陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

望遠鏡的博愛 その2.

2007-12-20 22:38:13 | 翻訳
「ロック・スターの重荷」その2.


2000年、マラウィ教育相は教育予算から数百万ドルを着服した罪状で告発された。同様にザンビアでも大統領が国庫横領事件で告発を受けており、またナイジェリアでは石油資源の浪費に余念がない。そこでいったいどうなったか? ものごとを単純化したがる連中が、アフリカの問題を解決するためには、引き続き債務免除と援助の増額が必要であると訴えたのである。ゲイツ財団(the Bill and Melinda Gates Foundation)の不毛なパーティに出席した私は、近隣諸国が窃盗強迫にかられたようなふるまいをしているのに対して、ボツワナでは責任ある政策が採られ、成果を上げていることを指摘した。こうした横領が起こるのも、援助資金供与者が問題のある統治や不正選挙、さらにこれらの国々が直面する根の深い問題に目をつぶっているからなのだ。

ゲイツ氏は自分の莫大な資産という重荷から逃れたいと正直に語った。そうして信頼されるアドバイザーのひとりがボノである。ゲイツ氏はコンピューターをアフリカに送りたいという――正気の沙汰ではないとまでは言わないが、非生産的な思いつきだ。私なら鉛筆と紙、モップとほうきを送りたい。私が見てきたマラウィの学校では、そうしたものが実際に必要なのである。派遣教師の増員もしない。マラウィの人々には自らの意志で祖国にとどまり教師となってほしい。公的資金で医学や教育の訓練を受けたアフリカ人に対しては、国民としての紐帯や崇高な目的といったことを通して祖国で働くよう、説得すべきなのである。

私がいた当時のマラウィは、三百万人の人々が暮らす緑豊かな国だった。それがいまでは河に浸食され、木々は伐採された国土に千二百万人が住む。堆積物は河をせき止め、毎年洪水が一帯を壊滅させる。かつて土砂を防いだ木々は、燃料や自給用作物の栽培のために伐採された。マラウィには建国以降の四十年間に二人の大統領があらわれた。初代は自ら救世主と称した誇大妄想狂、二代目は詐欺師で、彼が最初になした公務は、自分の顔を紙幣に印刷することだった。そうして昨年(※2004年)新しい大統領、ビング・ワ・ムサリカが就任したが、政権誕生早々マイバッハ、世界で最も高額の車を購入するつもりであることを宣言したのである。

四十年前、私が教えていた学校の多くは、現在では荒廃している――落書きで覆いつくされ、窓ガラスは割れ、雑草が伸び放題だ。貨幣ではこの状態をどうにもすることはできないだろう。私の友人のひとりでもあるマラウィ高官は、私の子供たちに、ここに教えに来てほしい、とにこやかに訴えた。「お子さん方にとっても良い経験になりますよ」と。

もちろん、息子たちにとっていい経験となるだろう。アフリカで教えたことは、わたしがこれまでにやってきたことのなかでもっともすばらしいことのひとつだ。だが、私たちが見せた手本は、何の役にも立たなかったらしい。友人のマラウィ人の子供たちは、もちろんアメリカやイギリスで働いている。外国人が何十年もやっていることを、アフリカ人が自発的にやるよう働きかける人など、どこにも見あたらない。教育を受け、能力のあるアフリカ人の青年たちは大勢いるし、彼らは平和部隊のボランティアよりも、はるかに大きな成果をあげられるだろうに。


(残りは明日。この部分のタイトルの訳を「ロック・スターの重荷」に変えました。もちろんロック・スターがみずから重荷を買ってでているということもあるんですが、彼が逆に重荷でもあるということも含意されているように思うので。)

望遠鏡的博愛 その1.

2007-12-19 22:32:30 | 翻訳
わたしはポール・セローという作家が昔から好きで、いろいろ書いたものを読んできたのだが、その彼が二年前、ニューヨーク・タイムズに寄稿した文章を見つけた。
それを訳しながら、海外援助ということについて考えてみたい。

原文はhttp://www.nytimes.com/2005/12/15/opinion/15theroux.html#
で読むことができます。


ロック・スターの重荷(The Rock Star's Burden)

by ポール・セロー


世の中にはもっと不愉快な話だってあるのだろうが、私にとっては、カウボーイ・ハットをかぶったアイルランド人の金持ちロック・スターがアフリカ情勢について能書きを垂れること以上に気分の悪いものはない。クリスマスということでお涙頂戴の話にはもってこいだ、さしずめ私がスクルージなら、ポール・ヒューソン――彼は自分のことは“ボノ”と称しているらしいが――の、同じくディケンズの小説における役どころは『荒涼館』におけるミセス・ジェリビーだろう。入植地「ニジェール川左岸」のボリオブーラ=ガー村のことをのべつまくなしに言い立てるジェリビー夫人は、コーヒー栽培のために出資し、「ピアノの脚に変え、輸出貿易を確立する」(※注)計画を立案し、その一方で、人々に金を出させて、なんとかアフリカを救おうとしているのだ。

アフリカの運命は、どうやらステージでの無駄話の種、おおっぴらな意思表示の手段になってしまったらしい。だが、アフリカは致命的な状態で、外部からの援助――有名人のそれやチャリティ・コンサートは言うまでもなく――しかアフリカを救えない、というイメージは、事実を歪曲しているし、思い上がりを招きかねないものでもある。四十年以上前のことだが、私たちは平和部隊の教師として、マラウィの農村部に赴いた。同地を再訪したり、ニュースに接するたび、マラウィが近年、干ばつに見舞われるなど、非常に不幸な状態に置かれていることに胸を痛めている。だがなによりも信じがたい思いに襲われるのが、その解決案とされるものだ。

何も私は人道的支援や災害救助、エイズに関する啓蒙活動や安価な薬の供給を指しているのではない。あるいは、「マラウィ子供村」のような、小規模ではあるがしっかりした監視活動にも異論はない。私が言いたいのは「もっと金を」主義、アフリカに必要なのは、いま以上の名声を利用したプロジェクトや、ボランティアによる労働、債務免除である、という考え方についてなのだ。そろそろ私たちももっと分別を持ってもいいころだ。献金に対して一ドル残らずの会計報告が出されないかぎり、私は自分の個人資産を募金や政府援助に当てるつもりはない――実際には報告など出されたためしがないのだが。これまで通りの方法を続けて、これ以上多量の金をドブに捨てることは単に無駄だというだけではなく、有害でもあるのだ。さらには、いくつかの明らかな点を無視している。

私がマラウィで働いていた60年代初頭より、教育状態が低下し、疫病が蔓延し、公共サーヴィスが悪化しているのが事実なら、その原因は外部からの援助や献金が不足しているためではない。マラウィは長年に渡って、何千人もの外国人教師や医師や看護師、巨額の経済支援を受け入れてきた。にもかかわらず、将来の展望のある国から破綻国家に転落したのである。

六十年代半ば、私たちは近い将来、マラウィ国内で教師の需要は満たすことができると考えていた。事実、そうなるはずだったのである。ところが現地で教師を育成するための小規模のボランティアを派遣するかわりに、何十年にも渡って、平和部隊の教師たちが派遣され続けた。その結果、マラウィ人たちは、低賃金で社会的地位も低い教師を避け、未開地区の学校で教えることはアメリカ人ボランティアに全面的に頼る一方で、教育を受けたマラウィ人たちは国外へ移住してしまったのである。マラウィで大学が設立されたが、迎え入れられるのは外国人教師たちばかりで、政治的な理由から、その地位につくマラウィ人はほとんどいない。医学の教授陣も同様に外国からやってきた。看護学校を卒業するマラウィ人も出てきたが、イギリスやオーストラリア、アメリカに移住してしまい、その結果、マラウィには依然として外国人看護師が必要なのである。
(続きはまた明日)

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※スクルージというのは、ディケンズの小説『クリスマスキャロル』の主人公。
金だけが生き甲斐の老人スクルージが、クリスマスに訪れた幽霊の導きによって改心する、というのが『クリスマスキャロル』のおおまかな筋である。
マラウィに対して資金援助をするつもりはないというポール・セローは、自分を吝嗇なスクルージになぞらえている。

一方「ジェリビー夫人」というのは、同じくディッケンズの小説『荒涼館』に出てくる登場人物。ここでもちょっとふれられているように、ニジェール川東岸のボリオブーラ=ガーに入植地を開くことに夢中になるあまりに、自分の子供は捨てて顧みない人。ディッケンズは彼女のことを「望遠鏡的博愛」と称している。

ここで「ピアノの足」と言われているのは、おそらくディケンズの "Hard Times"から来ていると思われる。この作品のなかに師範学校の教師というものは、同じ工場で生産される「ピアノの足」のように画一的な教育を受けて教師に仕立てあげられる、という部分がある。それとジェリビー夫人のもくろむ「来年の今ごろまでには、百五十から二百までの健全な家族をニジェル河の左岸でコーヒーの栽培とボリオブーラ・ガーの土民の教育に当たらせていると思いますわ」(『荒涼館1』)という言葉を重ね合わせているのだろう

(※サイトの「菊」のあとがきと"what's new" ちょっとだけ書き直してます。あと翻訳の作者と作品紹介のページにもスタインベックを追加しておきました。興味のある方はまたごらんになってください。ほんと、たいしたことは書いてませんが)

サイト更新しました

2007-12-17 22:27:27 | weblog
先日までここに連載していたジョン・スタインベック「菊」の翻訳をサイトにアップしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

これ、中学の時に読んだときはちっともわからなかったなあ、なんて思い出しながら訳していました。
ひとつには、そのころよりは多少読むスキルがあがったということもあるのだろうけれど、やっぱり年齢的なこともあるかなあ、とも思います。やっぱり主人公の気持ちの微妙なところは、年齢的なところもあるのかもしれません。
更新情報はまだ書いてないんですが、そこらへんのこともちょっと書けたらと思ってます。

またお暇なときにでもサイトの方もご訪問くださればうれしいです。

ということで、それじゃまた。

ティファニーで目覚めたら(後編)

2007-12-16 22:09:50 | weblog
ところで『ティファニーで朝食を』というと、あまりに映画のヘップバーンのイメージが強烈なのだが、原作のホリーはずいぶんイメージがちがうように思う。なにより第一に黒髪ではない。
少年のように刈り込んだ髪の毛の、ボロ袋みたいな色、黄褐色の毛筋、白子のブロンドに黄味をおびた房毛が、廊下の電灯にてらしだされていた。……口は大きく、鼻は上向きだった。…それは少女を通り越した顔だったが、まだ一人前の女になりきっていないみたいだった。
(トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』龍口直太郎訳 新潮文庫)

ところでこの顔の描写、上にあげたトルーマン・カポーティにぴったり符合しないだろうか。あの写真は24歳のときに出版した『遠い声 遠い部屋』のカバーになった写真なのだが、少女を少年に、女を男に置き換えると、ホリーの描写そのものになるように思えるのだ。

写真でははっきりとはわからないが、実際のカポーティも、色の薄い金髪のもちぬしだったらしい。
これはフィクションではあるが『アラバマ物語』でカポーティをモデルにしたと言われている少年ディルの描写。
 ディルはなんだかおかしな子だった。青い麻の半ズボンをはいていて、それがシャツにボタンどめになっていた。髪の毛は雪のように白く、あひるのうぶ毛みたいに頭にひっついていた。ディルは私よりひとつ年上だが、私のほうがぐんと背が高かった。その映画を話してくれるとき、青い目はかがやいたり、かげったり、そして思いだしたように声をあげては笑いだして、いかにもたのしそうだったが、そういうあいだにも、額のまんなかにたれた髪の毛を、しょっちゅう引っ張るくせがあった。
(ハーパー・リー『アラバマ物語』菊池重三郎訳 暮らしの手帖社)

このディルは夏になったら隣のミシシッピ州から主人公たちの住むアラバマ州にやってくる。ミシシッピ州で写真屋を営む母親は、〈美しい子供〉がテーマの写真のコンテストに、彼の写真を出して、賞金五ドルをもらった。それをそっくり六歳の息子にくれてやり、息子はそれで二十回も映画に行った、というエピソードが出てくる。

どこまでが事実で、どこからがハーパー・リーの創作かははっきりしないが、幼い日のカポーティがそうであってもなんら不思議はないし、どこか『誕生日の子供たち』のミス・ボビットや、「ミリアム」の少女の方のミリアムがだぶってくるのだ。

ディルも、ミス・ボビットも、ミリアムも、そしてこのホリーも、正体をつかませない、どこかよそからやってきて、そのうちどこかへ行ってしまう、子供というには大人びた、だが断じて大人ではない子供たちである。

だが、処女作の『ミリアム』や二十代の『誕生日の子供たち』とはちがって、三十四歳の作品である『ティファニーで朝食を』には、興味深い分身も登場するのである。

「一杯さしあげますからお立ち寄りください」とメモをもらった「私」がホリーの家に行くと、ほかにも大勢の人が招待されている。
 やがて、そのうちの一人がとくべつに目立ってきた。彼はまだ幼児の脂肪を払い落としていない中年の子供だったが、腕達者な仕立屋のおかげで、まるまるふとってぴしゃりと平手打ちをくわせてやりたいようなお尻もなんとか人目に触れないようになっていた。彼の全身には骨など一本もないみたいだった。かわいい小型の造作をちりばめた丸形の顔は、まだ使われたことのない処女性をおびていた。まるで生まれてからすぐふくらまされたかのように、皮膚はふくらんだ風船みたいに皺ひとつなく、その口もとはいつでも喧嘩をふっかけ、かんしゃく玉を破裂させそうに見えても、駄々っ子のそれみたいに、かわいらしくすぼんでいた。だが、彼をほかの者と区別するのはその外見ではなかった。幼児をそのまま大人にしたという例は、それほど珍しいものではないからだ。それはむしろ、この男の行動であった。彼はこのパーティが自分のものであるみたいに振舞っていたのである。

ここで描かれたラスティーという登場人物の姿は、もはや「美しい子供」ではなくなった、当時のトルーマン・カポーティの姿が浮かんでくるのである(※参考画像http://lavender.fortunecity.com/banzai/80/bt07.html)。

ホリーもカポーティの分身なら、この奇妙な取り巻き、五歳にして孤児となり、「小学生だった頃、名付け親兼後見人を暖色の嫌疑で逮捕させる原因になった」ラスティーも分身なのである。

自分の顔を知らない人はいないだろう。自分の顔が、年齢とともに変わっていくことに気がつかない人もいないだろうし、記憶にある自分の顔と、現在の自分の顔のギャップにはっとする年齢もかならず訪れる。だが、それを言葉で描写することは別だ。ためしにだれよりもよく知っているはずの自分の顔を言葉で描写してみるといい。

カポーティは鏡に自分の姿を映し、映し続け、そうしながらそれを描き出す言葉をひとつひとつ探り当てていったのだ。

作家にとって、登場人物が作者本人の分身であることは別に不思議なことではないのかもしれない。だが、その登場人物に自分の姿を与えることはまた別の話だ。ホリーに、「きれいな子供」だった自分の姿を重ね合わせることは、ナルシシズムと言えるかもしれないが、美しくなくなり、中年にさしかかった自分の姿を仮借なく描き出すことは、ナルシシズムと言えるのだろうか。そうなのかもしれない。それこそ、ほんとうのナルシシズムなのかもしれない。

ともかく、いまだ美しい子供の領域にいるホリーを描くカポーティは、彼女がいつまでもそこにいられないことも、やがてその美しさが失われることも知っているのである。だからこそ彼女を、ブラジルへやり、ブエノス・アイレスにやり、果てはアフリカまで行ったかもしれない、ということにする。まるで安住しさえしなければ、時の流れから自由であるとでもいえるかのように。
〈ここではないどこか〉をさまよい続ける彼女は、「ブエノス・アイレスはとてもすてきだわ。ティファニーほどじゃないけど。…とにかく今どこか落ち着くところをさがしてるの。…きまりしだい住所をお知らせします」とよこしたきり、消息は消えてしまう。

〈ここではないどこか〉は「ティファニーの店みたいなところ」。
その「ティファニー」は、断じて貴金属店などではないのである。

ティファニーで目覚めたら(前編)

2007-12-14 23:18:31 | weblog
季節柄といっていいのか、新聞の片隅の広告に、おなじみのあのかすかに緑の混じったパウダーブルーが目につくようになった。やはりこの時期の広告は、クリスマスを当て込んでのことなのだろうか。

アクセサリーというのは身につけているとどうにも邪魔で、その良さも価値もちっともわからないのだが、ティファニーという響きには、やはり独特のものを感じる。デパートの一角の貴金属売り場ではなく、もちろん直営店のことでもなく、わたしにとってティファニーというと、なんといってもトルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』なのである。

最初にこの本を読んだのは、こんなおもしろい本があるんだろうか、とむさぼるように『冷血』を読んだ直後、カポーティの本を端から手にとっていたころのことだ。だが、一方で非常に堅実な中学生だったわたしは、ホリー・ゴライトリーの気まぐれさがなんともいえず鼻持ちならないものに思え、読んでいたらなんだかイライラしてしまって、途中でやめてしまったのだった。

数年後、映画の方を見る機会があった。冒頭、ティファニー宝石店のウィンドウの外でパンを食べているオードリー・ヘップバーンを見て、あれ、こんなシーンはあったっけ、と思ったのだ。そういえば、タイトルの『ティファニーで朝食を』というのはどういう意味だったのだろう。そう思って、本棚の奥を探して、最後まで読まなかった文庫本を読み直してみたのだった。

このタイトルは、ホリーの言葉から来ている。彼女は映画スターになるための下積みをがまんできず、ハリウッドを離れた。当時の心境を説明する脈絡で、こんなことを語るのだ。
「……映画スターになることと、大きな自我を持つこととは並行するみたいに思われてるけど、事実は、自我などすっかり捨ててしまわないことには、スターになどなれっこないのよ。といっても、あたしがお金持になり、有名になることを望まないというんじゃないの。むしろ、そうなることがあたしの大きな目的で、いつかはまわり道をしてでも、そこまで達するようにつとめるつもり。ただ、たとえそうなっても、あたしの自我だけはあくまで捨てたくないのよ。ある晴れた朝、目をさまし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね。…」
(トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』龍口直太郎訳 新潮文庫)

このティファニーという場所は、彼女にとってどういう場所なのか。
「…いったいあたしって女は、あたしとほかのものがちゃんと一緒にいられるような場所をはっきり見つけるまでは、どんなものにしろ、所有したいなんて思わないのよ。ところが、まだ今のところでは、そういう場所がどこにあるかはっきりしないの。でもね、それがどのようなところか、あたしにはよくわかってるわ。……それはティファニーの店みたいなところ。といっても、宝石なんかどうだっていいのよ。……」

ホリーの話は、焦点をきちんと結ぶ前にどんどんとずれていってしまうので、ティファニーのどういったところに理想を見ているのかよくわからない。それでも、虹の向こうの輝かしい場所であることは、何となく想像される。

中学の頃に気がつかなかったのは、ホリーの気まぐれは、彼女が意図したものではなく、彼女自身にもどうしようもない、一種の彼女の内にある荒々しさからくるものだった。それは、映画のヘップバーンの気取りとはほど遠い、むしろ、『冷血』のペリー・スミスに近いとさえ思えるような。

(たいした話ではないんですが、ちょっと参照したい本なんかもあるので、この話は明日も続きます)

ジョン・スタインベック 「菊」その7.

2007-12-13 21:56:25 | 翻訳
最終回

 エリーサは家に入った。ヘンリーが門のところまで車を出して、そこでアイドリングさせる音を聞きながら、帽子を被るのにたっぷり時間をかけた。こっちを引っ張り、あっちを押さえてみたりする。ヘンリーがエンジンを切ったので、コートに身をすべりこませると、外に出た。

 小型のロードスターは、川沿いのでこぼこ道を弾みながら進んだ。小鳥が飛び立ち、ウサギは草むらへ飛び込んだ。二羽の鶴が重い羽音をたてながら、ヤナギ並木を飛び越え、河床へ降りた。

 道のだいぶ先に、エリーサは黒っぽいしみを見つけた。エリーサにはわかった。

 通りすぎるときはどうにかそちらを見まいとしたのだが、目は言うことを聞かなかった。痛ましい思いでそっとつぶやく。「道のほとりにでも捨てることだってできたのに。そのぐらいたいした手間じゃないのに。ほんと、造作もないことなのに。だけど、あの男は植木鉢だけは持っていったんだ」彼女は考えた。「植木鉢は取っておかなきゃならなかった。だからまるごと、道の向こうに放り出すわけにはいかなかったんだ」

 ロードスターが角を曲がると、あの荷車が前方に見えた。上体をぐっとひねって夫の方を向いたので、小さな幌馬車と、ちぐはぐな引き手を見ることなく、車は追い越していった。

 一瞬のうちに終わった。ことはすんでしまったのだ。エリーサは振り返らなかった。エンジン音にかき消されないよう、大きな声で言った。「うれしいわ、今夜、おいしい晩ご飯が食べられて」

「おやおや、また気分が変わったか」ヘンリーがぼやく。片手をハンドルから離して、彼女の膝を軽く叩いた。「もっとおまえを食事につれて行かなきゃならんらしいな。ま、それがおれたちのどっちにもいいってことだ。農場にこもりっきりになってると、うっとうしくなってくるもんな」

「ヘンリー」エリーサは聞いてみた。「食事のとき、ワインを飲んでかまわない?」

「もちろんさ。そりゃいいや」

 しばらく彼女は黙っていた。やがて口を開いた。「ヘンリー、ボクシングの試合ってね、男の人たちがひどく相手を傷つけるの?」

「ときにはちょっとくらいあるだろうが、めったにないんじゃないか。どうして?」

「ううん、鼻の骨がおれたり、血が胸にしたたりおちたり、っていうのを読んだから。グローブが血を吸って重くなった、なんてことも書いてあったわ」

 ヘンリーは顔を彼女に向けた。「どうしたんだ、エリーサ。おまえがそんなものを読んでるなんて知らなかったぞ」いったん車を停めると、それから右折してサリナス川にかかる橋を渡った。

「女の人もボクシングの試合を見たりすることある?」

「そりゃもちろん、見に行く女だっているさ。どうしたんだ、エリーサ。おまえも行きたいのか? そんなもの、おまえが喜ぶようなもんじゃないと思うがな、だけど、ほんとに行きたいんだったら、連れてってやるよ」

 エリーサはぐったりと座席に身を沈めた。「ううん、行きたくない。ほんと、行きたくなんか全然ない」夫から顔を背けた。「ワインを飲むだけで十分。それでいいの」彼女がコートの襟を立てたので、夫からは彼女が泣いているのは見えなかった。力つきたように――まるで、老婆のように。



The End


(※後日手を入れてサイトにアップします)

ジョン・スタインベック 「菊」その6.

2007-12-12 22:39:23 | 翻訳
その6.

 エリーサは金網の柵の前に立って荷車がのろのろと進んでいくのを見ていた。胸を反らし頭を高くあげて、目を半ば閉じていたために、あたりの光景はぼやけてしまっている。その唇が、声にならないまま、「さよなら……さよなら」と動いた。それからそっとささやいた。「あっちは明るい。あっちには光があるんだ」自分の声にどきりとした。思いを振り払うと、誰かに聞かれはしなかったかとあたりを見回す。犬が聞いていただけだった。二匹の犬は、地面に寝そべったままの姿勢で、頭だけを彼女の方にもたげていたのだが、やがてまたくびをのばして眠りについた。エリーサはくるりと向きを変えると、家の中に駆け込んだ。

 台所に入ると、炉の向こう側へまわって、水の入ったタンクに手を入れてみた。昼の料理の熱で温まったお湯がいっぱいになっている。浴室に行って、汚れた服をひきちぎるように脱いで隅へ放った。小さな軽石で体をこする。脚も太股も、腰も胸も腕も、こすりすぎて肌が赤くなるまでこすった。体を拭くと、寝室の鏡の前に立って、自分の体を眺めた。おなかをへっこまし、胸を突き出す。首をねじって、肩越しに後ろ姿も確かめた。

 やがてゆっくりと服を着始めた。おろしたての下着、いちばんいいストッキングをはき、彼女の美しさを誇示するようなドレスを着る。髪を丁寧に梳かし、眉を描き唇を塗った。

 化粧が終わらないうちに、遠くから蹄の音や、ヘンリーと助手が大声で、赤い去勢牛を囲いの中へ追い込んでいる声が聞こえてきた。柵の扉が閉まる音がして、エリーサはヘンリーが来るのを待ち受けた。

 ポーチを歩く足音が響く。ヘンリーは家に入って来ると、大声で呼んだ。「エリーサ、どこだ?」

「わたしの部屋よ。着替えてるの。まだ準備ができてないのよ。あなたが使えるようにお湯があるわ。ちょっと遅くなってる」

 浴槽でお湯を使う音が聞こえてくると、エリーサは夫の黒っぽいスーツをベッドに広げ、その横にシャツと靴下、ネクタイを置いた。それからポーチへ出ると、行儀良く、身を固くして腰を下ろした。川沿いの道は、ヤナギ並木の葉が霜で黄ばんでいるのが見える。濃い灰色の霧がたれこめる中に、長くのびた日の光の帯のようだ。灰色の午後のただひとつの色だった。身じろぎもせず、彼女は座っていた。まばたきさえほとんどしなかった。

 ヘンリーがドアをばたんと開けると、ネクタイをベストにつっこみながら入ってきた。エリーサの体はこわばり、表情も硬くなった。ヘンリーは一瞬止まると、妻をまじまじと見た。「おいおい、エリーサ、えらくべっぴんさんになって」

「べっぴんさん? わたしがきれいだってこと?」

 ヘンリーは考えもなく言った。「何言ってるんだ。おれはただおまえがいつもとちがってる、って思っただけさ。えらく強くて、幸せそうに見えるじゃないか、って」

「わたしが強い? そうね、強いかも。だけど『強い』ってどういう意味でそんなこと言ったの?」

 彼はとまどった。「おれをからかってるんだろう」やれやれという調子だった。「ちょっとふざけてみただけさ。おまえはえらく強そうで、子牛なんざ膝の上でぽきりと折っちまうぐらい強そうに見えるし、そいつをスイカみたいにまるかぶりしそうなぐらい、ご機嫌に見える」

 一瞬、彼女の体から力が抜けた。「ヘンリー、そんなこと言わないで。自分が何を言ってるか、わかってるの?」彼女からまた隙が消えた。「わたしは強いのよ」自信に満ちてそう言った。「わたし、強いの。自分がどれだけ強いか、いままで知らなかった」

 ヘンリーはトラクター置き場の方に目を遣って、また彼女の方を見たが、そのときには目はいつもの目に戻っていた。「車を出してくる。エンジンをかけてるから、おまえはコートを着てきたらいい」

(明日は最終回)

ジョン・スタインベック 「菊」その5.

2007-12-11 22:45:22 | 翻訳
その5.

 男は目を細めた。その目が気まり悪げにそれていく。「わしにもわかるような気がするよ。ときどき、夜にあの荷馬車におったらな……」

 エリーサの声がかすれてきた。男の言葉をさえぎる。「わたし、あんたみたいな暮らしはしたことがないけど、あんたが言ってること、わかるわ。暗い夜なんか――ほら、星の先がとがって、あたりは静まりかえってる。そしたらどう、体が浮き上がるみたいになる! 星のとがった先が体に突き刺さってくるみたいな。そんな感じよね。熱くて、鋭くて……いとおしい」

 ひざまずいたまま、手は男の油じみた黒いズボンをはいた脚のほうに伸びる。指がおずおずと、ズボンの生地にふれんばかりになる。だが手はぱったりと地面に落ちた。じゃれつく犬のようにうずくまっていた。

 男が言った。「いいもんだ、あんたが言うように。まあ、晩飯にもありつけないときは、そうもいかないがね」

 彼女は立ち上がると、背筋をぴんと伸ばしたが、その表情には恥ずかしそうな色が浮かんでいた。植木鉢を差し出すと、男の腕にそっとあずけた。「これ。荷馬車に乗せていって、座席のところにね、そこだったらあんたの目も届くでしょ。あんたにやってもらう仕事もたぶんあると思うわ」

 家の裏で空き缶の山をひっくり返し、古いつぶれたアルミ製の片手鍋をふたつ見つけた。それを手に戻ってくると、男に渡した。「はい。これ、直せるでしょ」

 男の態度が変わった。仕事の顔になったのだ。「新品同然にしてみせまさあ」荷馬車のうしろに小さな金床をすえて、油が染みついた道具箱の底から工作用の金槌を取り出した。エリーサは門から出て、男が鍋のへこみを直しているのをじっと見ていた。男の口元は、確かな、よく心得た者のそれだった。作業がむずかしい箇所にさしかかると、下唇を舌で湿した。

「あんた、その馬車のなかで寝るの」エリーサはたずねた。

「そうだよ、この中だ、奥さん。雨だろうがいい天気だろうが、この中にいりゃ、雌牛みたいにカラカラさ」

「楽しそうね。すごく楽しそう。女にもそんな暮らしができたらいいのに」

「女に向いた暮らしじゃないな」

 彼女の上唇がまくれあがって歯が見えた。「どうしてそんなことがわかるのよ。どうしてそうだって言える?」

「そんなこと、わしにはわからんよ、奥さん」男は言い返した。「もちろんそんなことは知らねえさ。さて、あんたの鍋が仕上がったぞ。これでもう新品を買う必要はなくなった」

「いくら?」

「五十セント。料金は安いが仕事は確実、わしはそいつを崩さんようにしとるんだ。だもんだから街道のあちこちで、お客さんをみんな満足させてるわけさ」

 エリーサは家から五十セント硬貨を一枚持ってきて、男の手に落とした。「いつかあんたに商売敵が現れてもびっくりしちゃいけないよ。あたしにだってハサミは研げる。小さな鍋のへこみだって叩いて直せるよ。女に何ができるか、あんたに見せてあげることだってできるんだ」

 男は金槌を油染みた箱に戻し、小さな金床を見えないところへ押しやった。「女にゃ
寂しい暮らしだよ、奥さん、おまけに恐ろしい暮らしでもあるんだ。けものが夜の間中、荷馬車の下にもぐりこんでくるんだからな」彼は横木を乗り越えようと、ロバの白い尻に左手をかけた。荷車の座席に腰を下ろすと、手綱をとりあげた。「奥さん、ご親切にどうもありがとう。あんたの教えてくれた通りにするよ。引き返してサリナス街道に出ることにする」

「忘れないで」彼女は大きな声になった。「そこにいくまで長くかかるんだったら、砂を乾かさないようにして」

「砂だって、奥さん……砂? ああ、そうか、わかったよ。菊だな。そうするよ」男は舌を鳴らした。動物たちは悠然と首をそらした。雑種犬は光臨のあいだの所定の位置につく。荷車は向きを変えて、ゆっくりと門を出て、もときた川沿いの道を戻っていった。

(この項つづく)

ジョン・スタインベック 「菊」その4.

2007-12-10 22:39:50 | 翻訳
その4.

 男の視線は彼女から離れて、地面に落ちるとあたりをさぐった。あちこちさまよううち、さきほどまで彼女が作業をしていた菊の花壇に目がとまった。「奥さん、あの畑は何です?」

 エリーサの表情からいらだちとあらがうような色が消えた。「あら、あれはね、菊なの。白と黄色の大きな花。毎年育ててるんだけど、ここらへんじゃ一番立派なのよ」

「茎が長い花かね? 色のついた煙をぷっと吹きつけたみたいな」

「そうよ。ほんと、菊のこと、うまく言うのね」

「あのにおいは慣れるまではあまりいいもんじゃないね」

「強いけどいい匂いよ」と言い返した。「ちっともいやなにおいなんかじゃない」

 男の語調はすぐに変わった。「わしはあの匂いは好きだよ」

「今年は25センチ以上もある花を咲かせたのよ」

 男はフェンスから身を乗り出した。「あのな、わしが知っとるご夫人でな、このすぐ先に、とびきり上等の庭を持っていなさるんだ。もう花という花なら全部そろっとるんだが、たったひとつ、菊だけがない。前にわしが銅底の洗濯だらいを修理させてもらったとき、ま、そいつを直すのは簡単じゃないんだがわしならいい仕事ができるんだ、ともかくその奥さんはこう言いなすった。『どこかできれいな菊の花を見かけたら、種を少し分けてもらってきておくれよ』ってな。そのご夫人はそう言いなさったんだよ」

 エリーサの目がいきいきと熱を帯びた。「その人、あんまり菊のこと知らないんだわ。そりゃ種からだって育てられるけどね、そこにあるような小さな新芽を挿し木にするほうがずっと簡単なのよ」

「そうだったんか」男は言った。「だったら、その人に持っていってやるわけにはいかんな」

「あらどうしてよ」エリーサは大きな声になった。「湿った砂に挿したげるから、あんた、それを持っていきゃいいのよ。水さえ切らさなきゃ、植木鉢のなかで根付くはず。そのあとでその人が植え替えたらいいんだわ」

「その人もそうしてもらえたら喜ぶよ、奥さん。あんた、きれいな花だって言いなすったよな」

「美しいのよ」彼女は言った。「ほんと、美しいの」その目は輝いていた。型崩れした帽子をむしり取ると、濃い色の美しい髪をゆすった。「植木鉢に挿しておくからね、あんた、それを持っていってあげて。庭に入ってきて」

 男が杭柵から入ってくるあいだに、エリーサはゼラニウム沿いの小道を、家まで夢中になって走っていった。そうして戻ってきたときには大きな赤い植木鉢を抱えていたのだった。手袋のことなどもはや頭にはない。苗床のそばに跪くと、素手で砂混じりの土を掘り返し、真新しい色鮮やかな植木鉢にすくって入れた。それからさきほど積み上げた新芽の山から、ひとつまみ取り上げた。強い指がそれを砂のなかへしっかりと挿しこみ、まわりをこぶしで叩いて固めた。男はそれを上から見ていた。「どうしたらいいか教えてあげる。だから忘れないで、そのご夫人に教えてあげて」

「わかりました。なんとか忘れんようにしてみます」

「いい? あのね、一ヶ月ほどしたら、根付くからね。そしたらそれを三十センチずつ離して、こんなふうなよく肥えた土に植え替えなくちゃならないの。わかった?」ひとにぎりの黒土を、男によく見えるようにかざした。「茎はぐんぐん伸びていくわ。そうなったらこんど忘れちゃいけないのはこのこと。七月になったら、地面から20センチくらいのところで剪定するんだ、って教えてあげて」

「花が咲く前に?」と男がたずねた。

「そうよ、花が咲く前に」熱を帯びた表情はきつくなっていた。「そこからすぐまた伸びてくるの。そして九月の終わりにはつぼみがつき始めるわ」

 話をやめたエリーサは、困ったような表情を浮かべた。「一番気をつけなきゃならないのはつぼみが出かけたときなの」ためらいながら言葉を続けた。「どういったらいいかわからない」男の目をさぐるようにじっとのぞき込む。口を少し開いたまま、耳をそばだてているように見えた。「うまく言えるかどうかわからないんだけど。植え付けの手って聞いたことがある?」

「いいや、ないですな、奥さん」

「ええとね、わたしにわかるのはその感じだけなんだけど。いらないつぼみをつみとるときのことなんだけど。なにもかもすっと指先に集まってくるの。自分は指がただ動いていくのを見てるだけ。指が勝手にやってくれる。そういうことなんだって感じるのよ。指がどんどんつぼみを摘んでいく。間違えたりしないの。指が花と一体になる。わかる? 指と花がね。それが感じられる、腕まで伝わってくるの。指はわかってる。指は間違えたりしない。そういうことを感じるのよ。そうなれば、もう間違ったことなんてすることはない。わかる? 何を言ってるかわかってくれる?」

 ひざまずいたまま、男を見上げた。胸いっぱいに熱い思いがこみあげていた。

(この項つづく)