伊勢すずめのすずろある記

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三重県 奥伊勢産の「伊勢古谷石」について

2015年10月05日 | 石のはなし

昭和40年代に産出した、紀勢町原産の「伊勢古谷石」~ 左右幅約33cm

 三重県産の水石や鑑賞石、庭石、硯石などの石材としては、明治期以前から紀州における「那智黒」(那智黒石)と「古谷石」(但し、これは和歌山県産の「山止め石」となった古来の銘石である)が知られており、江戸時代に書かれた我が国の石に関する最高の古典名著(古文書)である、「雲根志」(木内石亭の著書。1772年・明和9年~1801年・享和元年にかけて執筆。前、中、後の三編・15巻を順次刊行)にも「那智黒」が記載されている。

 杉山友石氏の私本、「愛石史年表 ②」によれば、江戸時代の後期(文政7年頃)には、江戸に盆石商があって、盆石道具や置物石を商ったとある。
 その後は、「分國石譜」(くにわけせきふ。発行年不詳)など、雲根志を引用したと思われる古文書が幾つかあるが、岩石・鉱物、鉱石、石材のみならず、各地の謂れ石や名物岩、化石や堆積物、そのほか遺跡や古墳からの出土品類に至るまで記載がしてあり、とにかく「石なるもの」についての記述は、木内石亭の雲根志がそうであったようにごちゃまぜで、一応分類がなされてはいるものの、当時の石の方言・俚言、俗名もかなり見られる。
 この分國石譜の中にも、「紀伊」の項に那智黒石が「試金石」(方言 那智黒)として記されている。

 明治の初期には、「三重縣鑛物誌 全」(明治14年2月)が三重県の官制資料として刊行され、その当時の県内産の地下資源等が「イロハ順」にほぼ網羅され、産地と供に詳述されているが、これも鉱物や鉱石だけではなく、岩石、石材、銘石、砂・土・粘土に至るまで、方言・俚言、俗名も含めて、記述はいっしょくたである。
 本書には、那智黒石は書かれていないが、「ヨロイイシ」(鎧石)の記述がある。但し、現在の鑑賞石(水石の鎧石)に相当するのかどうかは、不明確である。
 ちなみに、「ヨロイイシ」の他、本書には伊勢市朝熊の「ブドウセキ」(蛇紋岩の古名)や、度会郡柏崎付近の「コウコクセキ」(光黒石~石の種類は不詳)、志摩の船越の「スイコウセキ」(垂虹石~石の種類は不詳)の他、イタイシやボンセキ、ヘゲイシ、アヲイシ、ヒウチイシなどの石材名を見るので、後日詳しく取り上げてみたい。


昭和45年4月発行の「三重県要覧」の中の「石の街滝原」の頁

「三重県愛石協会所属 大宮町名石連盟 石の街滝原」

上の写真に掲載の、当時の七華石の切羽(七華山採石場)のアップ

「三重県要覧」中の「大宮町展望」のコラムに掲載された地元産の名石


 そもそも、「伊勢古谷石」が世に出されたのは、昭和36年頃から始まった愛石ブームの時期からのようで、発祥は度会郡の旧大宮町から紀勢町の柏崎(現在の行政区画は大紀町)にかけての水石愛好家か、当時、当地の国道42号線沿いに何軒かあった水石や庭石を展示していた販売業者からだと思われる。当地方原産の「七華石」も、この頃に売り出された。
 翌年(昭和37年)には、全国各地に水石趣味者の同好会が次々と発足し、全国の愛石団体は32団体、約2,000人に及んだと言われている。
 昭和45年4月発行の「三重県要覧」(発行所は、三重県要覧編集総局)収録の大宮町(度会郡)の項目の中には、「大宮町展望」のコラムと供に「三重県愛石協会所属 大宮町名石連盟 石の街滝原」が、それぞれ写真入りで大きく掲載されていて、その中に「鎧石」「七華石」「伊勢古谷石」が紹介されている。
近年揚石した、藤川上流産の「伊勢古谷石」~ 左右幅約17cm


 伊勢市にもその当時、政・財界や経済界、民間会社役員等の著名人が多数名を連ねた「伊勢愛石会」(会長 辻井慶一 氏)が結成され、昭和42年3月に第1回「銘石展」(展示会)が、伊勢市中小企業センターにて開催されている。
 この時発行され、関係者に配布された立派なガイド冊子(出品水石の写真集)が残っており、巻末の70名程の会員名簿と供に掲載された、80点余の全国各地の著名な名石写真の中に、地元産出の「伊勢古谷石」も複数収録されている。
 なお、本冊子の巻頭言には、名誉会長・西島好夫氏が「石に学ぶ」と題して、次のように述べている。

「石の趣味は誰にでもすぐ出来るが、中々奥の深いもので、あらゆる道楽の最後のものだと云われているほどです。石ブームとは近年のことですが、昔から石に対する感覚はただの趣味としてではなく人間性を高めるために何物かを石に教えられるものがあることです。
 名石は、形、質、色の三条件と云われますがこれに加えて落ちついた品位がなければなりません。(後略)」

昭和42年3月に開催された、第1回「銘石展」(展示会)の写真冊子


 この伊勢古谷石の原岩は、当地方では伊勢市の高麗広(殆どが五十鈴川上流の伊勢神宮の宮域)付近から、横輪町~矢持町を経て、度会郡域(奥伊勢)に至る、中央構造線外帯の秩父累帯(主に古生層)の山岳地帯原産の風化した土中石である。
 最初に世に紹介された頃のものは、ソフトなチョコレート色~アズキ色をした茶褐色の色調であり、和歌山県原産の著名な「古谷石」にあやかり、酷似した遜色の無い形状の山水景石(芯出し石)や奇石・珍石を指していた。

 それらの原岩は、旧大宮町や紀勢町の柏崎、宮川上流の旧宮川村(現在の行政区画は多気郡大台町)等から産出する輝緑凝灰岩ないし暗赤色の泥質岩(泥岩・頁岩・粘板岩)等の風化岩であった。
 昭和40年4月に、三重県立博物館にて開催された「名石.岩石展」(後援 三重県愛石協会)時に発行されたカタログ冊子には、「宮川鎧石」や「七華石」等と供に、見事な「伊勢古谷石」の名石写真が幾つか掲載されている。

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 伊勢市では、古くからの名石・奇石の産地としては、朝熊山と高麗広(五十鈴川上流)で、江戸時代には宇治橋付近で人の足形をした「神足石」(しんそくせき・じんそくせき)が発見されており、昭和半ばの水石ブームになってからは、横輪町から矢持町にかけての平家谷一帯が加わった。
 朝熊山の石は、主に斑糲岩や蛇紋岩の巣立ち状の風化岩(昭和の石ブームの頃は、山上産の荒石は「雲上石」とも称していた)で、現在は「朝熊石」として県内外に知られている。
 五十鈴川上流の高麗広付近の名石は、そこに居住権を持つ地元民から持たらされた山水景石や奇石が多く、伊勢市内の愛石家らはこぞって蒐集し、伊勢赤石等と供に、白っぽい感じの古谷石によく似た風化岩を「神代石」(かみよいし・じんたいせき)と呼んでいた。

 この神代石は、形状は全く伊勢古谷石に同じであるが、原岩は色の抜けた輝緑凝灰岩や泥質石灰岩などのようである。
 伊勢神宮宮域山地(神路山~島路山)の山肌やガレ谷の風化帯に露出する土中石が、五十鈴川等の上流に崩落し、自然に芯出しが成された「川流れ石」(現地性の転石)が殆どだったと思われる。


 現在では世代が代わり、いわゆる伊勢古谷の解釈もかなり広義となった。伊勢市の島路山や神路山から奥伊勢地方にかけて分布する、古生層(秩父層群)由来の川石(転石)や山肌の土中石(風化岩)の内、あたかも和歌山県産の古谷石に見るような皴や穿ち、白色鉱物脈等の滝筋や条理に富む、山水景の際立った水石であれば、すべてが「伊勢古谷石」と呼称されている。
 その石質も色調も様々で、中には石灰岩やチャート、鎧石系や紫雲石質の風化した堆積岩、及び砂質岩(砂岩、硬砂岩)や凝灰岩質の雑じった混成堆積岩などもその範疇に含まれている。

 本来の伊勢古谷石(真正の伊勢古谷)は、主にチョコレート色の輝緑凝灰岩やアズキ色の泥質岩(泥岩、頁岩、粘板岩)の風化岩であるが、どのような堆積岩であっても、本家本元の「古谷石に酷似」という条件さえ満たしておれば、当地方では概ね「伊勢古谷石の部類」として鑑賞している人が少なく無い。
 そして、その色調も肌色~灰白色、アズキ色~赤紫色、えび茶色~黒褐色などさまざまである。

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