小林信彦は、時代に敏感な作家である。敏感すぎるくらいに。それはほとんど時代と寝る、と言ってよいほどだ。時代のごく限定された一分野に過ぎないけれど。
小林信彦は、ひたすら自我を空しうし、軽い羽根のように時代の風に流されるが、流される一方ではなくて、意外としたたかに風にのって、吹きつける風すなわち時代を醒めた目で眺め、時には思い切った批評のメスをふるう。
そのメスさばきは、論理より直感に負うところが大きい。
感性の人が失われた過去をふりかえるとき、一種甘い感傷が加わる。この感傷が読者を惹きつける。
しかし、過去が失われなかったら、どうだろうか。実生活ではあり得ないことだが、批評家が小説家に転じ、小説家が小説の舞台を過去に設定するとき、過去を再現できる。再現された過去のなかで、作中人物は今を生きる。作中人物とともに、作者も再現された過去を今として生きることができる。
本書は、1990年代初頭から1959年にタイム・スリップした少年の物語である。
物語の冒頭で頓死した伯母も、1959年現在では少年を誘惑できるほど若くて美しい。
1959年現在における未来、つまり1959年から1990年代初頭までを知る少年は、未来(つまり1990年代初頭から見た過去)に係る知識を動員してTV業界の一角に食いこむ。何が大衆に受けるかを知っているから、いわば回答を事前に知った上で試験に臨むようなものだ。成功は約束されているのであった。
だが、成功は本書の主題ではない。少年にとって(それは作者にとって、とほぼ同じ意味にちがいないが)、肌あいがぴったり合う1959年前後を生きる、という大事業が主題なのだ。
1959年といえば、神武景気(1956~57年)が終わり、岩戸景気(1958~61年)の最中だった。高度成長期(1955~73年)である。1960年代は毎年10%を超える成長率を示した。ちなみに、国民年金法が制定されたのも1959年である。年金をめぐる今日の混乱は、当時はとうてい予想できなかったにちがいない。
小林信彦個人の1959年はどうだったか。
『ウィキペディア』によれば、前年に宝石社の顧問として採用され(月給の額は当時としても格安の5,000円)、1959年1月にミステリ雑誌「ヒッチコックマガジン」の編集長に抜擢された。「3号まで赤字ならクビ」が条件で、月給の額は当時の会社員の初任給より少ない10,000円にすぎなかった。「ヒッチコックマガジン」は赤字が続いたが、小林のクビはつながり、雑誌は13冊目でようやく黒字に転じる。この雑誌は、当時の若者のライフスタイルやその後輩出する雑誌に影響をあたえるほどの力をもつに至るのだが、雑誌刊行当時、小林は薄給を補うべく、雑誌の宣伝をかねてラジオやTVにたびたび出演した。これが人気を得て、小林はマルチタレントのはしりとしてマスコミにもてはやされた。同様な人気マルチタレントに青島幸男、永六輔、前田武彦がいた。
小林信彦、20台後半の、精力的で、うごけば成果が目にみえてあらわれた時期だった。
小説にもどろう。
好事魔多し。少年のタイム・スリップはタイム・パトロールの察知するところとなった。夢は醒めねばならぬ。醒めるべき時を少年は予告される。
しかし、意外な結果が待ち受けていた。・・・・この結末、過去を生きることができなくなった小説家の想像力は、感傷の色を帯びる。
読者もまた、作者の感傷に共鳴して感傷にふけっても、なんらさしつかえない、と思う。1960年代は、たしかに列島をあげて活力にあふれた時代だった。
□小林信彦『イエスタディ・ワンス・モア』(1989年、新潮社。後に新潮文庫、1994)
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小林信彦は、ひたすら自我を空しうし、軽い羽根のように時代の風に流されるが、流される一方ではなくて、意外としたたかに風にのって、吹きつける風すなわち時代を醒めた目で眺め、時には思い切った批評のメスをふるう。
そのメスさばきは、論理より直感に負うところが大きい。
感性の人が失われた過去をふりかえるとき、一種甘い感傷が加わる。この感傷が読者を惹きつける。
しかし、過去が失われなかったら、どうだろうか。実生活ではあり得ないことだが、批評家が小説家に転じ、小説家が小説の舞台を過去に設定するとき、過去を再現できる。再現された過去のなかで、作中人物は今を生きる。作中人物とともに、作者も再現された過去を今として生きることができる。
本書は、1990年代初頭から1959年にタイム・スリップした少年の物語である。
物語の冒頭で頓死した伯母も、1959年現在では少年を誘惑できるほど若くて美しい。
1959年現在における未来、つまり1959年から1990年代初頭までを知る少年は、未来(つまり1990年代初頭から見た過去)に係る知識を動員してTV業界の一角に食いこむ。何が大衆に受けるかを知っているから、いわば回答を事前に知った上で試験に臨むようなものだ。成功は約束されているのであった。
だが、成功は本書の主題ではない。少年にとって(それは作者にとって、とほぼ同じ意味にちがいないが)、肌あいがぴったり合う1959年前後を生きる、という大事業が主題なのだ。
1959年といえば、神武景気(1956~57年)が終わり、岩戸景気(1958~61年)の最中だった。高度成長期(1955~73年)である。1960年代は毎年10%を超える成長率を示した。ちなみに、国民年金法が制定されたのも1959年である。年金をめぐる今日の混乱は、当時はとうてい予想できなかったにちがいない。
小林信彦個人の1959年はどうだったか。
『ウィキペディア』によれば、前年に宝石社の顧問として採用され(月給の額は当時としても格安の5,000円)、1959年1月にミステリ雑誌「ヒッチコックマガジン」の編集長に抜擢された。「3号まで赤字ならクビ」が条件で、月給の額は当時の会社員の初任給より少ない10,000円にすぎなかった。「ヒッチコックマガジン」は赤字が続いたが、小林のクビはつながり、雑誌は13冊目でようやく黒字に転じる。この雑誌は、当時の若者のライフスタイルやその後輩出する雑誌に影響をあたえるほどの力をもつに至るのだが、雑誌刊行当時、小林は薄給を補うべく、雑誌の宣伝をかねてラジオやTVにたびたび出演した。これが人気を得て、小林はマルチタレントのはしりとしてマスコミにもてはやされた。同様な人気マルチタレントに青島幸男、永六輔、前田武彦がいた。
小林信彦、20台後半の、精力的で、うごけば成果が目にみえてあらわれた時期だった。
小説にもどろう。
好事魔多し。少年のタイム・スリップはタイム・パトロールの察知するところとなった。夢は醒めねばならぬ。醒めるべき時を少年は予告される。
しかし、意外な結果が待ち受けていた。・・・・この結末、過去を生きることができなくなった小説家の想像力は、感傷の色を帯びる。
読者もまた、作者の感傷に共鳴して感傷にふけっても、なんらさしつかえない、と思う。1960年代は、たしかに列島をあげて活力にあふれた時代だった。
□小林信彦『イエスタディ・ワンス・モア』(1989年、新潮社。後に新潮文庫、1994)
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