その26「暴雪圏」はこちら。
「晴子情歌」「新リア王」の“情念”の凄さにおそれをなして遠ざかっていた高村作品。久しぶりの合田雄一郎刑事(「マークスの山」「レディ・ジョーカー」)ものとくれば読まないわけにはいかない……でえぇやっぱり凄かった。
彼女の作品は、自身が言うようにすでにミステリではない。でもそれ以上にもう小説ですらないのではないか。9.11(合田の別れた妻があのテロで亡くなった設定になっている)とオウムを作品に取り込むために、徹底した神学論争がくり広げられる。合田の捜査がいかに有効ではあるけれども迂遠であるかをあらわすために、皮相な供述は皮相なままで、狂気の叙述は狂気のままで語られ、読者はそれにつきあうことになる。
二つの殺人事件を捜査するために、哲学問答に自ら飛びこむ合田のような刑事はおよそ存在しないはずであり、例によって彼は検事から壮絶な皮肉をこめて退職を勧められたりもする。
片側に、いかにも現代的な切り口で事件を総括する相棒を置き(この二人はみごとなホームズとワトソンになっている……合田がワトソン役になることもしばしばだが)、事件の様相をまとめるサービスはあるものの、やはりこの作品は読み物としてかなり苦しい。捜査の過程で元オウム信者をさがすために、“住所の記載のない弔電”をチェックするなど、ミステリ的手法が横溢しているとしても。
ただ、ここに描かれるオウムへのカウンターとしての曹洞宗の姿には、檀徒として考えこまされたりもする。大仰で、新興宗教のあり方に動揺してしまう禅。道元のふたつの考え方の間で揺れ続ける宗教者たち……。事件の本質に深くからんでいるために、あるいは髙村の目的が宗教そのものを描くことだったために、ここまでやらなければならなかったという理屈はわからないではない。途中でやめることができないほど熱中して読んだことは確かなのだし。しかしなあ。
わたしが懸念するのは、文庫化される際には、髙村は例によってこれよりもっともっと描きこんで重い作品にしてしまうのではないかということだ。そりゃーかんべんして。
次回はその28「疑心 -隠蔽捜査3-」
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