お寺のオバサンのひとりごと

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2007年09月12日 | 仏教
 昨日のビハーラ基本学習会での天岸浄圓先生のご法話。
 
 天岸先生って、浄土真宗では、大変有名な先生なので、堅くて真面目で、難しいお話をされるのかと思いこんでいたのですが・・・

 実に面白く、わかりやすく、お話くださって、大変、感動 有り難く拝聴いたしました。
 普通、さりげなく腕時計に目を落とすご法話が多い中、昨日はアッという間のご法座のご縁でした。

 というわけで、私では、うまくお伝えできないでしょうが、昨日のお話を皆様にご紹介です。

 まず、一般的に「よい人がお浄土に救われる」と言うのは分かりやすいが、「悪い人が救われる」と、言うことは納得できない。

 親鸞聖人の師匠、法然上人は、「よき人にも悪しき(人)にも同じように、生死出ずべき道(迷いを離れる道)」をただ ひとすじに 仰せになった。

 私たちは、悪いことをしないことを自分の手柄にしたがるが、さまざまなよいご縁に恵まれているからこそ、悪いことをせずに生きているのであって、よい縁を重ねられるのは恵まれているということ。

 悪い縁によっては、善を成し得ない人もいる。世間的な善悪を問わず、皆共々に、「同じように」救われることが、仏さまの願い(本願)。

 病人が医者にかかる時、そのままの病状で医者に行くのと同様に、私たちは、仏さまの前に、煩悩丸抱えの病状のまま、向かう。

 仏さまに相対して、仏さまが、私たちに何を願われているのか、真理とは何なのかに気づかせていただく、
 
 つまり、仏さまから私たちに薬を処方してもらい、体質改善の指導を受けたなら、主治医(仏さま)の指示に従って生活しようとする。

 「凡夫だから、何もしなくていい。そのまま何も変わらなくていい」と開き直ることは、仏さまの指示に従ってない、仏さまを嘆かせることであって、

 凡夫は、凡夫なりに、仏さまの願いにそって、よりよく生きようと努力する。
 これは、真宗で否定的に言われる「自力」では、決してなくて、仏さまからの「ご催促」である。

 そして、努力の至らぬ点を慚愧に思う。

 一般に「救い」というと、自分の意のままになること というような誤解があるが、それは、単なるワガママ。

 本当の「救い」とは、仏さまの正しい処方によって、現実に生きてゆく、その生き方、心の在り方こそが、「救い」である。 

 そういう主旨のことを伺いました。
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