第六回
もし運転手が夫人を注意深く見ていたなら、その顔がまったく別人のように青ざめ、表情が突如一変していたことに気がついたにちがいない。もはやためらいがちで薄ぼんやりしたようなところはどこにもなかった。一種の冷徹さのようなものが、その表情には表れている。いつもなら半開きのままの薄い唇が、いまはきりっとひき結ばれ、目は輝き、その話し声も、これまでにはなかった威厳の響きを帯びている。
「運転手さん、急いでください」
「でもご主人はご一緒じゃないんですか?」驚いた運転手はそう尋ねた。
「もちろんあの人は行きません。クラブまで送ってあげるつもりでしたけれど。でも、もういいんですのよ。あの人だってタクシーを拾えばいいんです。さあ、ここでおしゃべりしてる暇はないのよ。行ってちょうだい。パリ行きの飛行機に乗らなくては」
後部座席のフォスター夫人に急きたてられた運転手が、道中ずっと車を飛ばしたおかげで、間一髪、飛行機に間に合った。やがて、大西洋上空、はるかに高いところで、夫人はリクライニング・シートにゆったりと身を沈め、やっとパリに向かって進んでいくエンジンの音に耳を傾けていた。新たに生まれた思いは、まだ夫人の内に息づいている。自分が強くなったように感じ、奇妙なことだが、その感覚はすばらしいものだった。いくぶん息も上がっていたが、それ以上に、自分にそんなことができたことに純粋に驚いており、飛行機がニューヨークの東62番街から遠ざかれば遠ざかるほど、穏やかな、これ以上はないほどの思いが体中を満たすのだった。パリに着くころには、これ以上望むべくもないほどに、夫人は力に満ち、しかも冷静になっていた。会ってみた孫たちは、実物の方が写真よりもなおのことかわいらしい。まるで天使みたい。ほんとうに、なんてかわいいの。それから毎日、孫たちと一緒に散歩に出かけたり、ケーキを食べさせたり、おもしろい話を聞かせてやったりした。
週に一度、火曜日になると、夫に手紙を書いた――心のこもった、気取りのない手紙にはニュースやうわさ話をたっぷり詰めこみ、決まって「お食事は規則正しくお召し上がりになってくださいね。おそらく、わたしがそばにいないと、そうはなさらないのでしょうが」という言葉で結ぶのだった。
六週間が過ぎて、誰もが夫人がアメリカに、夫のもとへ戻っていくのを寂しがった。だれもが、というのは、つまり夫人をのぞいて、ということである。驚いたことに、ほかの者たちが考えるほど夫人はそこを離れることを苦にしていなかった。お別れのキスをするときも、夫人の態度には、どこかしら、きっとまたここに戻ってくる、それも、そう遠くない将来きっと、という様子がうかがえたのである。
とはいうものの、貞淑な妻である夫人は、滞在を延ばそうとはしなかった。ちょうどパリ到着から六週間目、夫人は夫に電報を打つと、ニューヨーク行きの飛行機に乗った。
アイドルワイルド空港に到着して、フォスター夫人は迎えの車が着ていないかどうか、注意深く探した。むしろそうでないことがわかっていくぶんうれしかったと言ってよいだろう。だが、夫人はきわめて冷静なまま、タクシーまで荷物を運んでくれたポーターにもチップを過分に与えるようなこともしなかった。
ニューヨークはパリよりも寒く、通りの溝には汚れた雪の塊がいくつも残っている。タクシーは東62番街に到着し、フォスター夫人は運転手に頼んで、ふたつの大きなスーツケースを階段の上まで運ばせた。それから車代を払うと、ベルを鳴らす。夫人は待った。だが返事はない。確かめるために、もういちどベルを鳴らすと、家の奧、食料貯蔵室の方で、ベルがジリジリと鋭い音で鳴っているのが聞こえた。だが、だれも出てこない。
そこで自分の鍵を出して、ドアを開けた。
最初に目に飛びこんできたのは、郵便受けに入りきらずに、あふれて床に落ちた手紙の山だった。なかは暗く、冷え切っている。埃よけのシートが大時計にかかったままになっていた。冷え切っているにもかかわらず、空気はどこか重苦しく、夫人がこれまで嗅いだことのないような、かすかに奇妙な臭いが漂っていた。足早に玄関ホールを横切って、またたくまに奧の左の角を曲がってそこを離れた。なにかしらの思惑と意図があるとしか思えない動作である。そこには噂を追求したり、疑念を確かめようとするときの女のもつ気配があった。数秒後、戻ってきた顔には、満足げな笑みが微かに浮かんでいた。
これからどうしようかと考えているかのように、玄関ホールの真ん中に立ち止まる。それから突然、身をひるがえして夫の書斎に入っていった。机の上にアドレス帳がある。ざっと探してから、受話器を取り上げ、ダイヤルを回した。
「もしもし。あのですね――こちらは東62番街の9です。……はい、そうです。すぐにどなたか寄越していただけませんこと? そうなの。二階と三階のあいだで停まってしまったようなんです。ともかく、そのあたりを指示器が指したままなんです。……すぐ来ていただけます? それは助かりますわ。わたしの脚ではもうそんなに階段を何段も上がっていくわけにはいかないんですの。どうもありがとうございます。それじゃ、また」
夫人は受話器を置くと、椅子にすわって夫の机に向かい、エレベーターを直しにやってくる修理工を辛抱強く待った。
The End
(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)
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