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お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

自覚する

2009年12月12日 | 仏教
 ある方が、こう言われた。

「そもそも、悟ってもいない僧侶が、なぜ悟りを説けるのでしょう

 そうですね。私ごときが、仏さまって、どういう方なのか、ご紹介したことで、かえって混乱を招いてしまいました。

 私は、「悟り」を論じているつもりは、毛頭ありませんでしたが、結果、そう誤解をあたえたのでしたら、お詫び申し上げます。

 浄土真宗のお坊さん方は、「あなた達、悟りなさい」と、上から目線で説いているのではありません。

「悟り」とは、各人のいかなる思想も感情も一切まじえない
 「無我」なんですから、

 いつも、自分の思想、感情に 心を支配されている人間(もちろん、私のこと)が、自分の力(自分の考え方のまま)で 悟れるわけない ってことを、
 しっかり、自覚する

 
 また、私は、目に見えるものしか、気づかず、
私は私の力で、生きている と、
傲慢な考えになりがちですが、
どれだけ、目に見えない 多くの はたらき にささえられて、生きているか

 その目に見えない「おかげさま」の中で、
私は、生かされて、生きている と、自覚する

 ピッカピカの仏さまの前に 私を恥じる

 自分の愚かさを「自覚」させられる 

 その仏さまに気づかされた自分の心(阿弥陀さまに感謝の心)味わいをお話させていただいているつもりです。(エラソウに聞こえているのでしたら、私の未熟ゆえのことです。お許しください

 それにしても世間の方々、特に都会にお住まいの方ほど、「僧侶」には、「悪代官」のようなイメージをお持ちの方が多いですね。

 これは、やはり、お坊さん側の責任が大きいと思いますが、

どうでしょう? その「悪代官」さんと、じっくり、話をしてみられたら?

 かく言う私自身が一番「悪代官」なのかもしれませんね。

「エラソウなことばかり、言いよって、おぬしも悪よのう、うひゃっひゃ」と。

 「悪」の自覚が足りないのは、私自身でした。

 
コメント (10)
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