往年の剛速球投手、沢村栄治の夭折の背景に台湾沖航空戦(1934年10月10~14日)がある【注】。
この闘いで、日本軍は航空母艦を轟沈・撃沈11隻、撃破8隻、戦艦を轟沈・撃沈2隻、巡洋艦を轟沈・撃沈3隻、その他の戦果をあげた。
この大戦果が、陸軍をしてレイテ決戦決断を後押しした。
ところが、まったくの虚報だったのだ。
大戦果を聞いて、国民はどう反応したか。
佐々淳行『戦時少年』(文春文庫、2003)には何も書かれてない。佐々少年は、神風特攻隊の噂を聞いても、無敵連合艦隊(じつは既に壊滅していた)をまだ信じていた。
集団疎開中の小林信彦は、もっと醒めていた。より正確にいえば、小林少年の集団疎開仲間、早坂少年は醒めていた。台湾沖とルソン島近くに米空母が19隻もいるはずがない・・・・。
堀栄三・少佐/大本営陸軍情報部も、同じ疑問を抱いた。
堀の専門は「米軍の戦術の研究」だった。彼は、台湾沖航空戦の直前、フィリピン行きを命じられ、そ途中、台湾沖航空戦と台風にあって、出発は延期された。
10月14日昼、堀は古い偵察機で鹿児島県の鹿屋基地に飛び、「戦果判定」に立会することになった。彼は、まず報告されてくる戦果が、未帰還の搭乗員があげたものが多いのに気づいた。正確な数字はなく、「根拠のない歓喜」だけがある。
堀は、新田原飛行場(宮崎県)に戻り、大本営あてに「直視した戦果」の緊急電を打った。海軍の戦果に疑いあり、という短い電文だ。夕暮れと夜間の戦闘が多く、未熟な搭乗員たちが戦果の判断を見誤ったが、「未帰還の搭乗員」への「思いやり」から上官たちはすべての報告を「戦果」にしていたのだ。
海軍上層部は、大戦果が幻であることを10月16日午前に知った。
ところが、同日昼前、昭和天皇は勅語を発表する考えを明らかにした(木戸幸一内大臣の日記)。
海軍上層部は追いつめられた。海軍は、戦果が怪しいことを陸軍に知らせなかった。
10月16日、フィリピンのクラーク飛行場に到着し、大きな衝撃を受けた。
もう大丈夫だ、と一人の参謀は言った。
「なんですか?」
問いかける堀に、相手は、
「知らんのか、昨日のラジオ放送を」
と怪しむような顔をした。台湾沖航空戦は大勝利で、敵空母を19隻撃沈撃破した、という。「朕深ク之ヲ嘉尚ス」
こうして、堀の貴重な情報は葬られた。電文は、陸軍電報綴りの中に残っていない。
この時、電報を「握り潰した」のは、瀬島龍三・中佐/大本営陸軍部作戦参謀だった。瀬島は堀に語った。「あの時、自分がきみの電文を握り潰した。戦後、ソ連から帰ったら、何よりも君に会いたいと思っていた」
握り潰したことが、「こちらの作戦を根本的に誤らせた」とも瀬島は明言した。
しかし、後に刊行された瀬島の回想録では、「台湾沖航空戦のころは自宅で静養していた」と書かれている。「握り潰し」は堀の思い違いではないか、と編集部は注している。
陸軍部と海軍部は対立していた。陸軍部の中でも、情報部(堀が属する)と作戦部(瀬島が属する)は反目していた。作戦部は情報部の報告を軽視し、捨てる傾向があった。
まして、勅語が出たのでは、堀の正論は通らない。
この戦果発表の誤りは、陸軍出身の小磯首相さえ、すぐには知らなかったふしがある。
他方、レイテ決戦に批判的な山下泰文・大将/第14方面軍司令官は、襲来する敵航空機が減らないことから、大戦果は誤報と察していた。しかも、堀が部下に配属された。
しかし、寺内寿一・大将/南方軍総司令官はレイテ決戦の命令を撤回しなかった。
その結果、制海権と制空権を喪失した日本軍は、レイテ島とその周辺海域で人員と物資をひたすら消耗していった。
【注】「【大岡昇平ノート】沢村栄治の悲劇 ~原発・プロ野球創成期・レイテ戦記~」
□小林信彦『東京少年』(新潮社、2005)
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この闘いで、日本軍は航空母艦を轟沈・撃沈11隻、撃破8隻、戦艦を轟沈・撃沈2隻、巡洋艦を轟沈・撃沈3隻、その他の戦果をあげた。
この大戦果が、陸軍をしてレイテ決戦決断を後押しした。
ところが、まったくの虚報だったのだ。
大戦果を聞いて、国民はどう反応したか。
佐々淳行『戦時少年』(文春文庫、2003)には何も書かれてない。佐々少年は、神風特攻隊の噂を聞いても、無敵連合艦隊(じつは既に壊滅していた)をまだ信じていた。
集団疎開中の小林信彦は、もっと醒めていた。より正確にいえば、小林少年の集団疎開仲間、早坂少年は醒めていた。台湾沖とルソン島近くに米空母が19隻もいるはずがない・・・・。
堀栄三・少佐/大本営陸軍情報部も、同じ疑問を抱いた。
堀の専門は「米軍の戦術の研究」だった。彼は、台湾沖航空戦の直前、フィリピン行きを命じられ、そ途中、台湾沖航空戦と台風にあって、出発は延期された。
10月14日昼、堀は古い偵察機で鹿児島県の鹿屋基地に飛び、「戦果判定」に立会することになった。彼は、まず報告されてくる戦果が、未帰還の搭乗員があげたものが多いのに気づいた。正確な数字はなく、「根拠のない歓喜」だけがある。
堀は、新田原飛行場(宮崎県)に戻り、大本営あてに「直視した戦果」の緊急電を打った。海軍の戦果に疑いあり、という短い電文だ。夕暮れと夜間の戦闘が多く、未熟な搭乗員たちが戦果の判断を見誤ったが、「未帰還の搭乗員」への「思いやり」から上官たちはすべての報告を「戦果」にしていたのだ。
海軍上層部は、大戦果が幻であることを10月16日午前に知った。
ところが、同日昼前、昭和天皇は勅語を発表する考えを明らかにした(木戸幸一内大臣の日記)。
海軍上層部は追いつめられた。海軍は、戦果が怪しいことを陸軍に知らせなかった。
10月16日、フィリピンのクラーク飛行場に到着し、大きな衝撃を受けた。
もう大丈夫だ、と一人の参謀は言った。
「なんですか?」
問いかける堀に、相手は、
「知らんのか、昨日のラジオ放送を」
と怪しむような顔をした。台湾沖航空戦は大勝利で、敵空母を19隻撃沈撃破した、という。「朕深ク之ヲ嘉尚ス」
こうして、堀の貴重な情報は葬られた。電文は、陸軍電報綴りの中に残っていない。
この時、電報を「握り潰した」のは、瀬島龍三・中佐/大本営陸軍部作戦参謀だった。瀬島は堀に語った。「あの時、自分がきみの電文を握り潰した。戦後、ソ連から帰ったら、何よりも君に会いたいと思っていた」
握り潰したことが、「こちらの作戦を根本的に誤らせた」とも瀬島は明言した。
しかし、後に刊行された瀬島の回想録では、「台湾沖航空戦のころは自宅で静養していた」と書かれている。「握り潰し」は堀の思い違いではないか、と編集部は注している。
陸軍部と海軍部は対立していた。陸軍部の中でも、情報部(堀が属する)と作戦部(瀬島が属する)は反目していた。作戦部は情報部の報告を軽視し、捨てる傾向があった。
まして、勅語が出たのでは、堀の正論は通らない。
この戦果発表の誤りは、陸軍出身の小磯首相さえ、すぐには知らなかったふしがある。
他方、レイテ決戦に批判的な山下泰文・大将/第14方面軍司令官は、襲来する敵航空機が減らないことから、大戦果は誤報と察していた。しかも、堀が部下に配属された。
しかし、寺内寿一・大将/南方軍総司令官はレイテ決戦の命令を撤回しなかった。
その結果、制海権と制空権を喪失した日本軍は、レイテ島とその周辺海域で人員と物資をひたすら消耗していった。
【注】「【大岡昇平ノート】沢村栄治の悲劇 ~原発・プロ野球創成期・レイテ戦記~」
□小林信彦『東京少年』(新潮社、2005)
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