャリアを築き、
世界のニュースや金融状況に目を向けて生きてるかもしれない。
でもアメリカを支えているのはその他の広大な
「忘れられた」土地と人々なのではないのだろうか。

私は彼の選挙後の演説を聞いて思った。彼が想像している姿は
映画「カーズ」の忘れられた街、ラジエータースプリングスが
再び力を取り戻し、道や街に活気が戻り、人々に笑顔が戻ってくる
まさにそんな姿のようだ。かつては活気に満ちていた街、
でも今は人通りもなくしょぼんとしてしまった街を、また再び
夢と希望が持てる場所に変えていくこと。
そんな姿を彼は夢見ているのではないだろうか。
そこに住む人たちの健全な生活あってこそ、アメリカの国力が上がり
「偉大なアメリカ」が再びやってくるのでは。
そんな国力あってこそ、アメリカは世界の警察たりうるのでは?
今こんな状況で、アメリカは世界の面倒を見ている場合じゃない、
トランプ氏はただそう言いたいのだと思うし、投票した人たちは
まさに目の前の自分の暮らしをもっとましにしたいと思っていたのだろう。
「だって私たちはまず何よりも、アメリカ人なのだから」と。

 アメリカが世界に干渉し続けることがどれほどよいことなのかは
私にはわからない。干渉をやめて権力の空白が生じたところで
最悪の事態がうまれることも起っている。とはいえ
アメリカに住む住民の気持ちとしては、中東などの実感のわかない
地域よりもまず、目の前の自分の暮らしを良くするのが我々の
政府の最優先課題だ、と思うのは自然なことではないだろうか。

 アメリカという国は私たちの想像をはるかに超えている。
現在のアメリカには1110万人もの不法移民が滞在しており、
メキシコからの移民がトップで、585万人にものぼるという。
(他はグアテマラ、エルサルバドル、中国、ホンジュラスなど)
壁をつくるかどうかは別としても、それだけの人々が
不法な状態で滞在できるというのが日本人からすると
信じがたいし、これはヨーロッパで起きている難民問題と
ほぼ同じような危機感で捉えられているように思う。
壁を作るというのが現実離れしているとしても、ヨーロッパも
懐柔政策でトルコからヨーロッパに難民が流れない壁の
役割を演じてもらっているようなものだから、あまり人のことを
言えないだろう。(そのせいでクーデター後に
エルドアン大統領による激しい弾圧があった時、ヨーロッパの
メディアや政府は声を大にして糾弾できなかったし、その状態は
まだ続いている)

 イギリスの国民投票でもアメリカの大統領選で起こったことも、
その国を牛耳るエリートやメディアがいかに国民の実際の
感情や暮らしとはかけ離れているかを映し出していると思う。
今晩NHKのニュースに登場していたアメリカで50年記者をやっているという
ベテラン記者は「本当に想像できませんでした。もっと人々の
気持ちを理解しようとすべきだったんです。」と悲しそうに語っていた。
本当に、そうだと思う。というかむしろ、
それこそがジャーナリズムではないのだろうか?

 エリートコースの王道に行ける人たちの多くは
生まれた時から素晴らしい環境にいた人たちだ。
タイムの記者であるというのもBBCのスタッフであるというのも
その国の人たちからするとどれほど華々しいキャリアであることか。
それが当たり前の人たちは、当たり前の機材を使って当たり前に
取材に行く。フランスのカレの難民キャンプが取り壊された日には
世界中から報道陣がつめかけて、BBCだけでも数十人のクルーがいたという。
目の前にはビニールシートでつくった自分の住処を追われる人々。
「どんな気持ちですか?どこに行くんですか?」と平気で問うその
恵まれた人たちは、サハラ砂漠を歩いて横断してきたような
彼らの心の痛みはわからない。明日には死ぬかもしれない、
バスにゆられて、どこに行くかもわからない。家族に会える日は
もはやこないのかもしれない。それでも決死の覚悟で何千キロも
歩いてきた人と、小さい時からエリート畑で生きてきた人たちの間には
恐ろしいほどの隔たりがある。けれども私たちが世界について知ろうとする時
真っ先に触れられるのは悲しいかなそんな大手メディアというわけだ。
そこには彼らなりの言語や暗黙の了解がある。
それでもBBCやルモンドはまだ中立を保とう、それこそがジャーナリズムである
という姿勢を貫いているように思えるけれど、アメリカのメディアは
どうなのだろう。少なくともタイムは(大統領選に関しては)
そんな姿勢を大事にしていたようには思えない。
(もちろん他に素晴らしく優れた記事は沢山あるが)

 行き過ぎたグローバリゼーションは私たちに選択を迫っている。
このままこれでやっていくのか?それとも立ち止まるべきなのか?
歴史的にまさにグローバリゼーションの超推進役であった
イギリスとアメリカがそれにストップをかけようとしたのは興味深い。
グローバリゼーションのいいところはとっておき、悪いところは
是正していく、そんな美味しい道はあるのだろうか?
エリートたちがその恵まれた頭脳と環境を駆使して考えるべきなのは
現状を嘆き、トランプ氏を糾弾することではなくて、
これまでとは異なるグローバリゼーションの形なのではないだろうか。

「大統領殿 あなたは罠に掛かっている」(訳)

2015年11月22日 | パリのカフェ的空間で

ルモンドに非常に興味深い文章が掲載されていました。
16日月曜日に掲載されたこの文章はさながら
今後の予言の様で、すでに掲載されてから世界は変化し、
彼の語る世界に近くなっているように思います。
当事者ではないからこそ言える言葉もあるのでは。
歴史家で小説家の彼の言葉には深みがあり、
なんとか時間をつくって訳しましたが非常に難解な文章なため
時間がかかってしまいました。
動くなら、本当に今だと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「大統領殿 あなたは罠に掛かっている」
David Van Reybrouk 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

  大統領殿


 11月14日土曜日の午後に行われたあなたの演説において、あまりに軽率に使用された言葉の選択、あなたが繰り返していた、「テロリスト軍」(※訳注1)によって遂行された「戦争犯罪」という言葉が私を強く捉えました。正確にはあなたはこうおっしゃった。


 「昨日パリとサン・ドニの競技場の近くで起こったことは、戦争行為であり、国家が戦争に直面した場合、それにふさわしい決断を下さなければならない。この戦争はテロリスト軍「イスラム国」が犯した戦争行為である。武装したテロリスト集団「イスラム国」はフランスに対し、我々が世界の至るところで守っている価値に対し、世界全体に向けて語る自由な国の我々に対し、戦争行為を行った。これは今後の調査で明らかになるであろう国内の共謀者とともに、国外で準備され、周到に計画を練った戦争行為である。これは絶対的に残忍な行為である。」


 最後の一行には完全に同意するにしても、あなたの演説の残りの部分は憂慮すべきことの繰り返しであり、9.11の直後にジョージ・W・ブッシュがアメリカ国会の前で行った演説をほぼなぞったものだといえる。つまり「自由に対する敵が我々の国に対して戦争行為を犯した」というものだ。


 この歴史的演説の結果はよく知られているではないか。「戦争行為」とみなす出来事を受けた国のトップはそれに応じなければならず、やられたらやり返すべきである。こうしてブッシュ大統領はアフガニスタンに侵攻したが、これは当時の体制がアルカイダをかくまっていたので、まだ納得のいくものだった。国連でさえもそれを是認した程だ。その次は、イラクが大量破壊兵器を保有しているはずだとアメリカが嫌疑をかけたというただ1つの理由によって国連の委任もなしにイラクへの全く気違いじみた侵攻をした。実際には大量破壊兵器を保有していなかったと後に証明されたが、この侵攻は今日まで続くことになる、この地域全体の不安定さをもたらした。


 2011年のアメリカ軍の撤退はこの国に権力の空白をもたらした。そして「アラブの春」が起こった後、隣国で内戦が勃発し、どれほどアメリカ軍の侵攻が有害なものであったか証明された。イラクの北部は根こそぎにされ、シリア東部は政府軍と自由シリア軍によって引き裂かれ、第三者「イスラム国」の出現を促す土壌と空間を残していった。


 つまり、ブッシュ大統領による愚かなイラク侵攻がなければ、「イスラム国」の問題が起こることはなかったのだ。2003年にこの戦争に対し、100万人規模のデモが起き、私自身も参加した。反対の声は世界的なものだった。結局我々が正しかったのだ。それは我々が将来を予見できたからではない。この点まで予見していたわけではなかった。だが今日はっきりと1つのことは自覚している。金曜の夜にパリで起きた事件というのは、2001年9月にあなたと同じ政治的地位にあったブッシュ氏が戦争というレトリックを使用した間接的な結果なのだということを。


 それなのにあなたは何をしているのだろう?あなたがテロから24時間以内にとった反応はどうだったのか?当時のアメリカ大統領が使ったのと同じ言葉を用いて、しかも口調さえもそっくりだ!何ていうことだろう!


 大統領、あなたは罠にかかっている。(中略)ニコラ・サルコジやマリー・ルペンのようにあなたの喉を焼け付かせるほどの強硬派たちの熱い憎しみを肌で感じているからだ。それにあなたは随分長い事気弱な人という評判だった。あなたは罠にかかっている。フランスでは選挙が近づき、12月6日から13日にかけて開催される。これはただの地方選ではなく、テロ以降、国家の安全性が大きなテーマとなることは間違いないだろう。あなたは両足揃えて罠にかかっている。何故ならあなたはテロリストがまさに臨んだ言葉、「宣戦布告」という言葉をそのまま返してしまったからだ。あなたは聖戦への挑戦状を情熱的に受け取ったのだ。しかしあなたが断固とした姿勢を保つこの返答は、暴力のスパイラルをより一層加速させる途方もないリスクを拡散させていく。私にはそれが懸命な判断だとは思えない。


 あなたは「テロリスト軍」とおっしゃった。しかしそれ自体が終わりなき矛盾を抱えた言葉である。「テロリスト軍」という言い方は、例えば多食症のダイエットを実践するような矛盾がある。軍や集団は武器を持つことがあるだろう。そしてきちんとした訓練を受けられなければ、彼らはテロリズムを選ぶかもしれない。つまり、地政学的野心を抱き、しっかりした構造と展開の軍事力ではなく、心理的効果を最大限に狙った一点集中型の攻撃だ。


 あなたがおっしゃった「軍」について、これも明確にするべきだ。今までのところ、このテロの首謀者がシリアから戻って来たもしくは送り込まれた兵士かどうかは判明していない。テロが「カリファ」の懐で計画されたのか、郊外やある「地区」で計画されたのかも私たちにはまだわからない。それに対し、シリア由来のグローバルな計画だと思わせる指標もいくつか存在している(ほぼ同時期に起きたレバノンの自爆テロやロシア旅客機の墜落事故)。だが「イスラム国」の声明は後に発表され、既にネット上で出回っていたような内容しか含まれていなかったと示唆しておきたい。これらは連帯や情報収集後に問題にすることではなかろうか?



 私たちの知る限り、武装したテロリスト集団というのはコントロールのきかない個人のことで、おそらくシリアから帰国した大半のフランス人があてはまるだろう。彼らはシリアで武器や爆弾の使い方をトレーニングされ、全体主義的イデオロギーに浸って暮らし、軍事作戦にも慣れるようになっていた。彼らの誰もが恐ろしい人物に変っていった。だが彼らは軍人とはいえない。


 「イスラム国」の公式発表はテロのために「入念に選ばれた場所」だと賛美した。フランスの警察も、犯人達のプロ意識を強調していた。この点においてあなたは同じ言語で語っている。だが実際はどうだろう?あなたが観戦していたフランス対ドイツのサッカー親善試合が行われた競技場付近を訪れた3人の男達はどちらかといえばアマチュアのようではないか。彼らはおそらくあなたに対するテロ行為を行うために競技場内に入ろうとしていたようで、その可能性は高いだろう。だがマクドナルド付近で自爆し、犠牲者を一人「しか」出さなかった男はテロリストとしては貧弱だといえないか。爆発後少ししてから8万人もの人たちが競技場の外に出たにも関わらず、実際には3人の自爆テロに対して4人の犠牲者「しか」出さなかったテロリストが有能とは言えない。コンサートホールの観客を大量に殺そうと考える4人の犯人が非常口を塞いでおかないなんて、戦略に長けているとはいえないだろう。車に乗り、罪もなく武装もしていない、カフェのテラスに座っていた市民に向かって銃を乱射していく者も、戦術に長けた軍人ではなく、どうしようもない卑劣漢であり、同じタイプの個人と結びついた、完全に道を誤った個人といえる。孤独な狼達が群がることもあるものだ。




 あなたの「テロリスト軍」という分析は納得できるものではない。あなたが使った用語、「戦争行為」も並外れて意図的なもののように思う。例えこの戦意をかきたてるレトリックが、何の恥じらいもなくオランダの首相やベルギーの国務大臣によっても使われたとしても。あなたがフランスを落ち着かせようとするこの試みは、世界の安全を脅かす。あなたの激しい言葉遣いからは弱さしか伝わらない。


 戦争の言葉以外にも、断固とした態度を表す方法はあるものだ。(中略)あなたは演説で自由に言及したが、フランス共和国のあと2つの価値、平等と友愛についても話すべきだったのではないか。私たちが今こそより必要としているのは、戦争の疑わしいレトリックよりも、平等と友愛なのではなかろうか。


David Van Reybrouk 
"Monsieur le Président, vous êtes tombé dans le piège!" Le Monde.fr 2015年11月16日掲載
David Van Reybroukはオランダ人の歴史家、小説家で「コンゴ、ある歴史」等数々の作品を出版。
著者の同意を得て日本語に訳しています。(フランス語→日本語訳 飯田美樹)



※ 訳注1 もとの文章はオランダ語で書かれており、この著者もオランダ語の翻訳でまず読んだのではないかと思われる。翻訳にはいつも誤解やニュアンスの微妙なズレがつきもので、著者の解釈が必ずしもオランドが意図したものと同じであるかはわからない。私は日本語では"une armée terroriste"は「武装したテロリスト集団」とも訳せるとも思う。この文章の翻訳自体がオランダ語をフランス語にしたものを日本語訳しており、多少のズレがある可能性は否定できないが、できる限り著者の意図を汲んで訳したつもりである。


この文章16日に翻訳を経てルモンドに掲載されているため、著者の得ている情報は14日~15日時点での情報と思われる。
多少は文章のレトリックや解釈の違いの問題のようにも思えるが、時間の経過につれて彼の言っている事が現実になりつつあるように思い(国連での決議等)、非常に難しい文章だったが訳すことにした。また誤訳しかねない文章は割愛させていただいた(計3-4行程度)

パリの同時多発テロについて 2

2015年11月15日 | パリのカフェ的空間で


フランスのテロに関してわかっている情報を
お伝えします。
(11月15日(日)日本時間11時半時点での情報)



 11月13日(金)夜21時20分を境にパリ6箇所で
起こった同時多発テロ。イスラム国が犯行声明を出し、
フランスはこの状態を「戦争状態」だととらえている。
実際に現場に居た人や訪れた人たちはあまりの状況のひどさに
まさに突然戦場がパリに現れたような感覚だと述べている。
現在確認されている死亡者は129名、負傷者は352名で
そのうち80名がかなりの重傷。きちんとした体制で
手当を受け、多くの市民がなにか自分にできることはないかと
輸血をしに病院に向かっているが、現時点ではまだ血液は不足していない。

 緊急事態宣言は出されたままで、パリでの外出は基本的に
控えるよう呼びかけられており、追悼デモも木曜日までは
禁止されている。それでも少しでも何かをしたい、という
気持のある市民が、レピュブリック広場やコンサート会場
バタクランの前に来て献花をしたり、バタクランの前では
演奏をする人もいる。


 バタクランにはコンサート最中に少なくとも3人のテロリストが侵入し、
およそ2時間に渡って発砲し続けた。生存者たちはその状況を
「まさに虐殺」だと語る。自分のすぐ横で人が亡くなり、
頭を伏せて横になった人たちが次々と殺されていく・・・
動こうとした者も撃たれていった。そんな中生きのびた人たちが
聞いた言葉は「これはお前達の大統領のせいだ」
「シリアでフランスがやってきたことの仕返しだ」という言葉。
なんとか逃げた人たちは大急ぎで走り、あたりは一時騒然とする。
しだいに事態が理解されてくると、消防車や救急車が
十数台駆けつけ、緊急事態が認識される。緊急医療チームも派遣され、
近隣のカフェなどで手当も受けられるようになる。
ところがテロリストたちは聴衆を人質にとっていたため、
機動部隊は即座には介入できず、深夜に突入したころには
すでに80人近くの人がコンサートホールで亡くなっていた。
テロリストのうち2人は自身が身につけていた自爆装置で自爆。
一人は特殊警察が射殺した。

 コンサート会場でのテロリストのうち一人は身元が判明し、
29歳のフランス人、イズマエル・オマー・モステファイだとわかった。
彼は2013年から14年にかけての冬に数ヶ月シリアに滞在。
フランスでは無免許運転等の慣習法違反で8回捕まったことがあるが、
投獄されたことはなく、イスラム過激派に傾倒する人物リストには
入っていたが、これまで特に事件に関わったことはない。
ベルギーでも犯人の可能性のある者が捕まり、事情聴取を受けている。


 今回のテロには3つのグループ、少なくとも7人のテロリストが関与したが
7人は全て各自が身につけていた自爆ベルトのようなもので死亡。
競技場付近の爆発現場付近でシリア人のパスポートが見つかり、
ギリシャ経由でフランスに渡った難民ではないかと言われている。
(後に偽装パスポートだと判明)

 イスラム国はこれはフランスによる、イラク、シリアのイスラム国
支配地域に対する空爆とモハメットに対する侮辱に対する報復であると
彼らのインターネットサイトにアラビア語と流暢なフランス語で掲載。

 パリでは外出を規制されている市民が窓にロウソクをともし、
犠牲者への追悼の意と平和への願いを表している。
アメリカやオーストラリア、ドイツなどでは著名な建物に
自由・平等・博愛の三色旗の色をともし、
犠牲者への追悼とフランスへの共感を示している。
逆に3日間喪に服すフランスでは、エッフェル塔の電気を
しばらく消すことにした。


 月曜日は学校は平常通り開校され、全土で正午に1分間の黙祷が行われる。
また、COP21は平常通り11月末から開催される予定。

苦悩

2015年02月26日 | パリのカフェ的空間で
 昨日、6週間という長い沈黙期間の後で、シャルリーエブドは
次の号を発売した。表紙にはほっとすることに
マホメットの絵は描かれていない。描かれているのは
シャルリーエブドをくわえた犬が、怒り、興奮している人たちに
よって追われる姿。

 シャルリーエブドは苦悩していた。
もがき、本当に苦しんでいた。
新たに編集長になったリス氏は これまでもシャルブ氏とともに
シャルリーエブドを培ってきた人らしく、あの日の編集会議にも出席していた。
彼はテロリストたちが部屋に入ってくる音を聞き、彼らの姿をこの目で見ていた。
そして彼らがシュルブ氏に近寄ってしっかりと狙いを定めたことも。
彼自身も打たれたけれど、奇跡的に重傷で済み、
亡くなりはしなかった。恐ろしい現場に叫び声はほとんどなくて
気がつけば沈黙があったという。つまり、彼が周りを
やっと見渡せたころにはほとんどの人が命を落としていたということだ。


 病院に運ばれた彼は入院しながら恐怖で一杯だったという。
奴らがここを見つけて自分を殺しに来る・・・その考えに取り憑かれては
見つからない場所に逃げたくなった。彼にとっては事件後の数日間の
シャルリーエブドに対する連帯に感動するよりも、いつか奴らが襲ってくる、
その現実的な怖れの方が勝っていたといえるだろう。

 ほとんどの人が殺された中、一人テロリストから免がれた人もいる。
彼らは言った。「女がいる?女は殺さない・・・」彼らはシゴレーヌ氏を見つめていった。
「怖がるな、落ち着け。お前のことは殺さない。お前は女だ。
俺たちは女は殺さない。」(実際にはすでに一人殺されていた)
そして彼女にこういった。「だが自分が何をしているのか、よく考えろ。
お前がやっているのは悪いことだ。お前のことは見逃してやる。
見逃してやるからにはコーランを読め。」そして彼らは
「俺たちは女は殺さない!」と声高に叫び、部屋を後にした。
彼女はずっと覚えている。彼女を見つめたテロリスト、兄のサイードの目が
優しい目をしていたことを。そしてずっと自問している。
どうして彼は優しい目をしていたのだろう・・・。


 主犯となった兄弟について、多くのことがわかってきた。
私にはこの事件に関する様々なことが他人事とは思えない。
だからこそ、シャルリーとは何の関係もなく、誰からも
要請されていないというのについ気にしてしまうのだろう。
まず年齢だ。主犯の兄は34歳、弟は32歳。私は兄と同い年だ。
彼らはパリ19区という私も滞在していた土地に長年住んでいて、
しかも彼らが関わったイラクにジハード戦士を送る組織の名前は
「ビュットショーモン」というらしい。ビュットショーモンとは
まさに私が息子と毎日のように通った素晴らしい公園で、
もしかするとどこかですれ違ったことすらあるんじゃないかと思う程だ。
事件の後、フランスの新聞「ルモンド」にはほとんど毎日のように
この事件やイスラム社会について論じ、考えさせる文章が載せられている。
その中でまたしても衝撃的だったもの、それは意外にも
主犯の彼らがそこまで「気の狂ったテロリスト」のようには見えないことだ。


 彼らはアルジェリア移民の子供でフランスで生まれたフランス人だ。
5人兄弟で、兄が11歳の時に父が亡くなり、その3年後から二人で
一緒に児童養護施設に住むようになる。
二人がほぼ成人するまでその施設で過ごしていたが、彼らは
ほとんど普通の人と変らなかった。それどころか兄、サイードは
頑固とはいえ、控えめで、どちらかというといい人だったらしい。
有名な弟、シェリフの方はサッカーが好きで人を笑わせ、気性が荒いところもあり
目立つタイプだったどいう。性格の違う二人はお互い補完しあって生きていた。
フランス国外での取材に応じた兄の友達だったという人は
「あの当時サイードに出会えて本当によかったと思う」と言っていた。
家族の中で一番信仰熱心だったというわけではないものの、
二人の中で先に信仰熱心になったのは兄のサイードで、始めは
誰にも言わず一人静かに部屋で祈っていた。ところがある時から
あえてその姿を一目にさらすようになり、ウォークマンを聞き
「何聞いているの?」と尋ねられると「コーラン」と答えるようになる。
弟は信仰熱心なタイプではなかったものの、二人三脚の兄弟の中
兄に影響されないわけにもいかず、やがて信仰を共にするようになる。
彼らの中でしいて変ったところを挙げるとすれば、彼らは自分たち
「アルジェリア人」と生粋の「フランス人」をあえてわけて考えていたということだ。
彼らはフランス人女性と付き合ったことがある。けれども自分の
妹が「フランス人」とデートするのは許せない、と思っていたらしい。


 その施設を出てから約10年間で何が起こったのか、詳しくは誰もわからない。
彼らは唯一の親族である叔父の家でやっかいになり、
彼が影響を与えたのかもしれない。弟の方はイラクにジハード戦士を
送る組織に関わったことで刑務所にいれられる。そこで
よく語られているのは彼が2005年に刑務所に入った際に、
事件の共犯となったアメディ・クリバリと知り合ったということだ。
その時にはもう何かに対する激しい憎しみが生まれていたのかもしれない。


 事件が起き、彼らの名前はフランスどころか世界中に知れ渡った。
そんな中で驚きのまなざしでそれを知った人たちもいる。
それが彼らの妻たちだった。シェリフ・クアシ(弟)の妻はこう言っている。
「これら全てが現実ではないように感じています。悪夢を見ていて
夢が覚めることで終わるのではないかと思うんです・・・」
サイードの妻はこう語る。
「あなたと一緒に生活し、毎朝一緒に置き、一緒に笑っていた人が
12人も殺せるだなんて想像してみてください。そんなのありえないでしょう。」
彼らは「ちょっとバーゲンに行ってくる」と言い残し、家をあとにした。
彼女達の証言によれば、彼らが宗教の名の下に人殺しをするなんて
考えられもしなかったという。彼らはイスラムの中でもある種セクトの
ようなものに属していたと言われ、かなり「厳格な」イスラムだった。
シェリフの妻は人に姿をさらす時には上から下までを覆う「ジバブ」という
服を身に付けるように気をつけていた。彼女はイスラム国を「酷い」と
思い、アルカイダは彼女に死者や恐怖を連想させる恐ろしいものとして映っていた。
そして夫も同じように感じているのだと思っていた、そうルモンドに語っている。
彼女によれば、夫は毎日5回の礼拝を欠かさない「私のように
普通にイスラムを実践している人だった。」

 これら様々な記事の中、あまりに私の心を打ったのは、
「テロリスト」となった彼らの実の妹の発言だった。
家庭内でほぼ母親の身代わりのようになっていた彼女も
あとから同じ児童養護施設に入った。フランス式の教育を自然に
身につけた彼女の方は、自由に、他の人のように普通に生きたいと思っていた。
だからフランス人とも付き合っていた。けれどもある時「お前も
ヴェールを被れ」と兄達に強要されるようになる。
兄達が射殺された後、彼女は泣きながらこう言った。

「警官で亡くなった方もいるんですか?何なのよ、理解できないわ、
みんな絵のせいだっていうの?そんなのありえない。犠牲者と人質の家族はどうなるの・・・
こんなの本当に酷い、遺族は今悲嘆に暮れていて・・・
ノン 絵のためだけにこんなことするもんじゃない、
ノン  絵のために人を殺すなんてしちゃいけない。(中略)
たかが絵のため?そんなの酷すぎる。
私たちはお兄ちゃん達と同じ人生を過ごしてきた。父さんたちは
私たちをたたき、母さんはネグレクトした。それでも
みんなで手をつないで生きてきたのに・・・」

 移民の世界や苦悩を知らないフランス人の発言でなく、
彼らとほぼ同じ、いやもっと苦しかったかもしれない中で
フランスで生きてきた、実の妹の発言だ。
彼女の言葉はつきささる。ライシテの中で生きようとしてきた彼女
それは他の人たち同様、自分らしく生きる自由を与えてくれた。
宗教に目覚め、やがて急進的になっていく実の兄達。
それでも彼らは彼らで生活があり、傍らには妻がいた。
シャルリーエブドの中心にいる人たちも、テロ実行犯の周りの人たちも
1つだけ共通している想いは「これが悪夢ならすぐ覚めてほしい」ということだ。
だが悲しいことに、悪夢より恐ろしい現実を今生きている人がいる。
私にはわからない。けれど1つだけわかったことは
問題は単純じゃない、そして根が深いだろうということだ。
問題を少しでも解決に向けるためには
事件に多少なりとも関わりを感じる人たちの、相当な理解と歩み寄りが必要だと思う。


参考文献 Le Mondeより 訳は拙訳
"On ne tue pas pour un dessin, il a pensé qu'à sa gueule, Chérif" par Soren Seelow
"Les frères Kouachi:une jeunesse française" par Marion Van Renterghem
"« Charlie Hebdo » : le casse-tête de la reconstruction"Par Raphaëlle Bacquéé
"Riss:"Tous le monde n'est pas obligé d'aimer "Charlie""

印象派とパリのカフェ

2014年02月02日 | パリのカフェ的空間で

「印象派たちもカフェに集った」そんな言葉を耳にしたのは
留学中のことだった。それはモネの美術館として知られる
マルモッタン美術館で 一緒に行った人から聞いたのか
そこでパラパラめくった本にちょっと書かれていたのか
そこまではよく覚えていない。
だけど印象派たちもカフェに集った、私の大好なパリのカフェに。
その2つが突然結びついたこと それは間違いなく研究のきっかけだった。


 「僕がパリにいた時はね フランス語がわからないから
美術館にばかり行っていたんだ。それでね、あんまりも
通ったもんだから サインの場所の違いなんかも覚えたよ」と
かつてフランスに3年程住んでいたという知り合いが 留学前に
教えてくれた。辛かった留学時代 私はその言葉を胸に刻んで
すきをみては美術館に通ってた。ルーブルの年間パスも買い
大した用もないのにルーブルに行っては絵を見るよりも館内のカフェで
お茶したり、ぼーっと彫刻を眺めたり。あの広い空間が好きだった。

 印象派が大好きだった私がジャポニスムを知ったのはいつのことだろう。
印象派も浮世絵も好きだったけど その2つが結びついた時
嗚呼なるほどな、と深く納得したものだ。ルーブルにある絵の
重厚な雰囲気と オルセーの最上階にある印象派の絵の軽やかさ
そして美しく豊かな色合いは あまりにも雰囲気が違う。
日本人で浮世絵に愛着のある私が自然と好きになってしまうのは
どうしたってオルセーにある印象派の絵の方だ。



 それなのに どうして私は少しは知っておきながら
印象派とカフェについての研究をしなかったのだろう?
おそらくそこに大層な理由はなくて、パリのカフェ文化の研究を
始めたら 一番始めに目についたのが有名なサンジェルマンデプレだったとか
それらのカフェに愛着があったからだとか そんな程度の理由だろう。
研究を始めていくと実際にはサンジェルマンデプレのカフェ文化は
想像されているほどのものではなくて、花開いた文化の根っこの多くは
モンパルナスにあることがわかり、そちらに対象が移っていった。
でも今になってよく考えたら もっと興味がある人たちは
エコールドパリの人たちよりも 印象派付近の人たちなのかもしれない。


 昨日偶然電車の中で「北斎展」の広告をみつけ、開催期間が
1週間にも満たないというのでこれは行かねば!と言っていたら
一緒に居た父が「じゃあ今日帰りに寄ったら?」と提案してくれ
大恐竜展を息子と観た後、3世代で北斎展にも行って来た。
デパートの展覧会だというのに相当なボリュームがあり、
それだけでもよかったのだけど、なんと最後にアンリ・リヴィエールの
版画があった。「エッフェル塔36景」というその版画は、
フランス人のアンリ・リヴィエールが北斎の富嶽三十六景に触発されて
建設中のころからのエッフェル塔のある風景を 木版画で刷ったもの。
私はこの版画を観るためだけに展覧会に行ったことがある程だけど
日本橋三越の北斎展ではアンリ・リヴィエールのことはほとんど
宣伝してもいないのに、展覧会にしっかりと含まれていた。


 大好きなパリの風景と木版画の美しさ でも絵の雰囲気は
オルセーで観た印象派を思わせる・・・この絵に出会えてよかったなあと
思っていたらなんと「アンリ・リヴィエールはシャノワールという
週間新聞の編集者でもあった」と書いてある。これ、モンマルトルの
カフェのシャノワールが出してた新聞のこと!?


 家に帰って北斎展の復習をしようと思って、以前もらって読んでいなかった
フランス語の「HOKUSAI」という本をめくると、そこにもアンリ・リヴィエール。
彼は富嶽三十六景だけでなく、およそ800点もの浮世絵を収集していたそうだ。
もうちょっとこの人のことを調べようと思い、印象派、モンマルトル、
ジャポニスムの周辺の本を読み始めるとやっぱりとても面白い。
印象派とカフェはしっかりと関係しているらしいけど、ジャポニスムと
カフェはどうだろう?いわゆるモンマルトルのカフェ文化が花開く
ちょっと前の時代に 印象派達はモンマルトルの麓のカフェ・ゲルボワや
ヌーベル・アテネに集ってた。そこはまさに、私が「パリで逢いましょう」
で一番始めに担当させてもらったパリ9区周辺で、映像を観てすぐに
「絶対ここに住みたい!」と強く思った地区なのだった。
なんだか縁があるような・・・


 大好きだけど 雲の上 で 遠かった人たちがいた。
モネ、マネ、ドガにピッサロ、セザンヌたち。
絵の前から動くことができないような、
そんな素晴らしい作品を残した人たちもカフェに来て、お互いに議論していた。
のちに印象派展と言われることになる、第1回目のグループ展の発想も
まさにカフェから生まれたらしい。


 以前の研究対象には 19世紀もモンマルトルも入ってなかった。
でももしかすると やっと私は そこに至れるようになってきたのかもしれない。
私の家には翻訳で真っ赤になった本もあるけど まだ真っ白で、でも
ものすごく面白い本もある。やっとフランス語がわかるようになってきた今
もっと彼らの世界に近づきたい。

京都喫茶物語 カフェでの出会い

2012年03月06日 | パリのカフェ的空間で


 「バーの中ではね、何でもいいから何かやってみると
いつも事件が起こるんだ」従兄弟のジャークが
ボーヴォワールに語った言葉。この日の言葉をきっかけに
彼女はカフェに通い始める。カフェにあった小さな事件、
それは「何でもいいから何か」でよくて
わたしが出会った小さな事件はテレビの取材という事件。

 雑誌にはよく載っているそのカフェも、テレビの取材は
はじめてらしく、1ヶ月も前くらいからマスターはそわそわ
してて、11月17日は取材が来るから絶対来てよと
言われてた。取材の時間はとても早くて朝の6時半かららしく
辛いなーと思いながらも でもマスターと約束したし
それに行ったらサンドイッチを御馳走してあげる、と
事前に約束してくれていたから 行かなきゃーーと思ってた。


 それでもやっぱり6時半はきつくって がんばって6時に
起きて支度したのに到着したのは8時頃。来ると言ってた
友達たちもその日はドタキャンになってしまって
私一人でドアを開けると あれ?予想以上に人が居ない。

 「すみません遅れちゃって、、、もうみんな
帰っちゃったんですか?」と聞いてみる。
「みーんなねえ、来てないのよまだ!!!」とちょっと怒ってるお姉さん。
かなりガランとした店内にテレビ局の人がちらほら。
取材は予想してたより早い時間で、常連さんはまだ来ずに
仕方がないからテレビ局のスタッフをいれて撮影をしたとの
ことで、ごめんなさい、、、、と謝りながらカウンターへ
と足を運ぶ。

 すると奥にはわたしの知らない男性2人。しかも若い。
あれ?この店の若い常連なんて私だけかと思ってたけど
この人も仲良さそうにお姉さんとしゃべってる、、、
こんな人はじめてみたなあ、常連さん、なのかなあ。

 撮影されるかもしれないから、とこの日ばかりは
カウンターの隙間をつめられ、わたしはその人の
隣になった。そこで会話したかどうかは覚えてないけど
ちちんぷいぷいの魔法があって、そこでみんなは
出会って行った。

 放映日は私の誕生日だったから その日ゴゴには
行けずにいたけれど、23日が過ぎてから ひとしきり
それが話題になって 常連さんは皆見てたから
マスターの顔の映りがどうだとか、あんなに撮って
CMよりも短くしか放映されなかったとか
別にテレビ効果でお客は増えてないだとか 
いろんな話が飛び交って ちちんぷいぷいという事件の
お陰で私も話の輪っかに入っていけた。


 あの朝出会った見知らぬ若い常連さんは
あんな早くに店にきちんといたくらいの人だから
いつも来るのは私なんかよりずっと早いということも知る。
9時過ぎに店に来ていた私と9時前には店を出ていた彼と、
出会うことのなかった人が事件を機に出会ってく。

 全然違う世界の人に いとも簡単にあえるカフェ。
全然違う世界の人とも 連帯感の生まれるカフェ。
テレビの取材があったとき 常連さんはあえて姿を
見せずにいたけど でも確かに みんなのなかには
この店に通う事に対する連帯感があったと思う。

 朝カフェをはじめたことで 常連客になってゆく
「僕はカフェはゴゴしか行かない」そう言った彼の
この店に対する確かな想い。みーんなそれを持っている。
同じ店で 同じ時間にコーヒーを飲んで時を過ごす。
ただそれだけのことなのに カフェがもつ威力はすごい。
ゴゴに出会って 自分で体験しなければ
論文は決して書けなかったし自分の言葉で
語れなかったと本当に思う。
(2007年4月)

京都喫茶物語 朝のゴゴ

2012年03月06日 | パリのカフェ的空間で

 京都のことを思い出していたら昔「コーヒー文化学会
ニュース」に書いた原稿が出てきました。
まだ本も形になってなかったころのお話です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 今朝思い立って自転車をぐーんとこいでゴゴまで行ったら
久々のモーニングに間に合った。モーニングなんていつ
ぶりだろう?もしかして去年からもう来ていなかったのかも。
あの頃はいつもコーヒーとバナナ、言わなくっても
出してくれてたお姉さん。「ここはねえ そんなあなたたちの
愚痴を聞く場所よ~」と言ってくれてたお姉さんに
会いたくなって 自転車をわざわざこいで向かって行った。

 鴨川沿いには桜が咲いて、悲しい心も少しはましに
なってゆく。昔は桜があんまり好きではなかったけれど
いつも春爛漫の陽気にのりきれない自分がなんだか
嫌だったけど でも今は 少しの桜を見るだけで
ちょっとは気分が明るくなる。京都はそういうとこがいい。




 ゴゴのドアをカランと開けると意外に店は混んでいて
ああそうだ、ここは朝が一番混むのだったと思い出す。
いつものわたしが座る席にも人は居たから、心置きなく
カウンターへと向かって行ってモーニングを注文する。
お姉さんがちょっとかまってくれたから、今大変なんだと
こぼしてみると「すんごい元気なさそうな顔!どうしたの~?」
と言ってくれる。そうなんだ そんなに元気なさそうなんだ。

 ゴゴにはいっつも来ていた訳で お姉さんは色んな顔を
知っているから そして色んな会話を知っているから
なんだか話が通じやすい。しばらくたって 常連さんとの
会話の仲間に入れてもらうと、真ん中の席にいたおじさんと
話が合って、やろうと思って持っていったことも
手につかぬまま、かなり長く語ってしまう。

 ここに来て魅力を感じたことの1つに、常連さんが
京都育ちなことがある。私にとって遠い存在の人達が
ここにはいつも通って来てて 当たり前に京都がある。
そんな彼等に少ーしずつでも京都の世界を教えてもらって
紅葉や花の名所を教えてもらい 会話に参加させてもらう。
そんなことがとても嬉しい。

 そのおじさんは娘さんたちの教育についての話をしてて
最近興味を持ってた「ダム女」と「付属」という私立の
学校の違いを説明してくれる。それから娘さんの留学の
話や受験の話、早稲田の話も出て来たなーと思っていたら
留学中の娘さんが政治学にも興味があるということで
それならば、、、とパリ政治学院についても触れてみた。

 おじさんはそんな情報を得られた事が嬉しいらしく
長い事語った後で店を出る時も「いい話ができてよかった」と
挨拶をしてくれた。お姉さんに愚痴を語りに来たはずなのに
結局おじさんと教育話にあけくれて ちょっと感謝も
されてしまって 自分が出てきて面白かった。
お陰で少し元気になって やっぱりゴゴはいいよなー
こんなにもみんなが触れ合う そんなカフェは
他のどこでも見たことがない。自然な会話 自然な流れ
そしてみんながゆるりとつながってゆく。素敵なカフェだ。

 帰りがてらゴゴの近くにできたカフェを横目に見る。
朝からやってるみたいだけれど、まだお客さんはいないよう。
そうだよな この一帯で朝のゴゴに勝てるには まだまだ
厳しそうだよな。だって朝はゴゴがいい。

 以前ゴゴで話したおばあちゃんは「この辺の喫茶店に
何軒か行ってみたけどねえ ここが一番元気があって
楽しそうだからここに来るんだ」と言っていた。
そんなおばあちゃんと触れ合う若者。私には当たり前の
早稲田の世界はここでは遠くテレビの中で、私には
驚きで満ちた京都の世界がここでの日常ある世界。
そんな中に入って行けて いつでも受け入れてもらえる

 そういう点では 午後のゴゴより 朝のゴゴのが
よっぽどか面白い。人と人との交差点。この店を後にするとき
「さよなら」は「行って来まーす」に変わってる。
(2007年4月)

自己の力量を超えること

2011年12月22日 | パリのカフェ的空間で


 「人が呼ぶところの天才と同じように
才能は授けられたものではないのです。
それは勝ちとられたものなのです。つまり、
もしあなたが困難に立ち向かうとき、そして
それに打ち勝つ努力をするとき、あなたは自己を
乗り越えたことになり、もしあなたが安易な
領域にとどまっているとすれば、あなたは安易な水準に
とどまっているということです。(中略)

 力量を示すということ、
それは常に自己の力量を少し超えることです。」

(ボーヴォワール 『女性と知的創造』p.43)


 この言葉 は 私の頭の中にずっと残っていたけれど
専業主婦をして悶々としていたころは 少し
自分の本を開くたび に 引用していたこの言葉が
グサグサささって痛かった。だから痛かったし
怖かったから 長いこと私は自分の書いたあの熱い本が
読めないでいた。だけど 今なら 私にはこの言葉の意味がよくわかる。

 「力量を示すということ
それは常に自己の力量を少し超えることなのです、、、」


 この夏 いや 秋になっても 私は不安の固まりだった。
壁は壁にしか見えなかったし 高すぎる壁に全て囲まれていると思ってた。
だけどツアーの最中に何かが私の中で変わったようで
壁に見えていたものたちは 力量を示せるかどうかを
試されているんだ そして「壁は乗り越えられる人の前にしか
現れない」というのがもし本当なら できるから現れた と
思えばいいんだ そう思うだけですごく物事が変化する、、、

 これは私にとってはかなりコペルニクス的転換だった。


 そっか できるんだ できるから神様が与えてくれたのか。

 今日はこれを乗り越えなさい できるから

 そんなくらいに考えられたら なんだか全てが変わってく。



 私は「できない」「無理」の固まりだった。

 だけど今 よくわかるけど 毎日自分の限界を乗り越えている
毎日大きくなってきている。フランス語 に関して言えば
家族と話す意外に使ってる言語(少なくとも半分くらい?)が
フランス語になりつつあるような気がする。


 そう 私 は Paris-Bistroの仕事をやらせてください!と言った時も
今関わっている仕事全ても そういえば「やります!私に
やらせてください!」そう言って それらにとりかかり
後になって うわーこりゃかなり限界値だな、、、というのに
気づかされながら でももうやるしかない!とツアーの時のように
がむしゃらに走っていたら 道ができてた そんな感じになっている。


 フランス語 を 上達させるには?仕事で使ってみることだ!
そうせざるを得ない状況 逃げることが許されない状況というのは
人をかなり強くさせ そして成長させるんだなあ。 


 最近はフランス人とのメールでのやり取りも活発になり
彼女がすごい勢いでメールをするので 私もすごい勢いに
対応出来るように 息子が何かをしている横で バババと打って
返してみたり。そうしてメールやワードのチェック機能に助けられ
赤線が引かれたおかしな単語を ん?こうかな?アクセント?
それともこうかしらと 引いたり足したりしているうちに
なんとなくさまになってきて それを繰り返しているうちに
もしや仏検一級も受かるんじゃないか、、、そんな気がしてきたり。
上達するには?そう 学校に行くんじゃなくって 実地で必死で
使うこと。。。


 1月からはとても興味深いプロジェクトに関わらせてもらうことになり
大変だけどきっとすごい経験になるのだろうなとどきどきしてる。
フランス人のジャーナリストと一緒に仕事をしてみる経験。
そして私が?通訳をするのだろうか そう そういうことなのだ
責任はとても重大だけど きっとなんとかやれるだろう
きっと素晴らしい経験になる そうあの時のツアーのように
なんだかそんな気がするんだな。



 一体どこで 何がどう転換したのかはよくわからないけれど

 私はツアーの最中に 最大の贈り物である 「自信と勇気」を
手に入れたようであり それは私が日本で不安の中でもがいていても
決して手には入らなかった。今はそれがあり なんだか守られているような
気がしてるから うわーどうしよう!!と思っても
なんだか乗り越えられる気がする。私の人生がどうなって
どんな波に乗って行くのかは 想像があまりつかないけれど
来年はきっともっと面白くなっていくのだろう
そして私は 少しだけれど 使命がなんだかあるように思えるようになってきた
そのために は 日本とフランス 両方の視点を知ること
そしてそれを説明できるようになること
母であることも 女性であることも それゆえの苦しみを
感じて来たことも きっと糧になるのだろう


 どんな世界がこれから待っているのだろう

 まだ私にはわからないけど 私にもやるべきことがあり
道が待っているのなら そこに向かって進んで行きたい
そして私も 他の人たちも もっと幸せに生きられる そんな道を探りたい。

パリでの日々

2011年12月05日 | パリのカフェ的空間で



 今回は思ったよりパソコンを使える環境にいなかったので
最中に何をしていたか書けなかったけど
日本に帰ったらちゃんとまとめて報告しようと思います。


 明日でついにパリもさよなら、
まあこれだけ行ったり来たりしてきたのだから
まわりのみんなも「まあまた来るだろう」くらいに
思ってて 私も「また何ヶ月か後に会おうね
こんどは多分息子も連れて、、、」なんて最後の言葉を交してる。


 私は頭がおかしいんじゃないかと日本にいたとき
思ってたけど パリに着いてみるとパリの交通や道を
かなり熟知していて さすがに5ヶ月くらい頭の中が
パリでいっぱいだった甲斐?があるようで
パリではいろんなことが役だった。

 ツアー中に降り掛かって来た様々な試練のお陰で
壁っていうのは自分を強くするために現れるものなんだなあと
思えるようになってきたし あとにひけない!!という
必死な気持で過していたからその間フランス語も上達したし
交渉さえすればフランスではけっこう通ることがよくわかった。
(今日も美術館の窓口でコートとカバンを預けようと思ったら
「もう一杯だからカバンは無理!あんたここまで持って来たんだから
美術館でも持てるでしょ」と言われハア??と思ったけど
これはもう一度交渉しよう と他の窓口を探してみたら
そこではすんなりうまくいき やっぱりフランスって
交渉するとなんだか余地があるんだなあ 不思議な国だなあと思う。


 とにかく私はだいぶいろんなことができるようになり
フランス語も上達し みなさんのお陰で後に引けない勇気まで
いただくことができたので なんだか別人になった気分?
フランスの友達も「ミキは生まれ変わったね」とか
いろんな企画の話をしたりして みんなでワクワクできてうれしい。
次は美術館もめぐったらどうかな だとか
ワインのテイスティングもいいかなあとか
フランスの家庭料理をやってみたりとか
誰かのお宅でフランス流人生の楽しみ方を体験できる食事をしたりとか
アイデアは山ほどあって そうしてわくわくしていると
いろんな素敵な出会いがあったりもする。
(今日は哲学カフェのテラスで連絡のとれなくなってた
旧友に会えた!!そして知らなかったもう1つの哲学カフェに
連れて行ってくれた)


 みなさんのおかげで フランスでは私はいつも楽しくて
楽しんでいると また誰かがどこかに連れてってくれて
ありがたい。先日はサムライの甲冑などの展覧会に行き
感銘を受け、こんな展覧会はぜひ東京でもやるべきだ!!と
主張してたら一緒に行った人から高価なカタログをいただいてしまった。。。
それにパリビストロの代表に「こんどワインのテイスティングサロンが
あるんですか?」ときいてみたら「興味あるの?」と
電話をしてくれ なんとプレス用のタダ券を送ってもらえた!
そこで経験できたことといったら!もう明日死んでもいいと
思えるくらい素敵な経験でした。5杯のんだらべろんべろんな
私も、ワインを吐き出すことをしっかり教わり20杯以上
いろんな種類を試飲できて また勉強になりました。
ロックフォールとシャンパーニュのマリアージュ!美味しかった、、、!



 あのときは 誰かにおそわっていたことを
今では私が誰かに教える立場になれた。
そんなことが 今回は沢山あって
こうして代表や友人たちやかつて留学時代に
お世話になった人たちから得たことを 私はまた
きっと日本に 日本人に伝えて行って
日本にはなさそうだけれど パリにある
確実に存在している なんだか違う生き方を
肌で感じてもらえるように そして感じた
違和感や変化を 日本に持ち帰ってもらえるように
きっとしていく道なのだろう。


 パリでフランスのことを学んで
パリで日本のことを学んで それをまた
誰かにつたえて議論して その議論を今度は
パリにまたもってきたりして そういうことって
とっても楽しいだろうなあ パリは楽しい
日本にいる日本人が知らないでいる
素晴らしい過ごし方が沢山あると思う。
シャンパーニュを楽しみたければ?
1万円を10回日本で払うなら 安い航空券を
えいやと買って テイスティングのサロンに
行ったらいいと思う。そこには違う世界が待っているし
フランスでは15ユーロもあって その使い方を
知ってれば 素晴らしい経験が可能なんだな。
今日は12ユーロでゲートルードスタインの
展覧会に行き、山の様なマティスとピカソの作品を見た。
こんな経験ができてしまうフランスってやっぱりすごい。

 でも魅力はなかなか伝わっていないみたいだから
日本にはいるとどうも妙な変換のされ方をしてしまうから
私はもっと伝えたいし 肌で感じるお手伝いがしたいと思う。
またいつか そのうち帰って来れますように!
みなさん本当にありがとう!

フランスでの議論

2011年11月23日 | パリのカフェ的空間で


 いつかはフランス語で議論できるようになりたい
ちゃんといろんなことを説明したい というのは
私の10年前からの夢だったけど 昨日は何故か
語学レベルがあがってくれたのか 知人宅の夕食に招かれて
そこでかなり話もわかって言いたいことはそれなりに言えて
沢山たくさんアハハ!!と笑ってとっても素敵なディネだった。


 フランス って はじめはすごく大変だけど
話せるようになっていくと本当にとても面白い。


 私はフランスの議論のテンポが大好きで
お互いにぐわーっとしゃべって休むことなく
誰かが何かを言おうものなら こちらは聞いて
「ほーなるほどね」と思うだけじゃなく それに対して
自分の意見を返してく。それが私は面白い。


 かつて留学していたことは かろうじて話の内容が
わかるようになったとしても 彼らの圧倒的な
話し振りと知識に押されるばっかりで 彼らが
ドドーンと話をしてきて「それで、ミキはどう思う?」みたいな
ちょっとした隙をくれたときにも 私は「はあ、、、」と思うばかりで
何も面白いことが言えなかった。それでは議論にならなくて
彼らの一人語りになってしまう。



 議論するには フランス語だけじゃなくって
いろんな技術や慣れや知識が必要で フランスでは
沢山のニュースを知って それを誰かと分かち合い
あの国ではこんなことが起こってるんだって!すさまじいね
どうしてだろう?とそんな話をしょっちゅうしている。
昨日はフランス人夫婦とパリに住んでるイタリア人夫婦がいたディネで
話題は尽きることもなく 経済の危機の話、イタリアが危機におちいって
選挙をするよりも前に大学教授やら銀行家やらが政府を
乗っ取り始めたこと 危機を引き起こしたのと同じ銀行の
人たちが今世界を指導しようとしはじめていること
そんな世界は信じられない 私たちはやっぱり97%の人間だとか
(それでもすごいブルジョワだけど。)
今は世界中ですさまじい変化が起きていて明らかに違う時代への
移行期間だろうということ 18世紀後半にはたった何十年間で
近代の偉大な発明のほとんどすべてが行われたこと
きっと今もそんな時代になってるのだろうということ
日本の話、日本ではノーという文化もなければ批判も出来ないと言ったら
フランスでは批判こそが一番大事でいつもノーばかりいってるよ とか
最近話題の美術館の展覧会の批評のしあい(ポンペイ展が素晴らしいらしい)
それに中国では老人が朝公園で体操したり子供みたいに遊んでてね
あれは感動的だった、ヨーロッパは個人主義で自分がどう見られるかを
気にしすぎるから年をとってからあんな風に遊ぶなんてできないけど
あれはやってみるべきだね!とか


 話題はまったく尽きなくて その度にだれかがエスプリのきいたことを
言って アハハ!と笑って面白い。おいしいご飯(昨日は旦那さんの
手作りのご飯でめちゃくちゃおいしかった。)にワインにチーズ。
素敵な雰囲気にテンポの早い楽しい議論。世界は一体どうなるのだろう?
そんなことを みんながもってる知識や疑問を分け合いながら
この先のことを語ったり 一方で娘さんのカナダでの変わった暮しぶりに
ついてだったり。こういう会話が面白い。


 私はフランスのテンポが好きだ。「それでね!こうなのよ!」
「いや そんなことはないよ」「いやいやそうなんだって!」と
みんな熱をこめてジェスチャーをつけて語り合ってる。
昨日は不思議なことに議論の内容も相当わかり、かつその前は 前回に知り合った人の
お家に行って話し始めたら2人とも話が合いって止まらなくなり
3時間くらい語ってしまった。どうしてここでは こんなにも
語り合える人を見つけることが容易なのだろう?


 私は本当にフランス語で議論がしたかった。日本のことも
説明できるようになりたいと10年前に強く思った。
自分の考えてることも言いたいし 沢山の意見を交換し
ほーそんなことがあったのか!と驚きながら頭の中をかきまぜて
日本語だけではわからなかった世界に至ってみたかった。
フランス人は例えフランス語で議論してても視点がハンパなく
インターナショナルだったりするし 洞察が深い人はとても深いので
そこにいろんな視点や分析を付け加えてくれて面白い。
ああそうか そういう視点でみるとこの違いはこう映るのかとか
いつまでも議論してたいなあ!!


 日本語とフランス語といつの日か英語もつかって 沢山の人と
議論して 考えを深めて行って 日本語でものを書きたい。
これからの時代 大切なことは何なのか
私にはまだはっきりなんて見えてないけど 
昨日合った女性はこう言っていた。「世の中には夢を見ている
タイプの人と夢を生きるタイプの人たちがいる。私たちは後者の方ね!」
私はそんな彼女に偶然出会えて本当にうれしくなった。
フランスには勇気を与えてくれる人たちが沢山存在してる。
一人でもそんな人がいるなら 私もがんばろうと思える
そんな人たちに出会えてよかった。
昨日は素晴らしい日 でした。もうすぐツアー がんばります。

カフェでの出会い

2011年11月02日 | パリのカフェ的空間で



 昨日はやけに天気が良くて
ああ東京の秋晴れって何年ぶりだろう
こんな東京の秋の空が好きだったなあ!と感慨にふけり
色々とやらなきゃいけないことが山積みになっていたけど
今日はどうしても広尾のカフェに行ってしまいたい!と
電車に乗って行ってしまった。


 さて、いつも通り10時半くらいに着いてみると
やっぱり外の空気が気持よくって 最近は
私も少しずつその場になじめて来たのだろうか
ちょっと知り合いができたりしはじめ
午前中に2人の知り合いに会い 仕事をしながら
色々と話をさせてもらえて面白かった。


 カフェでの会話、カフェでの出会いはなんだか
とっても面白くって これまでここであった話を
挙げてみる と なんだかすでに山ほどあるけど


 先日たまたま出会ったフランス人の様子について
オーストラリアから来た人としていた会話
「それで、今度のフランス行きはどうなったの?」
「一週間だけ行くんだよ。ずっとサイクリングするんだ」
(何故か偶然出会ったこの人は私と同時期にフランスに行く)
「それにねえ家の工事もあるからね 結構忙しいんだよね」
「たった一週間なんて短いんだね もっとゆっくりしたらいいのに。
南仏の人たちって怠け者だっていうから忙しいとやりとりが難かしいんじゃない?」
「怠け者って言い方はよくないよ 彼らは彼らのやり方があるだけだ」
「そっか ごめんなさい ボキャブラリーがあんまりないの。
そういえば前にみた『プロヴァンスの恋』とかっていう映画は面白かったな。
ロンドンの忙しいビジネスマンが
訳あって南仏に滞在することになってね 彼の忙しいやり方と
南仏のゆったりした雰囲気がすごく対照的なの」
「それがフレンチウェイなんじゃない?」
「フランス流といえばね 私がここで出会ったフランス人の人は
すごいゆったりしてるよ。3週間くらい奥さんに会いに
東京に来てるみたいなんだけど 午前はここでゆったり過して
午後はちょっと散歩するんだって でも美術館とか
色々巡ったり 京都行ったりもしないんだって!」
「それはすごいね、、、僕はオーストラリアンウェイだなあ」
(それでもこの人の日本人からみると随分ゆったりしてみえる)


 さて、そのフランス人はといえば、色々と面白いことを
言っていて 「パリってのはねえ やっぱり夜の街なんだよ」と
教えてくれる。この人は子供が15歳くらいと言っていたので
多分40歳代だろうと思うのだけど 日本で40代の大人が
夜の街を楽しまなきゃねなんて言えるだろうか?
夜を楽しむのなんて20代くらいで終わりじゃないか?
私はうまく説明できなかったけど 日本で最近
「大人の遊び場」って言葉が使われてること
パリに行ってなんだかそんなの笑っちゃうなと思ったこと
だってパリにはそんなのが溢れているからってこと
どうしてパリプラージュができたのだろうとか
はたまたビザのいろはに至るまで いろいろ
教えてもらえてとってもありがたかった。
そう フランス人はゆったりしている
彼らには彼らの時間の使い方があるようで


 だってピクニックいってても3時間も4時間もいるもんね
日本人なら2時間くらいがせいぜいじゃない?
バカンスに行こうものなら彼らののんびりの仕方はすごい
そして彼らは1週間でパリを早足で駆け回るような
日本人達を「かわいそうね」という目で見つめている
なんだか全然違うんだ。
(よくパリでは「どうして日本人はそんなに夜中まで
働くの?」と不思議そうな顔して聞かれます。
ちなみに信じられませんが怠け者にみえるフランス人たちは
なんとGDPが世界5位なんですよ 日本は3位!こんなに
必死に働く人たちとバカンスと家族を大事にする
人たちの差はわずか2位。。。彼らは生産性が高いらしいです)


 このカフェはパリのカフェみたい というか
むしろユースホステルとカフェが合体したような
あまりにも国際的で だけど東京に住んでる人が集うから
それなりに常連の人が多くって あの人また来てるなという人が多い。
夕方に来たら目の前で勉強していた中国人の女の子に
おじさんが声をかけている。
「いやあ美人ってのは大変だよね 要求が多いんだ。」とか
「君は一人っ子なの?そりゃあ淋しいねえ!兄弟は大切だよ」とか
なんだかいろいろちょっかいを出し「兄弟がいないなら僕が
兄弟になってあげよう」とかナンパなんだかナンパじゃないんだか
よくわからないことを言っていて 最後に「それで?君、
名前は?」ということになっている。

 そう カフェの出会いには 名前も自己紹介も必要がない
だけど どんな人なのか は だいたいわかる
それでちょっと話が合ったら 名前を聞いて
場合によっては連絡先を聞いたりもする そんなやり方が
私は好きだ。そういえば私の人生を結果として変えることになった人たちは
一人はバスチーユの哲学カフェに来ていた人で
一人はカフェドフロールの哲学カフェを主催していた人だった。
カフェでの出会いは面白い。


 たまたま隣にいただけなのに 「え?そんな!」という
情報を持っていることがある。そのフランスから来た人は
私がまさに知りたい情報を色々と教えてくれたし オーストラリア人の人は
不思議なことに11月にフランスに行くという。みんなに
共通してるのは カフェという場 特にパリのカフェみたいに
なんとなーく座っていられるテラスのある ここのカフェを
気持がいいと思ってることで「今日もいい天気だねえ!」
なんていいながら 自分のやりたいことをやってみたり
時に会話を交してみたり 街行く人や 街のざわめきを感じてみたり。


 今日はカフェでオルデンバーグの「The Great Good Place」という
サードプレイスに関する本を読んでいたけど まさにそんなカフェが
街中に溢れてる パリという街はとても素敵だ。 ブリュッセルやウィーンも
そうらしく この本が書かれた当時のアメリカに ヨーロッパから
渡った人は どんなに家が大きくたって こんな感じの
誰かに気軽に会えて ちょっと降りて行ってリラックスできる
そんな場がない生活を 監獄のようだと思ったという。
私にはその気持がよくわかる。家は小さくってもいいから
インフォーマルパブリックライフを大事にしたい
そこで沢山の人と意見を交して 違う視点で物事をみて
それで何かを書いて行けたら そりゃあ楽しいだろうなあ!
このカフェにいて それから図書館で本が読めると
ボーヴォワールの気持がわかるような気がする
さぞかし彼女は楽しかったことだろう。
彼女もカフェで 沢山の人に出会った 
カフェで宣戦布告を知って カフェで沢山のニュースを聞いた
沢山の物語が刻まれて行く そんなカフェ が 身近にあること
それってすごく人生を豊かにすると思う。


 そんなカフェ 人との素敵な出会いがあるカフェ、
世界も自分も開かれていく 気楽で自由な雰囲気のカフェが
もっと日本に増えてほしい。


 

横浜の香り

2011年09月01日 | パリのカフェ的空間で


 今日はトリエンナーレに行くぞーと思って
友達を誘って蓮太郎とともに久々の横浜、
横浜 といっても横浜駅ではなくってハマッコの
誇りでもある(?)山下公園付近に行って来たのだけど
なんだか横浜はとてもよく そう 私
前にもみんなで横浜に来た時に思ったのだけど
もしかして ここは私の原点なのかもしれないなーと。


 関内 という街は 特に何にもないような
神奈川県の庁舎なんかがある街で 神奈川県民だからといって
なんとなく ふらっと来る様なところではなく
1年に何回か 用事があって来る様な それは
デートであったり 誰かとの約束だったり
パスポートの申請だったり そんな街なわけだけど


 ここってなんか すごいなあ なんか意外と好きだなあって
前に来た時驚いて 何がそんなにいいのかよくわからなかったけど

 3ヶ月のパリから戻って今ならわかる。ここは
日本のパリだったのだ!! それでね 日本で
あーここはパリみたい って思えるとこって
ほんと少ない。10にも満たないと思うから
だからわざわざ来たくなっちゃう そんな場所 なのかなあ。
(よく考えるとそういうスポットは必ず大きな街路樹がある)


 関内には何があるかと言いますと
やたら綺麗な並木道がいくつかあって
並木沿いにはウィーン風とかフランス風とか
テラスが出ているカフェがいくつかあったりするし
山下公園の近くはまた並木が綺麗で街灯もお洒落。
あの船がどーんという感じは(海なんだけど)
セーヌ川に似ているし なんせこの街は人通りが
少ない割にはカフェが多い!しかも緑がみえる
パリ的なカフェ。私は今日気づいたのだけど
日本にはカフェが3軒隣りあってるような場所って
ほとんどない。居酒屋とかはところ狭しとあるけれど
関内にはいくつか2軒ほどカフェが隣りあってるような
ところがあって そういうのを見ると「どうして
こんなにカフェが?」とか なんだか違和感を感じてしまう。
でもそれはとてもパリっぽくって どっちの
カフェに行こうかな こんどはこっちに行こうかな
どっちの眺めがもっといいかな そんなことを 思わされる。


 しかも不思議なことにみんながみんな超高級というわけでもなくて
今日は海が見えてみなとみらいも見晴らせる素敵なカフェを
発見し(自分でいいカフェを発見する喜びといったら!!)
そこはコーヒーが300円でテラスもあった。お姉さんも
感じがいいし こんなカフェ が あるんだなー。
もちろんセンスもすごくよかった。


 そういうところ、カフェとかテラスとか並木道とか
芝生とか水辺とか船だとか かっこいい建物だとか
街灯だとか そんなのが広範囲で広がってる街 それが
横浜の港あたりなんだなあ。そんな街 が知らない間に
私に与えた影響は きっと測り知れないものなのだろう。
自由が丘は自分で選んだ。横浜はそこに住んでいた。
行きたい行きたくないとかじゃなく 何かがあると
行く場所だった。遠足でだって行っただろう。
横浜市歌だってひらがなで意味もわからず覚えさせられた。
そこには外国の香りがあった 憧れていた異国の世界
港の向こうは外国だった そうここは開国の街。


 今日は開港記念館の前を通って(ここにも素敵なカフェがある)
昔彦根城に行ったときよりももっと強い気持で井伊直弼に感謝した。
開国してくれてありがとう。また鎖国したらいいのにとか
思ってたこともあったけど あなたのお陰でこの素敵な関内があり
そんな場所があったから 私は見知らぬ世界に想いをはせて
生きてきました。そうしてそこにも行けました。
開国してくれて本当にどうもありがとう。


 今日は運良く乗れた「あかいくつ」という巡回バスで
蓮太郎と観光するか、と何年ぶりかの「港の見える丘公園」
あたりの風景もみて うわあ この辺 高校生の時来たっけか
めちゃくちゃ憧れていたよなあ よく一人でさまよっていた。
外国のブリキのおもちゃ インターナショナルスクールに
外人墓地に フランス風の建物に、、、 そうです
私が若かった頃 インターネットなんてなかった。
私は今の若者世代とは違う環境で育ってた。

 20才になったころ まだインターネットは強くなかった
「世界」はまだまだ遠かった。語学だってカセットと
本で勉強していた フランスのイメージは本や
こういう街だった。でもありがとう 港ヨコハマ。
そこには素敵な世界があって 私はさんざん想いをはせた。
何度インターナショナルスクールの文化祭みたいなのに
紛れ込んだことだろう。私は帰国子女になれなかったけど
いつか私は外国にいって 子供を帰国子女にするんだと
その頃に思ってた。そういう世界を思い出し
それだけで胸がキュンとなる。


 憧れていたいろんな世界 カフェに パリに 自由な世界
インターナショナルな雰囲気に 私は自分で 少しずつ
近づきつつ あるのだろうか。


 日本は日本で 街ごとに色んな表情があって面白い
ヨコハマや神戸 それに下町 六本木に新宿に
山下公園に日本庭園 それから京都 瀬戸内海。
みーんな色んな顔をしていて それはそれで面白い。
だけど私はあまりに強く 憧れ続けてしまっていたから
15にして学を志し 30にして立つ を目指して
なんとなかの地で頑張りたい。パリのカフェがある街のあり方
沢山の緑に囲まれた都市のあり方 そしてアートが身近な
都市のあり方 横浜はそれを敏感に感じとり 何かを
やってきたのだろう。私はもっとパリのことを理解して
それを日本に伝えたい。おそらくそれは私だけじゃなく
多くの人に役に立つ要素があるはずだから。
横浜の港と自由が丘と青山の雰囲気がいいと思うのは
決して私だけじゃない。そこには隠されたいろんな要素が
あるはずなんだ 人がつい 歩きたくなってしまう街
なんとなく外に出たくなってしまう街には 何か
大事な要素があるはずなんだ 私はもっと
それをしっかり探って人に伝えたい。

フランスに行くなら

<iframe frameborder="0" allowtransparency="true" height="60" width="468" marginheight="0" scrolling="no" src="http://ad.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/htmlbanner?sid=2716631&amp;pid=879463511" marginwidth="0"><script language="javascript" src="http://ad.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/jsbanner?sid=2716631&amp;pid=879463511"></script><noscript></noscript></iframe>

ブログランキング

http://blog.with2.net/link.php?1215861