第5章「太平洋の嵐」はこちら。
わたしはキリスト者ではないし、イエス・キリストの受難(パッション)がどのような意味合いをもっているのか今ひとつ理解していない。それどころか彼の生涯のアウトラインにしても、例によって単語でしか知らないのだ。マグダラのマリアって、具体的にどんな女性だったかあなた知ってます?
メル・ギブソンが私財を投じ、登場人物にすべて古語を話させ、反ユダヤ主義を増長させかねないと論議を呼んだキリスト最後の12時間を描く映画。こいつはキリスト教の知識がなければ理解不能だろうと、事前に「キング・オブ・キングス」「クォ・ヴァディス」、そしてイタリアのテレビ映画でピーター・オトゥールがアウグストゥスを演じた「ローマン・エンパイア」なんて珍品まで観て予習。この根性が実生活にもあれば。
キリストの生涯の頂点は、おそらく山上の垂訓の場面だろう。不謹慎な言い方になるが、“奇跡を起こすと評判の男の説教に、いつのまにか多くの人間が集まってしまう”経緯は、まるで野外ロック・フェスみたい(だから「ジーザス・クライスト・スーパースター」も観ておきたかったのに酒田のビデオ屋には無し)。当時としては超・新興宗教の教祖だったキリストの存在が、ユダヤ教やローマ帝国にとってどれほどの脅威だったかまではよくわからない。でも、ひとつだけ納得できたのは、キリスト教は他の宗教と同じように「弟子によって彩られた物語」であることだ。彼につきしたがう無学な男たちの布教によってイエスの教えは一大メジャー宗教と化すが、これらは弟子の言葉というフィルターを通して行われたことに勘どころがあるように思えた。いかようにも解釈ができ、そしていかようにも思い入れを許せるようにと。キリストの真実の姿を描く、とされる映画が、常に批判と中傷にまみれるのはそのせいもあるだろうか。
わたしは最後までキリストのことはわからなかったが、ユダについては少し感じとれた。「パッション」では世評どおり金にころんだように描かれているが、実際には「キング・オブ・キングス」にあるように、ひいきの引き倒し(「主よ、奇跡を起こしてください!」)がこの悲劇を呼び起こした……こう考えた方が事実に近いのではないだろうか。カリスマにとって、最大の敵は信奉者だという教訓。史劇は、やはりお勉強になる。
次章は韓流篇です。
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