陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

規則に反した飼い主は別れたイヌの夢を見るか

2007-12-02 22:14:57 | weblog
もはやSF映画の古典でもある『ブレードランナー』だが、その原作がフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』である。映画では電気羊など出てこないが、原作のタイトルにもなった電気羊は、本にはちゃんと出てくる、というか、作品の中で重要な役割(でもないか)を果たす。

舞台となるのは〈最終世界大戦〉で核兵器が使用された結果、深刻な汚染を受けた世界である。生物はほとんどが死に絶えてしまったために、人々は争って、高額の料金を払って生き物を飼うのである。主人公のリック・デッカードが逃亡アンドロイドを捕獲する賞金稼ぎ(バウンティ・ハンター)をやっているのも、ペットを購入する資金を確保するためなのだ。

冒頭、リックは屋上の「ドームつき牧場」へ行く。そこにいるのは、本物の羊毛が植え付けてある電気羊。オート麦への向性回路が内蔵されているため、えさを持っていくと近寄ってくるほど精巧にできた羊である。以前は生きた羊を飼っていたのだが、死んでしまい、そこで本物そっくりの電気羊を飼うようになった。
とはいえ、この電気羊の面倒を見てやるのも楽ではない。
「特製品なんだよ。おれのほうも、本物だったときと同じように、時間や面倒を厭わず世話をしてきた。しかし――」彼は肩をすくめた。
「どこかがちがう」バーバーがしめくくった。
「あと一厘ってとこがな。世話をしてるときの感じはおなじだ。生きてたときとそっくりおなじように、いつも目を光らしていてやらなくちゃいけない。もし壊れでもしたら、このビルじゅうに知れ渡っちまう。もう六回も修繕に持っていったよ。たいていは小さな機能障害だが、ひょっとしてだれかに気づかれたらさいご――たとえば、一度なんかは発声テープがひっかかるかどうかして、メエメエが止まらなくなったんだがね――それが機械の故障だってことを見破られちまうからなあ」つけ加えるように、「むろん、修理店のトラックには、『なになに動物病院』って字が入ってる。それに運転手も獣医そっくりの白衣を着てるんだよ」
(フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』朝倉久志訳 ハヤカワ文庫)

これだけ時間をかけて世話をしてやれば、生きていようが機械だろうが、情が移るような気もするのだが、「あと一厘ってとこ」を求めて、金を稼ぐのである。

ところで、人々は何で動物を飼いたがるのだろうか。デッカードの羊が電気羊だということを「だれにもしゃべらないよ」と約束するバーバーはこのように言っている。
「しかし、連中は君を見くだすぜ。みんながみんなとはいわんがね。動物を飼わない人間がどう思われるかは、知っているだろう? 不道徳で不人情だと思われるんだよ。つまりだね、法律的には最終戦争直後のように犯罪と認められないが、そういう感情はまだ残っているのさ」

どうやらこの世界では最終戦争後、法律で動物を飼うことが定められたようだ。核爆弾の後遺症でつぎつぎに死んでいく動物たちを、治療し、保護するためにそのような法律が定められたのだろうか。あるいは、核戦争ののち、人々は、自分が生き物の命を大切にする人間であるということを証明する必要に迫られたのか。ともかくこの世界では、動物を飼わない人間は、「不道徳で不人情」とみなされるらしい。

ところで幸か不幸か、動物そのものが未だ稀少となっていない現代にあっては、ときに動物を飼うことは「住人エゴ」ということにもなってしまうのである。

わたしが住んでいるところでは、観賞魚や小鳥までなら飼育できるのだが、それ以外のイヌやネコ、ウサギ、ハムスター、リス、もちろん羊や馬やラクダも飼ってはならないことになっている。ところが飼育不可、と決まっていても、少なからぬ住人が、部屋の中で小型犬やネコを飼っているようだった。

それが、今回、正式に禁止となったらしい。この三月まで、と期限を切って、手放すか、住人の方が引っ越すかしてほしい、という告知がなされたのである。

そもそもの発端は、犬のほえ声がやかましい、とか、ネコが階段の隅でおしっこをしていた、とかの苦情だったらしい。飼っていない人からすれば、規則で禁じられており、本来ならいるはずのないイヌやネコがいるのはいったいどうしてだ、けしからん、という話になったのである。

良い-悪い、という話になると、そもそもそういう規則を知って入居しながら飼っている側が悪いのは当然、という話になる。
だが、手放せ、と簡単に言うが、飼い主にしたらどれほどつらいことだろう。イヌか、住処か、と選択を迫られて、住処を変えるという結論を出せる人はそれほど多くはないはずだ。

動物を飼わなければ「不道徳で不人情」の世界だってありうるのに。イヌやネコが稀少生物でないばかりに、「そういう規則だから」の一点で、手放すか転居かを強制されるのである。
せめて当代かぎり、ということにならないものだろうか、と思うのだが、そういう意見もあった上での決定であるらしい。掲示板やエレヴェーターに張ってある告示を見ながら、なんともいえない気がするのである。

「ものごとの総合的な判断」というのは現実には不可能だ。わたしたちはどこかの相をとらえて「良い-悪い」というしかない。だからこそ、「良い-悪い」という判断が万能ではないことを知り、個々で柔軟な対応をしていかなくてはならないのだろうと思う。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の冒頭のエピグラムは、このタイトルがイエイツの詩から来たことを教えてくれる。
そしてわたしはなおも夢見るのだ。牧羊神のおぼろ影が芝生をふみ、わたしの歓びの歌につらぬかれた霧のなかを歩んでゆくのを。
 ――『しあわせな羊飼いの歌』

家族の一員として飼っていたイヌやネコと、規則だから、という理由で、夢の中でしか出会えなくなるというのは、なんだかな、と思うのである。