先月末3日間、佐賀教区の布教使さんによる「布教大会」が南水組の3ヶ寺を会所として開かれました。
「正信偈に聞く」と題して
1日6人の布教使さんが、正信偈(しょうしんげ:真宗で、日常勤行する、最も親しまれている聖教)を数句ずつ、その味わいをお取り次ぎくださいました。
(ご法話は、僧侶個人の見解や感想を発表するのでなく、仏さまの御こころを伝えるので、「お取り次ぎ」という表現をします)
私は残念ながら、初日しか、ご縁に遇うことができませんでしたが、
それでも6名の布教使さん、それぞれの味わい深いご法話をお聴聞することができ、仕合わせな1日でした。
あてにならないものを あてにし
まぼろしを まぼろしと気づかず
地獄行きの種まきをしている
それが私の姿
と、聞かせていただきました。
あ、それから、
亡くなる前のことを「生前」と表現しますよね。
例えば、遺族の挨拶で、「故人が、生前中は、皆さまに大変お世話になりました」とか。
「生まれる前」と書いて「生前」。亡くなったのに・・・生まれる前とは
それは、亡くなって往生:浄土に生まれ、完全な覚りを得て、仏と成る前。まだ煩悩多き人間として生きていた頃 のことなので、「生前」なのだとも、聞かせていただきました。
「正信偈に聞く」と題して
1日6人の布教使さんが、正信偈(しょうしんげ:真宗で、日常勤行する、最も親しまれている聖教)を数句ずつ、その味わいをお取り次ぎくださいました。
(ご法話は、僧侶個人の見解や感想を発表するのでなく、仏さまの御こころを伝えるので、「お取り次ぎ」という表現をします)
私は残念ながら、初日しか、ご縁に遇うことができませんでしたが、
それでも6名の布教使さん、それぞれの味わい深いご法話をお聴聞することができ、仕合わせな1日でした。
あてにならないものを あてにし
まぼろしを まぼろしと気づかず
地獄行きの種まきをしている
それが私の姿
と、聞かせていただきました。
あ、それから、
亡くなる前のことを「生前」と表現しますよね。
例えば、遺族の挨拶で、「故人が、生前中は、皆さまに大変お世話になりました」とか。
「生まれる前」と書いて「生前」。亡くなったのに・・・生まれる前とは

それは、亡くなって往生:浄土に生まれ、完全な覚りを得て、仏と成る前。まだ煩悩多き人間として生きていた頃 のことなので、「生前」なのだとも、聞かせていただきました。






