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お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

慈悲 その5

2009年05月25日 | 仏教
 病気で苦しむ最愛の家族、恋人、幼くして死に逝く我が子、代わってあげたい と思っても、その身に代わることはできません。
 
 また、身近な人に対する、ちょっとした親切についても
 こちらは、親切にしたつもりが、相手にとっては、迷惑かもしれない。
 あるいは、親切心のつもりが、誤解され、逆恨みされるという不条理なことすら起きることもあります。

 じゃあ、困っている人に対して、何もしないのか  

 いやいや、そうではなくて
 親鸞聖人の仰る「浄土の慈悲」とは

 悲しみ、苦しんでおられる方々に対して、どんなにかわいそうだ、気の毒だ、助けてあげたい、と思っても、全ての人をその苦しみから救ってあげることなど、凡夫の私には、到底できない という自覚です。

 その自覚をもった上で、今、私にできることは、
 
 悲しんでおられる方、苦しんでおられる方の思いに「寄り添う」こと。
 何も成し得ない私だけれど、せめて、何かお役に立って、できることがあれば、させていただこう

 決して、お礼を期待したり、
「う~ん、私って、親切な やさしい いい人」という自己満足や、
 思い上がりの 「してあげる」でなく、 
 
「させていただく」

 
 浄土の慈悲といふは、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。

 本物の「慈悲」の完遂は、自らが仏と成ってからこと。
「いそぎ仏と成りて」は、仏と成るために、「早く死ね」という意味では決してありませんよ
 まずは、阿弥陀さま心(本願)を私の心にキャッチして、仏に到る道を歩ませていただくこと。
 それが、慈悲を完遂できる早道なのだと 親鸞聖人が仰っているのではないでしょうか
 
 
 

 
コメント (6)
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