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 約3カ月ぶりに東北の被災地に向かっている。世田谷区では、7月3日から南三陸町に20人単位で11泊12日、6回に分けて被災地支援の職員派遣をしている。今回は、炎天下の被災地で汗を流している職員を励ますと共に、地震・津波から3カ月が経過した現地の様子を見てくるのが目的だ。明日は、石巻のボランティア活動の現場も訪ね、南三陸町長にもお会いする予定だ。南三陸町では、多くの家屋が津波で流された。今回、世田谷区で引き受けているのは、津波被害をまぬがれた家屋約6000戸の形状を実測し、図面化していくという仕事だ。南三陸町では被災前に全家屋の調査が終わっていたが、電子情報として入力する前に津波に流されてしまったのだという。被災地、南三陸町の抱える多くの仕事の中から、独立して世田谷区職員だけ実行出来るユニットを切り出して支援を始めている。

 私は宮城県仙台市に生まれた。今回の東日本大震災の被害が大きかった沿岸部ではなく、仙台の街中(昔は日本杉通、現在は上杉)の生まれだ。東北大学付属幼稚園に通っていたが、5歳の時に父の転勤で上京し、それ以来は東京で暮らしている。ただ、親戚のほとんどは仙台にいて、年に1度は墓参りに必ずに行っている。今回も、世田谷区長選挙の直前まで、宮城県の学校や「子どもたちの現場」を見てまわろうという計画を立てていたところだった。4月30日、区長就任3日目で南相馬市と飯館村に出向いたが、震災後の宮城県に入るのははじめてだ。未経験の自治体トップとなり、目の前の仕事に振り回されて、なかなか世田谷区を離れることが出来なかった。

 世田谷区では「東日本大震災復興支援金」に6月1日から取り組んでいる。緊急支援の義援金1億2352万6717円を被災各県に届けてから、今度は復旧・復興に向けて市町村単位で「息長い目に見える支援」を具体化していこうという趣旨だ。すでに、1280万7635円(7月14日現在)の支援金が寄せられている。各町会や商店街のお祭り会場等で「募金箱」を置いて協力を呼びかけてもらっている。区役所に匿名で多額の寄付をもってこられる方もいて、その志を生かす支援を行いたいと考えている。また、世田谷ボランティアセンターでは、被災地支援を本格化するために7月22日から陸前高田に向けて「ボランティアバス」を運行する計画。阪神大震災に比べて、ボランティアの数が少なく、被災地は広大だという報告を聞いていると、この今だからこそ出来ることがあると思う。

 また、今回の大震災・原発事故で被災した人たちを貸家・貸マンションを市場価格より低廉な家賃で提供する「居ながらボランティア」も募っている。区内の不動産物件を「応急仮設住宅」と見なして、災害救助法の枠組みで被災者の人たちを受け入れようというものだ。現地に行き汗を流すことが難しくても、これならやってもいいという人を求めている。(詳しくは→『世田谷版「応急仮設住宅」への挑戦』)

 個人的な思いを書いてみようと思ったが、インフォメーションが多くなってしまった。次は今日、明日の被災地での報告を綴ることにする。

 

 

 



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