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「医療構想・千葉」主催のシンポジウムに参加して、約30分間児童虐待防止法制定当時の話をした。「医療構想・千葉」は、医療関係者が中心となって、行政や、政治など幅広い人たちを集めて活動を始めたグループで、今日の報告は「難病の子どもたちの医療支援」「子どもの在宅介護と地域の連携」など「子どもと医療」に関わる事柄が多かった。花見日和にもかかわらず、会場は250人を超える熱心な聴衆で埋まった。

 私の初選挙は、1996年秋。ポスターやチラシのコピーは、「子ども大好き、だから守りたい」だった。総選挙の直前まで、「いじめに悩む子どもを地域でどう受け止めるか」をテーマとして、世田谷区で地域活動のさなかにいた。演説も、チラシも「子ども」のことだけで、選挙関係者からは「他のことも主張した方がいいのではないか」と注意されたが意に介さなかった。「子ども」に始まり、「子ども」に終わる選挙運動だった。子どもからの反応は抜群によくて、宣伝カーが通ると子どもたちが、駆け寄ってきた。

 社民党の東京ブロック比例1位だった私は、小選挙区の選挙は事前運動ゼロで挑戦。当選後は、ライフワークの「子ども問題」に取り組む予定だった。ところが、衆議院議員が15人でこの中に元総理(村山富市さん)、元衆議院議長・党首(土井たか子さん)、幹事長(伊藤茂さん)がいるという布陣で、おまけに自社さ(自民・社民・さきがけ連立政権)の政権与党だったこともあって、目がまわるような忙しさになった。

「子ども」に専念どころか、「社会保障」「医療」「年金」「介護」や「安全保障」「公共事業」などマルチの「質問要員」としてフル回転する日常になった。後に「質問王」(朝日新聞)となったのは、少数政党ゆえに打席がまわってきやすいという国会の仕組みもあってのことだった。(3期11年で546回)「子ども」のことだけを選挙で訴えて、念願の文教委員会(その後に文部科学委員会と改名)に立って、当時の小杉隆文部大臣に対して行なった初質問は「イギリスで定着している『チャイルドライン』を日本でつくれないのか」という問題提起だった。 

 自民党の議員も含めて、各党の議員たちが『チャイルドライン』に興味を持った。そこで、97年の夏の文教委員会海外視察の日程に『チャイルドライン』を入れようという提案があり、与野党の議員でイギリスの現場を見て感心した。日本に戻って、私の提案で当時の文部省生涯学習局が招聘する形で『チャイルドライン』の代表者を招いて、講演会を開くことに成功した。(97年)そして、この時にチャイルドライン支援議員連盟(現在は、チャイルドライン設立推進議員連盟)が生まれたのである。そして、議員連盟に遅れて数年後に、民間団体としてチャイルドライン支援センターが出来たのである。

 この次に取り組んだのが、児童虐待防止法だった。1999年に衆議院に青少年問題特別委員会が設置された。公明党を委員長とし、当時は「立法をしない調査会」的な位置づけでスタートした。私は、発足当時から委員だったが、議論するテーマが「青少年薬物問題」「少年犯罪・非行」とネガティブなものが続いていて、青少年にとって深刻な「児童虐待」などを扱うべきではないかと提案した。そして、委員会が開かれて児童養護施設から参考人を呼んで、意見を聞いた。すでに亡くなった愛知県の祖父江さんという人が児童虐待の深刻な状況が放置されている現状をさして、「政治の怠慢」「国会の不作為」であると厳しく指弾した。

 私は「児童虐待防止法」こそ、戦後政治の中で市民の声、現場の声、そして子どもたちの声が政治を動かした珍しい例だと考えている。当時の厚生省は立法の必要に正面から反対していた。「現状で対応しており、問題点があったとしても運用の改善で十分」だというものだ。自民党も、部会で、ほぼこれに同調していた。私は情報収集を続けて、自民党の厚生族で発言力を持っている議員と交渉し、すべての情報を提示して新規立法の必要性を説いた。

 前の衆議院選挙から3年、じわじわと解散風が吹いてきたこともあって、各党とも「独自案」を練り上げて「政策競争」が起きた。児童虐待防止法の制定を求める学者や弁護士、民間団体も積極的なロビー活動を行なった。しかし、厚生省と自民党の部会の壁は、思ったより高かった。社民党は、1998年に連立政権を離脱していて野党だったが、自民党、自由党、公明党、民主党、共産党ともに政策調整のチャンネルを持っていたのは私だった。

 ある日、自民党のキーマンを訪ねた。彼は「児童虐待」を法律で禁止することで「伝統的な家制度の崩壊」が起きるのではないかと懸念していた。何回も、彼の事務所を訪ねた。最後は、「だまされたと思って私を信用して下さい。絶対、これはいい仕事だったと評価されますよ」と説得した。「そこまで言うならわかった」と自分の意見を変えてくれた。そして、自民党の賛成を取り付けたことで児童虐待防止法は2000年の5月に成立した。まもなく、小渕総理急死後、森総理の下で「解散・総選挙」が行なわれた。

 何とか再選をクリアした私は、国会の廊下でこのキーマンと再会した。満面の笑みで握手を求められた。「いやあ、保坂君の言う通りだったね。選挙の時に、児童虐待防止法の話をしたら有権者の反応が熱かった。自分が得意分野だと思ってきた経済政策の話より反響があって、『先生、もっと頑張ってくれ』と言われたんだ。ありがとう」とのことだった。
政治家と有権者の関係を取り持つ「公共事業」が先細り、これまでの政治が手をつけてこなかった「児童虐待」という地味ではあるが大切な分野に取り組んだという国政報告に強い反応が現れに時代になったのだ。こうなると「逆風」は完全に吹き飛んだ。「児童虐待防止法」の逐条解説本の出版記念会では、「新しい自民党のリーダーとしてこの法律を牽引した」とキーマンは野中広務氏から絶賛されていた。

児童虐待防止法は緊急即席立法の宿命でたくさんの欠陥を抱えていた。付則に「3年後の見直し」を書き込んだことで、超党派でこの法律を見直す作業を私が事務局長になって呼びかけることが出来た。
時は2003年、衆議院・参議院の約40人の与野党議員が参加して、厚生労働省、法務省、文科省、警察庁、最高裁など関係省庁・機関が参加して条文ごとの見直し勉強会を開催した。そして、2003年の衆議院解散の直前に「改正案覚書」を作成し、各党の責任者に署名してもらった。

 これが、政治主導という立法のかたちだ。「議員立法禁止」や「議員連盟の制限」とは対極にある与野党を超える議員参加の立法府の権能を発揮するシステムを構築したと自負している。立法当時に反対していた厚生労働省も変わった。児童虐待対策室の室長は、優秀かつ情熱もある官僚が担うようになり、超党派勉強会でもバリバリと仕事をした。私が活用したのは、国会図書館や衆議院・参議院の調査室だった。国会議員を支える知恵袋である彼らをうまく使って、「官僚主導」「自民党族議員」での裏舞台で決着する霞が関ルールを壊すことが出来た。

「政権交代」は昨年夏の総選挙で起きたが、「市民や現場の要求」が立法府を突き動かし、省庁の抵抗を超えて「政治合意」をつくりだしていく「新しい政治の質」は、90年代後半から芽を出し始めていた。「政権交代」の扉があいて、一時的に「政治主導」と言いつつ「政務三役」がすべてを背負い込む形(しかし、現実には無理なので官僚の手で実務は動いていく)がとられている。この半年間は、ボトムアップ型の議員立法は難しい状況だったが、長くはこうした無理は続かない。こんな思いをこめて、「医療構想・千葉」での問題提起をした。





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