病気で苦しむ最愛の家族、恋人、幼くして死に逝く我が子、代わってあげたい と思っても、その身に代わることはできません。
また、身近な人に対する、ちょっとした親切についても
こちらは、親切にしたつもりが、相手にとっては、迷惑かもしれない。
あるいは、親切心のつもりが、誤解され、逆恨みされるという不条理なことすら起きることもあります。
じゃあ、困っている人に対して、何もしないのか
いやいや、そうではなくて
親鸞聖人の仰る「浄土の慈悲」とは
悲しみ、苦しんでおられる方々に対して、どんなにかわいそうだ、気の毒だ、助けてあげたい、と思っても、全ての人をその苦しみから救ってあげることなど、凡夫の私には、到底できない
という自覚です。
その自覚をもった上で、今、私にできることは、
悲しんでおられる方、苦しんでおられる方の思いに「寄り添う」
こと。
何も成し得ない私だけれど、せめて、何かお役に立って、できることがあれば、させていただこう
決して、お礼を期待したり、
「う~ん、私って、親切な やさしい いい人
」という自己満足や、
思い上がりの 「してあげる」でなく、
「させていただく」
浄土の慈悲といふは、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
本物の「慈悲」の完遂は、自らが仏と成ってからこと。
「いそぎ仏と成りて」は、仏と成るために、「早く死ね」という意味では決してありませんよ
まずは、阿弥陀さま心(本願)を私の心にキャッチして、仏に到る道を歩ませていただくこと。
それが、慈悲を完遂できる早道なのだと 親鸞聖人が仰っているのではないでしょうか
また、身近な人に対する、ちょっとした親切についても
こちらは、親切にしたつもりが、相手にとっては、迷惑かもしれない。

あるいは、親切心のつもりが、誤解され、逆恨みされるという不条理なことすら起きることもあります。

じゃあ、困っている人に対して、何もしないのか

いやいや、そうではなくて
親鸞聖人の仰る「浄土の慈悲」とは
悲しみ、苦しんでおられる方々に対して、どんなにかわいそうだ、気の毒だ、助けてあげたい、と思っても、全ての人をその苦しみから救ってあげることなど、凡夫の私には、到底できない

その自覚をもった上で、今、私にできることは、
悲しんでおられる方、苦しんでおられる方の思いに「寄り添う」

何も成し得ない私だけれど、せめて、何かお役に立って、できることがあれば、させていただこう

決して、お礼を期待したり、
「う~ん、私って、親切な やさしい いい人

思い上がりの 「してあげる」でなく、




本物の「慈悲」の完遂は、自らが仏と成ってからこと。
「いそぎ仏と成りて」は、仏と成るために、「早く死ね」という意味では決してありませんよ

まずは、阿弥陀さま心(本願)を私の心にキャッチして、仏に到る道を歩ませていただくこと。

それが、慈悲を完遂できる早道なのだと 親鸞聖人が仰っているのではないでしょうか
