昨日は、お隣K組K寺さんの巡番報恩講にお参りさせていただきました。
写真↑ 見事な荘厳(しょうごん:仏前のお飾り)です。
40代のご講師は、如来の本願を身近なことに例え、わかりやすく、有難くご法話くださいました。
その一つをご紹介します。
「南無阿弥陀仏」は、母乳に例えられる。
覚りの境地に至りたい・「仏」(真理の覚者)に成りたいと、思いもしない(自我のかたまりの)私のために
如来のほうが、私をたすけたいと願いも行も全てをこめて・・・私を救う(覚りに導く)ために、「南無阿弥陀仏」と仕上がってくださった。
母乳を飲む赤ん坊は、母乳の成分を分析してタンパク質だのビタミンだの、知って飲んでいるわけではない。
親のほうが、仕上がった栄養(いのち)を与え、
赤ん坊は、ただ、いただくことで、育つ。
赤ん坊のほうに(栄養を作り出す)何の はたらき もない。
仏(さとりの覚者)になるために 私の はからい は、何一つない。
全て、「南無阿弥陀仏」をいただくばかりである。
写真↑ 見事な荘厳(しょうごん:仏前のお飾り)です。
40代のご講師は、如来の本願を身近なことに例え、わかりやすく、有難くご法話くださいました。
その一つをご紹介します。
「南無阿弥陀仏」は、母乳に例えられる。
覚りの境地に至りたい・「仏」(真理の覚者)に成りたいと、思いもしない(自我のかたまりの)私のために
如来のほうが、私をたすけたいと願いも行も全てをこめて・・・私を救う(覚りに導く)ために、「南無阿弥陀仏」と仕上がってくださった。
母乳を飲む赤ん坊は、母乳の成分を分析してタンパク質だのビタミンだの、知って飲んでいるわけではない。
親のほうが、仕上がった栄養(いのち)を与え、
赤ん坊は、ただ、いただくことで、育つ。
赤ん坊のほうに(栄養を作り出す)何の はたらき もない。
仏(さとりの覚者)になるために 私の はからい は、何一つない。
全て、「南無阿弥陀仏」をいただくばかりである。







