伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

志摩の外海、海岸紀行

2010年10月16日 | 伊勢志摩旅情

~ 安乗岬から波切を経て、御座岬へ ~ 【 前編 】

 

上空から見た安乗岬

 

志摩市の5町について

 志摩地方は、つい近年、志摩5町がひとつになり、志摩郡から「志摩市」となった。伊勢神宮の別宮、「伊雑宮」のある磯部町は、的矢湾の奥半分を取り囲む場所に位置し、西方には「天の岩戸」や「鸚鵡石」など、古来の名所があって、昔は逢坂峠を越えて内宮裏の館町へと続く山路道(伊勢の側からは「磯部路」(いそべみち)と言っていた)を、古くから人々が盛んに往来していた。

国府白浜から安乗半島を望む  その東の阿児町は、志摩電鉄が鳥羽から賢島へと開通(昭和4年に開通)してからは、 鵜方を中心に志摩地方の中核地となり、鵜方は、駅前を中心に新興都市型の町へと急速に広がり、発展し、志摩地方最大の繁華街となった。特に賢島は、その後、阿児町最大の観光地へと変貌し、海岸線の入り組んだ波静かな南の英虞湾は、真珠筏の浮かぶ風光明媚な海景が展開し、伊勢志摩国立公園最大の観光資源となっている。この陰に隠れたようなもう一つの観光地が、北の突端、「安乗岬」である。さらに、町内の各地に通じる道路網が整備されて以降は、国府の白浜とともに、志島の「市後浜」(いちごのはま)がサーフィンのメッカとなり、シーズンになると県内・外の若者たちで賑わいを見せている。

 先志摩地方と阿児町をつなぐ位置にある大王町は、波切漁港と船越漁港中心のこじんまりした町で、東の小高い突端、大王崎は、灯台(有料公開)が観光のシンボルとなっていて、細い灯台への坂道にはみやげ物屋が軒を連ね、空をも遮っている。最近は、英虞湾に突き出し西に伸びる、登茂山半島の丘陵地や海岸がリゾート地として開発され、展望台とともに数々の観光施設が出来ている。

 志摩町は、陸繋砂州の上に立地している船越の村落から、西方に延びた鋸型の先志摩半島の殆どを占めるが、今は当地方唯一の運河である「深谷水道」が町界を成すので、はっきりしている。かつては幾つかの漁村が点在し、漁業中心の素朴なイメージの志摩の果てであったが、縦貫道路やバイパスが貫通し次第に散村と化し、俗化されて来ている。志摩町の中心地は、和具漁港であり、かつて外洋から内湾へと続く繁華街には、映画館やパチンコ屋も複数あったし、早くから水産学校(明治35年創立。現在の県立水産高校)が設置され、カツオ船などもたくさん出入りしていた。志摩町は、真珠養殖とともに、海女漁の最も盛んな場所でもある。

 阿児町から五ヶ所湾に続く沿岸部途中の浜島町は、どちらかと言えば「奥志摩」である。合歓の郷のある大崎半島によって区切られ、沿岸海域が英虞湾の多島海や有湾台地とは少し異なり、外洋的要素も加わった、英虞湾口北岸の漁業と観光の町である。ここでも海女漁は見られるが、かなり以前から遠洋漁船の入港もあり、鳥羽、渡鹿野と共に、船乗り相手の遊女のいた、三大色町の一つとしても発展して来た。漁村を骨格に、この港町は今、近代的な温泉を掘り備えた複数のリゾート・ホテルが並び、夜のネオンが怪しげに観光客を誘(いざな)うようだ。

 

安乗岬から志島へ

 国の重要無形民族文化財に指定されている、「安乗文楽」で知られる安乗の村落は、短い陸繋砂州の上から西方背後の丘陵地の高台へと立地した漁村である。ここの灯台は、北に突き出した小高い岬の突端にあり、その手前の芝生広場(元は、安乗中学校の跡地)の一角に、町が設置した簡易食堂兼休憩所と、安乗埼灯台資料館(入館無料)がある。ここへは、村落横の防波堤を通り、狭い急坂を上るが、普通車一台がやっと通れる道幅である。四角柱の灯台は、古い歴史があり、内部が有料で公開されていて登ることができる。的矢湾の湾口を隔てて相差の菅崎が間近に見えるが、渡鹿野島はここからは見えない。この灯台は、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台として、そのロケで一躍有名になり、当時の写真などが内部の螺旋階段の上り口に飾られている。

 もう一つ安乗を知らしめた文学作品に、明治の漂白の詩人として著名な伊良子清白の詩集、「孔雀船」に収録された「安乗の稚児」という詩がある。最初の部分のみ記すと、

志摩の果て安乗の小村(こむら)
早手風岩をどよもし
柳道木々を根こじて
虚空(みそら)飛ぶ断(ちぎ)れの細葉

 

 今は、志摩地方の国道等も整備が進み、バイパスや各村落へのアクセス道路も出来て、交通至便になった。鵜方から国府(こう)を経て、安乗へ向かうかつての一本道も拡幅され、立派に舗装されている。

槇垣のある旧道(正面突き当たりに、国府神社がある)  安乗から国府へは小高い丘の上を通るが、ブッシュに囲まれていて見晴らしはきかない。途中に、今は高層ホテルの立ち並ぶ温泉歓楽街となった、渡鹿野島(的矢湾内の離島)の村落対岸の船着場に出る、アスファルト舗装の幅広いアクセス道路が出来ている。そこを通り過ぎ、切通しの坂を下ると、国府の手前右手の雑木林の中に、由緒のある古い国分寺(跡)がある。そして、目前に磯波の寄せる広々とした砂浜海岸が開け、遥か先の岬(城の崎付近)まで3kmにわたって弓なりの海浜となる。 夏場はサーファーや海水浴客らでにぎわう「国府白浜」である。臨海地は「志摩パークゴルフ場」となっているが、街村的な村落は海抜0m地帯に密集しており、かつては半農半漁で生計を立てていた。ここは、昔から海からの砂風除けの為、独特な槙垣のある村落として大変有名であり、その槙垣は今も旧道沿いの各家々に残存する。在所の中には国府神社があり、この村落を護っている。又、古くから当地の農家は、風習としてどの家も隠居制を敷き、今も屋敷内に年寄りの為の離れ家(別棟)を持っている家がかなり見られる。

国府の国分寺(跡)   

 国府を過ぎると、間もなく防風林の松林となり甲賀に至る。当地の海浜は「甲賀白浜」とも言い、歴史的に著名な「阿児の松原」があり、万葉集を始めとする古歌にも歌われている。夏場になるとサーファーや海水浴客らで賑わい、松林の中には「阿児の松原スポーツセンター」がある。その管理棟の前には、 

「阿胡の浦に船乗りすらむ乙女らが 玉裳のすそに潮満つらむか」(詠み人:柿本人麻呂) 

の歌碑が建っている。但し、この古歌に詠まれた「阿胡の浦」が、今の場所なのかどうかについては異論もある。

 ところで、この「伊賀・甲賀」の文字の一方を充てる、当地「甲賀」という地名であるが、由来は古く戦国時代を遥かに遡り、大化の改新以後、各地に国府(こくふ)の置かれた時代かららしい。但し当地の「甲賀」は、後年に文字を充てたものらしく、諸説ある中で、元は「国府ヶ浜」(こうがはま)だったのが短縮されて「国府ヶ」となり、「甲賀」の字を充てたのだと言う説を採りたい。

 

 甲賀のはずれの右手は、海潟湖(かいせきこ)の跡のような低湿地帯となるが、海沿いの旧道は上り坂となり、坂を登りきった丘の上が志島(しじま)である。この丘の上から東側の海岸まで、ダウン・ヒルの急斜面に家屋が密集し、下の漁港まで続き、まとまった村落となっている。

王女丘古墳  志島といえば、志摩地方では大・小の古墳群の集中する場所としてよく知られている。古墳は全部で15基あり、このうちの第11号古墳は、一番高い場所にあり、正式な学術調査も行われ、「王女丘古墳」(おじょかこふん。割石積・横穴式・石室古墳)として広く知れわたっている。当地ふのり海岸の渚付近の丘上の塚穴古墳(4号古墳・円墳)と共に、以前は覗いて内部が見学出来るようになっていたが、今は雑草で覆われている。「おじょか古墳」へは、道路沿いに案内板があるが小さくて解りにくい。志島のバス停の少し先にある、「フードショップ 出口食品」横の細い路地を少し入った、民家の入口横の小丘がそうである。志島古墳群は、鉄刀、古鏡、勾玉、管玉、金鈴、金環や蓋杯、埴輪など、豊富な副葬品の出土例から見ても、志摩地方最大級の古墳遺跡である。

遠浅・白砂のビーチ「市後浜」  この他、志島は、古来、沿岸漁業を主とし、農業を従として生活を営んで来た村落であるが、海女漁も盛んで、かつては村内婚の多さでも有名であった。稼ぎ頭で働き者の女娘(おなご)は、昔は磯桶ひとつで嫁入りして行ったとさえ言われている。

 最近、志島は、漁港の南の市後浜(いちごのはま)が脚光を浴びるようになり、シーズン・オフでもサーファーや観光客が訪れるようになった。阿児町も地元も、この程よい距離の遠浅・白砂の景勝ビーチを観光資源として売り出しており、夏場は大変な混みようである。専用道路や駐車場(有料・無料)、トイレにシャワー小屋、それにリゾート・ホテルもあって、当地のドル箱ビーチとなりつつあるようだ。

「おじょか古墳」の説明板

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