季節柄といっていいのか、新聞の片隅の広告に、おなじみのあのかすかに緑の混じったパウダーブルーが目につくようになった。やはりこの時期の広告は、クリスマスを当て込んでのことなのだろうか。
アクセサリーというのは身につけているとどうにも邪魔で、その良さも価値もちっともわからないのだが、ティファニーという響きには、やはり独特のものを感じる。デパートの一角の貴金属売り場ではなく、もちろん直営店のことでもなく、わたしにとってティファニーというと、なんといってもトルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』なのである。
最初にこの本を読んだのは、こんなおもしろい本があるんだろうか、とむさぼるように『冷血』を読んだ直後、カポーティの本を端から手にとっていたころのことだ。だが、一方で非常に堅実な中学生だったわたしは、ホリー・ゴライトリーの気まぐれさがなんともいえず鼻持ちならないものに思え、読んでいたらなんだかイライラしてしまって、途中でやめてしまったのだった。
数年後、映画の方を見る機会があった。冒頭、ティファニー宝石店のウィンドウの外でパンを食べているオードリー・ヘップバーンを見て、あれ、こんなシーンはあったっけ、と思ったのだ。そういえば、タイトルの『ティファニーで朝食を』というのはどういう意味だったのだろう。そう思って、本棚の奥を探して、最後まで読まなかった文庫本を読み直してみたのだった。
このタイトルは、ホリーの言葉から来ている。彼女は映画スターになるための下積みをがまんできず、ハリウッドを離れた。当時の心境を説明する脈絡で、こんなことを語るのだ。
このティファニーという場所は、彼女にとってどういう場所なのか。
ホリーの話は、焦点をきちんと結ぶ前にどんどんとずれていってしまうので、ティファニーのどういったところに理想を見ているのかよくわからない。それでも、虹の向こうの輝かしい場所であることは、何となく想像される。
中学の頃に気がつかなかったのは、ホリーの気まぐれは、彼女が意図したものではなく、彼女自身にもどうしようもない、一種の彼女の内にある荒々しさからくるものだった。それは、映画のヘップバーンの気取りとはほど遠い、むしろ、『冷血』のペリー・スミスに近いとさえ思えるような。
(たいした話ではないんですが、ちょっと参照したい本なんかもあるので、この話は明日も続きます)
アクセサリーというのは身につけているとどうにも邪魔で、その良さも価値もちっともわからないのだが、ティファニーという響きには、やはり独特のものを感じる。デパートの一角の貴金属売り場ではなく、もちろん直営店のことでもなく、わたしにとってティファニーというと、なんといってもトルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』なのである。
最初にこの本を読んだのは、こんなおもしろい本があるんだろうか、とむさぼるように『冷血』を読んだ直後、カポーティの本を端から手にとっていたころのことだ。だが、一方で非常に堅実な中学生だったわたしは、ホリー・ゴライトリーの気まぐれさがなんともいえず鼻持ちならないものに思え、読んでいたらなんだかイライラしてしまって、途中でやめてしまったのだった。
数年後、映画の方を見る機会があった。冒頭、ティファニー宝石店のウィンドウの外でパンを食べているオードリー・ヘップバーンを見て、あれ、こんなシーンはあったっけ、と思ったのだ。そういえば、タイトルの『ティファニーで朝食を』というのはどういう意味だったのだろう。そう思って、本棚の奥を探して、最後まで読まなかった文庫本を読み直してみたのだった。
このタイトルは、ホリーの言葉から来ている。彼女は映画スターになるための下積みをがまんできず、ハリウッドを離れた。当時の心境を説明する脈絡で、こんなことを語るのだ。
「……映画スターになることと、大きな自我を持つこととは並行するみたいに思われてるけど、事実は、自我などすっかり捨ててしまわないことには、スターになどなれっこないのよ。といっても、あたしがお金持になり、有名になることを望まないというんじゃないの。むしろ、そうなることがあたしの大きな目的で、いつかはまわり道をしてでも、そこまで達するようにつとめるつもり。ただ、たとえそうなっても、あたしの自我だけはあくまで捨てたくないのよ。ある晴れた朝、目をさまし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね。…」(トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』龍口直太郎訳 新潮文庫)
このティファニーという場所は、彼女にとってどういう場所なのか。
「…いったいあたしって女は、あたしとほかのものがちゃんと一緒にいられるような場所をはっきり見つけるまでは、どんなものにしろ、所有したいなんて思わないのよ。ところが、まだ今のところでは、そういう場所がどこにあるかはっきりしないの。でもね、それがどのようなところか、あたしにはよくわかってるわ。……それはティファニーの店みたいなところ。といっても、宝石なんかどうだっていいのよ。……」
ホリーの話は、焦点をきちんと結ぶ前にどんどんとずれていってしまうので、ティファニーのどういったところに理想を見ているのかよくわからない。それでも、虹の向こうの輝かしい場所であることは、何となく想像される。
中学の頃に気がつかなかったのは、ホリーの気まぐれは、彼女が意図したものではなく、彼女自身にもどうしようもない、一種の彼女の内にある荒々しさからくるものだった。それは、映画のヘップバーンの気取りとはほど遠い、むしろ、『冷血』のペリー・スミスに近いとさえ思えるような。
(たいした話ではないんですが、ちょっと参照したい本なんかもあるので、この話は明日も続きます)