陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

年の瀬の物忘れ

2007-12-26 22:07:45 | weblog
ときに「趣味」の欄にショッピング、と書いている人がいるが、わたしにはなかなか理解しがたい楽しみである。わたしの場合、それが夕食の食材であろうが、トイレットペーパーであろうが、服(これはめったに買わないが)だろうが、本であろうが、たいてい買うべきものはすでに決まっており、売り場に直行してあっというまにお金を払って出てくるので、それでもあえてその行為を「趣味」と呼ぼうと思えば、いったいどの行程を指して「趣味」といったら良いのかよくわからない。その品物を持ってレジに向かって歩くことを「趣味」と呼ぶには、いささか無理があるように思われる。

タワレコもジュンク堂も好きだけれど、そういう場所が好きなのと、ショッピングを楽しむというのもまた少しちがうような気がする。やはりわたしにとっての「買い物」は、どこまでいっても必要に迫られて、事務的にすませるもののようだ。

ところがこのわたしにも、つい、買ってしまうものがある、ということに、つい最近気がついたのである。

わたしは毎年、年末がかなり忙しいこともあって、例年あまり大掃除はやらない。どちらかというと年度替わりの三月に、紙の整理(というか、実質的には大量廃棄)を中心にやる掃除を「大掃除」と呼んでいるのだが、それでも12月も半ばを過ぎると、体内に刻み込まれた幼児期からの記憶のせいか、掃除をしなくては、というプレッシャーが、じわじわと背中にのしかかってくるような気がする。電車の中から、ベランダに出て窓ガラスを磨いたりしている人の姿を見たり、近所の人が玄関や換気扇の外側を掃除しているところに行き会ったりするたびに、ああ、わたしもしなくては、という気分にかられるのである。

かられるからといって、たいしたことをするわけではない。暮れもいよいよ押し迫り、その年も残す時間が50時間を切った頃になって、大慌てで、床を拭きだしたり、天井に掃除機をかけたりするぐらいだ。

ところがその土壇場になる前にも、プレッシャーは徐々にわたしをしめつける。そうしてその埋め合わせとして、近所のスーパーに行くたびに、百均のコーナーに寄って、ゴミ袋やスティックのりやガムテープといっしょに、詰替用のマイペットとか、「こするだけで落ちる激落ち君」(受験生には不吉な名前だ)とか、「油汚れがみるみるおちる不織布」とか、「洗剤のいらない魔法のクロス」とか、静電気を起こしてキーボードに溜まった埃をとる小ぶりのハタキとかを買ってしまうのである。そうして買って帰ると、ガスレンジの下の掃除用具やら、ホースやら、小さい水槽やら、ポンプやら、キンギョの薬やら、鉢植えの肥料やら、雑多なものがあれこれと入っている棚にしまう。しまって、掃除用具を買ったことに安心して、心安らかに忘れてしまうらしいのである。

らしい、というのは、しまったことさえ忘れていたからだ。
先日、浴槽を洗うスポンジの予備が、確かあったはず、と思いながらそこを開けてみて、奥をさぐって驚いた。出てくるわ、出てくるわ、買った記憶すらないあれやこれやの数々である。「こするだけで網戸がきれいになる網戸ワイパー」など、ふたつも出てきた。どちらも封を切ってさえない。ふだんは浴槽もトイレも液体ハンドソープでゴシゴシ洗ってしまうのだが、そこにはちゃんと風呂の専用洗剤まであった(いったいいつ買ったんだろう)。

どうも毎年、12月になると「やらなくては」という気分が、わたしにそうしたものを買わせてしまうのである。ところがふだんの掃除では、ほとんど重曹やハンドソープだけ、特別な洗剤も特別な掃除道具も使わないわたしは、「大掃除」になっても、結局同じ洗剤と道具ですませてしまう。結局、そういうものを買っていたことを思い出しさえしないのである。

うーむ。

だが、ものごとは明るい方を見ようではないか。
こすれば落ちる網戸ワイパーがふたつもあるのだ。これで網戸も、掃除機をかけるより、きっときれいになるにちがいない。

覚えていれば。