よくお寺でご法話を聞いておられる某さんが、悔やんでおられました。
「私が、よくお寺参りすることを
『死んだ後、極楽に往生するように、死後の幸福をお願い(祈願)するためにお寺に行っている』
と誤解している人がいるのですよ」
仏教に縁遠い方の中には、こういう誤解をしている方が、案外多いかもしれません。
ご法話とは、話す人(僧侶の場合が多いでしょうが)の私見、意見ではありません。
ご法話とは、道徳の勧めでもありません。
ご法話をする側は、如来(仏)のこころを「お取り次ぎ」します。
聞く側は、如来さまの本願を聞いて、謙虚に、ご恩に手を合わせます。
某さんが、よくお寺参りされるのは、ご法話を楽しみ、如来さまにこころを合わせることをよろこびとされているからです。
決して、自分の死後の幸せを祈願しにお寺参りをしているわけでは、ありません。
「私が、よくお寺参りすることを
『死んだ後、極楽に往生するように、死後の幸福をお願い(祈願)するためにお寺に行っている』
と誤解している人がいるのですよ」
仏教に縁遠い方の中には、こういう誤解をしている方が、案外多いかもしれません。
ご法話とは、話す人(僧侶の場合が多いでしょうが)の私見、意見ではありません。
ご法話とは、道徳の勧めでもありません。
ご法話をする側は、如来(仏)のこころを「お取り次ぎ」します。
聞く側は、如来さまの本願を聞いて、謙虚に、ご恩に手を合わせます。
某さんが、よくお寺参りされるのは、ご法話を楽しみ、如来さまにこころを合わせることをよろこびとされているからです。
決して、自分の死後の幸せを祈願しにお寺参りをしているわけでは、ありません。