陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

蓋を開ける話

2007-12-01 21:47:18 | weblog
わたしが太宰の全集を端から読んでいったのは、中学二年から三年にかけてだったが、それより前に一度、手にとったことがあった。それは親の本棚にあった『斜陽』だった。

小学生だったわたしは、本棚の文学全集を適当に引っ張り出しては、自分の読めそうなものを選んで拾い読みしていた。そういうなかに『斜陽』があったのだ。

『斜陽』というタイトルの意味が理解できたとは思わない。それでも最初のスープを飲む場面は非常によくわかった。ちょうどそのころ、外に食べに行った際に、スープの飲み方について、やかましく言われていたからだ。音を立ててはいけない、スプーンを内から外へ、おみそ汁を飲むようにお皿を両手で捧げもつなどもってのほか、などということである。そのために「お母さま」の「スウプ」の飲み方の描写など、おもしろく読んだようなかすかな記憶があるのだ。

ところが読み進むうち、あずまやの傍の萩のしげみでその「お母さま」が「おしっこ」をするのである。わぁ、なんてエッチなんだろう、と、わたしはすっかりドキドキしてしまって、こんな本を読んだことがばれたら大変、と、あわてて本棚に戻したのだった。だが、著者名すら読めなかったその巻だけは気になって気になって、本棚に近寄るたびに、背表紙のそこだけが浮き上がっているように思えたものだ。もしかしたら、そこから先を読んで、なんだ、と思ってそのまま忘れてしまったのかもしれないのだが、本当にそれから中学で再会するまでは、手に取ることもなかったのかもしれない。
だからわたしが初めて読んだエッチな本、というと、『斜陽』ということになるのである。

さて、その『斜陽』では、くだんの場面のすぐあと、このような記述が続く。
こないだ或る本で読んで、ルイ王朝の頃の貴婦人たちは、宮殿のお庭や、それから廊下の隅などで、平気でおしっこをしていたという事を知り、その無心さが、本当に可愛らしく、私のお母さまなども、そのようなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなかろうかと考えた。

ところが『斜陽』を本格的に読み始めた中学生のわたしは、この部分、ひどく違和感を覚えたのだった。違和感、というか、太宰は何か誤解しているのではないかと思ったのである。というのも、中学一年で国語を教わった先生から、近世のヨーロッパでは、トイレそのものがあまり一般的ではなく、便器に排泄されたものは、そのまま道路や川に捨てられ、あるいはまたその便器すらも使わずに、そのまま排泄されていた、と聞いていたからなのだ。

日本は早くから別の建物として便所が建てられ、排泄物を肥料として利用していたから、ヨーロッパにくらべればはるかに衛生的だった、『ヴェルサイユの薔薇』などと、君らが喜んで読んでいるマンガがあるが、ヴェルサイユ宮殿に薔薇の花が植えられていたのは、そこに捨てた糞便の臭いを隠すためだったし、香水というのも、その臭い消しのために発達したのだ、こういった話を、わたしたちは興味津々、おもしろく聞いたものだった。

太宰はここで「無心さが、本当に可愛らしく」と書いていて、その「無心さ」こそが「お母さま」の貴族性のあらわれのように描いているのだが、近世、庭で排泄していたのは貴族たちばかりではない。
 通りはゴミだらけ、中庭には小便の臭いがした。階段部屋は木が腐りかけ、鼠の糞がうずたかくつもっていた。台所では腐った野菜と羊の油の臭いがした。風通しの悪い部屋は埃っぽく、カビくさかった。寝室のシーツは汗にまみれ、ベッドは湿っていた。室内便器から鼻を刺す甘ずっぱい臭いが立ちのぼっていた。暖炉は硫黄の臭いがした。皮なめし場から強烈な灰汁の臭いが漂ってきた。屠畜場一帯には血の臭いがたちこめていた。人々は汗と不潔な衣服に包まれ、口をあけると口臭がにおい立ち、ゲップとともに玉ねぎの臭いがこみあげてきた。若さを失った身体は、古チーズとすえたミルクと腐乱した腫れ物の臭いがした。川はくさかった。広場はくさかった。教会はくさかった。宮殿もまた橋の下と同様に悪臭を放っていた。百姓とひとしく神父もくさい。親方の妻も徒弟におとらずにおっていた。貴族はだれといわずくさかった。王もまたくさかった。悪臭の点では王と獣と、さして区別はつかなかった。王妃もまた垢まみれの老女に劣らずくさかった。
(パトリック・ジュースキント 『香水―ある人殺しの物語』池内紀訳 文春文庫)

やはり『斜陽』のこの部分は、たとえ「お母さま」は庭で用足しをするようなときでさえ、愛らしく上品だった、という脈絡なら、まあいいのだが、フランスの貴族を出したのはやはりまずかったろうと思う。

だがここでふと思うのは、ジュースキントは「くさかった」「くさかった」と連呼しているのだが、それは現代に生きるわたしたちだからそう感じるのであって、当時の人々はそういうことを感じていたのだろうか。もちろん、薔薇の花が植えられ、香水が調合されたのは、くさい、と感じていたからではあるだろう。けれど、おそらくわたしたちと感じ方の度合いはまるっきりちがっていたにちがいない。
排泄物は悪臭ゆえに胸をむかつかせると、私たちは思っている。しかし、最初に私たちの嫌悪の対象になっていなかったら、はたしてそれは悪臭を放っていただろうか。……嫌悪感と吐き気の領域は、全体的に見て、この教育の一結果なのである。
(ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』酒井健訳 ちくま学芸文庫)

ごくごく小さな子供、赤ん坊といってもいいのだが、彼らは自分の排泄物をちっとも汚いとおもうどころか、自分の身体から出たものとして、楽しそうにもてあそぶ。それを見た親の方は卒倒しそうになるのだが、その排泄物に対する「汚い」という意識は、まさに教育のたまものなのである。

そんなふうに考えると、もちろん衛生思想の発達が、伝染病を抑え、多くの病気を予防した側面はあるにせよ、「汚いもの」「くさいもの」と遠ざけ、蓋をすることによって、抑圧し、損なったものもあるのだろう。

もちろん戦後(第二次世界大戦後)の日本で、庭で用を足す「お母さま」の行為は、当時でさえ特殊なものだったろうし、学習院で貴族を身近に知っていた志賀直哉などからすれば、鼻先で嗤いたくなるようなものだったのかもしれない。
けれども、無邪気さ、というか、無垢であること、あるいは既成の「きれい-汚い」という判断から自由だった「お母さま」というのは、やはり不思議な魅力を持った人であるだろうし、「萩の花」の咲くなかで用を足すのは、なんともいえないエロティシズムがあると思うのだ。小学生のわたしが「わ、エッチだ」と思ったのは、そのエロティシズムを理解してのことではなかったのだろうが。