陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・スタインベック 「菊」その6.

2007-12-12 22:39:23 | 翻訳
その6.

 エリーサは金網の柵の前に立って荷車がのろのろと進んでいくのを見ていた。胸を反らし頭を高くあげて、目を半ば閉じていたために、あたりの光景はぼやけてしまっている。その唇が、声にならないまま、「さよなら……さよなら」と動いた。それからそっとささやいた。「あっちは明るい。あっちには光があるんだ」自分の声にどきりとした。思いを振り払うと、誰かに聞かれはしなかったかとあたりを見回す。犬が聞いていただけだった。二匹の犬は、地面に寝そべったままの姿勢で、頭だけを彼女の方にもたげていたのだが、やがてまたくびをのばして眠りについた。エリーサはくるりと向きを変えると、家の中に駆け込んだ。

 台所に入ると、炉の向こう側へまわって、水の入ったタンクに手を入れてみた。昼の料理の熱で温まったお湯がいっぱいになっている。浴室に行って、汚れた服をひきちぎるように脱いで隅へ放った。小さな軽石で体をこする。脚も太股も、腰も胸も腕も、こすりすぎて肌が赤くなるまでこすった。体を拭くと、寝室の鏡の前に立って、自分の体を眺めた。おなかをへっこまし、胸を突き出す。首をねじって、肩越しに後ろ姿も確かめた。

 やがてゆっくりと服を着始めた。おろしたての下着、いちばんいいストッキングをはき、彼女の美しさを誇示するようなドレスを着る。髪を丁寧に梳かし、眉を描き唇を塗った。

 化粧が終わらないうちに、遠くから蹄の音や、ヘンリーと助手が大声で、赤い去勢牛を囲いの中へ追い込んでいる声が聞こえてきた。柵の扉が閉まる音がして、エリーサはヘンリーが来るのを待ち受けた。

 ポーチを歩く足音が響く。ヘンリーは家に入って来ると、大声で呼んだ。「エリーサ、どこだ?」

「わたしの部屋よ。着替えてるの。まだ準備ができてないのよ。あなたが使えるようにお湯があるわ。ちょっと遅くなってる」

 浴槽でお湯を使う音が聞こえてくると、エリーサは夫の黒っぽいスーツをベッドに広げ、その横にシャツと靴下、ネクタイを置いた。それからポーチへ出ると、行儀良く、身を固くして腰を下ろした。川沿いの道は、ヤナギ並木の葉が霜で黄ばんでいるのが見える。濃い灰色の霧がたれこめる中に、長くのびた日の光の帯のようだ。灰色の午後のただひとつの色だった。身じろぎもせず、彼女は座っていた。まばたきさえほとんどしなかった。

 ヘンリーがドアをばたんと開けると、ネクタイをベストにつっこみながら入ってきた。エリーサの体はこわばり、表情も硬くなった。ヘンリーは一瞬止まると、妻をまじまじと見た。「おいおい、エリーサ、えらくべっぴんさんになって」

「べっぴんさん? わたしがきれいだってこと?」

 ヘンリーは考えもなく言った。「何言ってるんだ。おれはただおまえがいつもとちがってる、って思っただけさ。えらく強くて、幸せそうに見えるじゃないか、って」

「わたしが強い? そうね、強いかも。だけど『強い』ってどういう意味でそんなこと言ったの?」

 彼はとまどった。「おれをからかってるんだろう」やれやれという調子だった。「ちょっとふざけてみただけさ。おまえはえらく強そうで、子牛なんざ膝の上でぽきりと折っちまうぐらい強そうに見えるし、そいつをスイカみたいにまるかぶりしそうなぐらい、ご機嫌に見える」

 一瞬、彼女の体から力が抜けた。「ヘンリー、そんなこと言わないで。自分が何を言ってるか、わかってるの?」彼女からまた隙が消えた。「わたしは強いのよ」自信に満ちてそう言った。「わたし、強いの。自分がどれだけ強いか、いままで知らなかった」

 ヘンリーはトラクター置き場の方に目を遣って、また彼女の方を見たが、そのときには目はいつもの目に戻っていた。「車を出してくる。エンジンをかけてるから、おまえはコートを着てきたらいい」

(明日は最終回)