伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
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伊勢市の清流・五十鈴川の石 ~ 水石の紹介

2019年07月14日 | 石のはなし

高麗広産の見事な「赤鎧石の段石」~ 左右幅約21cm

 皇大神宮 (内宮) への宇治橋の架かる、伊勢市の清流・五十鈴川は、御裳濯川(みもすそがわ)とも称し、その源流を高麗広 (こうらいびろ) 奥の剣峠付近に持つ、総延長20km弱の一級河川です。
 途中で小谷からの流れや幾つか支流を合流しながら穿入蛇行し、宇治今在家町の神路山(皇大神宮の宮域)から神域境内の御手洗場、宇治橋を経て、宇治中之切町、宇治浦田町、中村町、楠部町、鹿海町、一色町などを通り、二見町今一色 (いまいしき・対岸は大湊町) で勢田川と合流し、伊勢湾へと流出している。

五十鈴川産のきれいな「石灰質准片岩の段石」~ 左右幅約12cm

 支流の内の最大河川は、逢坂峠付近に源流を持ち、朝熊山の南麓から内宮の神域境内へと流れる島路川で、その次が朝熊山北麓の朝熊川である。
 そして、二見町の汐合 (しわい) の少し川上で二つに分流し、運河のように護岸整備が成された分流「江川」(えのかわ)は、二見町町街地の背後を周って江海岸へと流出している。


浦田橋付近の「五十鈴川の川原」


 五十鈴川の上流は、すべてが伊勢神宮の宮域ではあるが、渓谷美に富む景勝地でもあり、各所に奇岩や名物岩、謂れ石などがあって、江戸時代から探訪する人々の往来も盛んであった。
 その上流奥の隠れ里でもあった高麗広には、今も10数件の民家が点在している。 この地域の人達は、その祖先が狭小な流域を開拓して田畑を作り、林業や狩猟をも営みながら生活し、爾来宮域ながら先住権が認められている。
 それ故、五十鈴川やその流域の木石(ぼくせき)を生活の道具として利用し、家屋の石垣や棚田などの野面積み(のずらづみ) には、多くの現地の転石が使用されている。


五十鈴川上流の渓流 ~ 高麗広・大滝谷付近


 又、高麗広からは、剣峠を越えて遥か南海の五ヶ所浦へと通じる山越え道が古くから街道としてあった。 内宮前から五十鈴川の左岸を分け入るこの道路(県道12号線)は、昭和の時代には、伊勢の町からボンネット・バスが狭小な山路を走り、険しい九十九折りの剣峠を超えて五ヶ所浦へと発着していた。
 

 この五十鈴川川上の渓流には、鰒石(あわびいし)や御舟石(みふねいし)、鏡石(かがみいし・かがみいわ)などがあって、特異な形状の奇形礫(転石)である「神足石」 (しんそくせき・じんそくせき) と共に、伊勢参宮名所図会をはじめ、神都名勝誌や伊勢参宮道中獨案内など、幾つかの古文書にも記載されている。 かつては、渓流の界隈に牛石や碁盤岩、高麗岩などもあったらしい。

五十鈴川産の「遠山形の赤肌石」~ 左右幅約21cm


 既述の高麗広は、戦前から当地方きっての銘石の産地として知られており、今も昔も宮域や宇治橋より川上の五十鈴川での採集や採石は、動植物と共に厳禁であるが、昭和30年代から40年代にかけての、いわゆる「昭和の石ブーム」の頃には、「伊勢赤石」や「赤鎧石」「神代石」 (かみよいし ~ 伊勢古谷石系の化け石の類) など、多くの名石が出回ったが、元は先住権のある高麗広の住民によって紹介されたものと思われ、かつて民家の軒先などには名石が幾つも並べられていた。

高麗広産の「伊勢古谷石系の滝石」~ 左右幅約22cm


 しかし、当時あまりにも多くの「五十鈴川石」が銘石として世に出ていた事を考えると、神宮司聴直属の営林署員の見回りの目をかすめて、愛石家らの揚石や持ち出しがあったものと思われてならない。
 我輩も当時、高麗広出身の元住民の方に譲って頂いた「赤鎧石の段石」(冒頭の掲載写真)など、幾つかのちょっとした名石を持っているが、その殆どが後年、宇治橋下流の川原を丹念に見回って、自ら揚石をしたものである。
 今回は、その中の数個を写真にて紹介する次第である。

五十鈴川産の「遠山形の朝熊石」~ 左右幅約22cm

五十鈴川産の「景観の佳い滝石」~ 左右幅約13cm


五十鈴川産の珪質岩の山水景石~左右幅約11cm


五十鈴川産の粗粒砂岩・礫岩の化け石~左右幅約9cm
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