陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サイト更新しました

2007-09-19 22:14:14 | 翻訳
先日までここで連載していたロアルド・ダール「天国へ上る道」、サイトにアップしました。
更新情報をまだ書いていないので、
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/heaven.html
から入ってください。「翻訳」からも入れます。たぶん、明日の朝には更新情報も書くと思います。

ブログに連載しているときは、鍵になる部分の日本語がぬるかったので、ポイントがわかりにくかったかもしれません。だったらごめんなさい。
何か、結末がわかっちゃって読むようなものでもないんですが、それでも全体に読みやすくはなっていると思います。

ということで、明日には更新情報も書きますので、またそのころに見に来てください。お昼休みに見にいらっしゃってくださる方は、そのころには読めると思います(笑)。
うーん、テキストエリアからリンクで飛べるようにタグを書き直さなきゃダメですね。
ということでそれじゃまた。

ロアルド・ダール 「天国へ上る道」最終回.

2007-09-17 22:28:31 | 翻訳
第六回

もし運転手が夫人を注意深く見ていたなら、その顔がまったく別人のように青ざめ、表情が突如一変していたことに気がついたにちがいない。もはやためらいがちで薄ぼんやりしたようなところはどこにもなかった。一種の冷徹さのようなものが、その表情には表れている。いつもなら半開きのままの薄い唇が、いまはきりっとひき結ばれ、目は輝き、その話し声も、これまでにはなかった威厳の響きを帯びている。

「運転手さん、急いでください」

「でもご主人はご一緒じゃないんですか?」驚いた運転手はそう尋ねた。

「もちろんあの人は行きません。クラブまで送ってあげるつもりでしたけれど。でも、もういいんですのよ。あの人だってタクシーを拾えばいいんです。さあ、ここでおしゃべりしてる暇はないのよ。行ってちょうだい。パリ行きの飛行機に乗らなくては」

後部座席のフォスター夫人に急きたてられた運転手が、道中ずっと車を飛ばしたおかげで、間一髪、飛行機に間に合った。やがて、大西洋上空、はるかに高いところで、夫人はリクライニング・シートにゆったりと身を沈め、やっとパリに向かって進んでいくエンジンの音に耳を傾けていた。新たに生まれた思いは、まだ夫人の内に息づいている。自分が強くなったように感じ、奇妙なことだが、その感覚はすばらしいものだった。いくぶん息も上がっていたが、それ以上に、自分にそんなことができたことに純粋に驚いており、飛行機がニューヨークの東62番街から遠ざかれば遠ざかるほど、穏やかな、これ以上はないほどの思いが体中を満たすのだった。パリに着くころには、これ以上望むべくもないほどに、夫人は力に満ち、しかも冷静になっていた。会ってみた孫たちは、実物の方が写真よりもなおのことかわいらしい。まるで天使みたい。ほんとうに、なんてかわいいの。それから毎日、孫たちと一緒に散歩に出かけたり、ケーキを食べさせたり、おもしろい話を聞かせてやったりした。

週に一度、火曜日になると、夫に手紙を書いた――心のこもった、気取りのない手紙にはニュースやうわさ話をたっぷり詰めこみ、決まって「お食事は規則正しくお召し上がりになってくださいね。おそらく、わたしがそばにいないと、そうはなさらないのでしょうが」という言葉で結ぶのだった。

六週間が過ぎて、誰もが夫人がアメリカに、夫のもとへ戻っていくのを寂しがった。だれもが、というのは、つまり夫人をのぞいて、ということである。驚いたことに、ほかの者たちが考えるほど夫人はそこを離れることを苦にしていなかった。お別れのキスをするときも、夫人の態度には、どこかしら、きっとまたここに戻ってくる、それも、そう遠くない将来きっと、という様子がうかがえたのである。

とはいうものの、貞淑な妻である夫人は、滞在を延ばそうとはしなかった。ちょうどパリ到着から六週間目、夫人は夫に電報を打つと、ニューヨーク行きの飛行機に乗った。

アイドルワイルド空港に到着して、フォスター夫人は迎えの車が着ていないかどうか、注意深く探した。むしろそうでないことがわかっていくぶんうれしかったと言ってよいだろう。だが、夫人はきわめて冷静なまま、タクシーまで荷物を運んでくれたポーターにもチップを過分に与えるようなこともしなかった。

ニューヨークはパリよりも寒く、通りの溝には汚れた雪の塊がいくつも残っている。タクシーは東62番街に到着し、フォスター夫人は運転手に頼んで、ふたつの大きなスーツケースを階段の上まで運ばせた。それから車代を払うと、ベルを鳴らす。夫人は待った。だが返事はない。確かめるために、もういちどベルを鳴らすと、家の奧、食料貯蔵室の方で、ベルがジリジリと鋭い音で鳴っているのが聞こえた。だが、だれも出てこない。

そこで自分の鍵を出して、ドアを開けた。

最初に目に飛びこんできたのは、郵便受けに入りきらずに、あふれて床に落ちた手紙の山だった。なかは暗く、冷え切っている。埃よけのシートが大時計にかかったままになっていた。冷え切っているにもかかわらず、空気はどこか重苦しく、夫人がこれまで嗅いだことのないような、かすかに奇妙な臭いが漂っていた。足早に玄関ホールを横切って、またたくまに奧の左の角を曲がってそこを離れた。なにかしらの思惑と意図があるとしか思えない動作である。そこには噂を追求したり、疑念を確かめようとするときの女のもつ気配があった。数秒後、戻ってきた顔には、満足げな笑みが微かに浮かんでいた。

これからどうしようかと考えているかのように、玄関ホールの真ん中に立ち止まる。それから突然、身をひるがえして夫の書斎に入っていった。机の上にアドレス帳がある。ざっと探してから、受話器を取り上げ、ダイヤルを回した。

「もしもし。あのですね――こちらは東62番街の9です。……はい、そうです。すぐにどなたか寄越していただけませんこと? そうなの。二階と三階のあいだで停まってしまったようなんです。ともかく、そのあたりを指示器が指したままなんです。……すぐ来ていただけます? それは助かりますわ。わたしの脚ではもうそんなに階段を何段も上がっていくわけにはいかないんですの。どうもありがとうございます。それじゃ、また」

夫人は受話器を置くと、椅子にすわって夫の机に向かい、エレベーターを直しにやってくる修理工を辛抱強く待った。


The End


(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)

※※サイトのリニューアルを始めています。これまでの更新履歴となる"all my histories" はまだできていません。ほかにもいくつか手直しが必要ですが、今回はトップページのリニューアルと、"about this site" のページを更新しました。またお暇な折りにでも、のぞいてみてください)

ロアルド・ダール 「天国へ上る道」その5.

2007-09-16 22:55:44 | 翻訳
第五回

翌朝、フォスター夫人は早くに目が覚め、八時半には準備をすませて階下におりていた。

九時を少しまわったところで、夫が姿を見せた。「コーヒーをいれてくれないか」

「ごめんなさい、あなた。でも、クラブではおいしい朝ご飯の用意ができているはずですわ。車ももう来ています。待ってるんですのよ。わたしも準備はすっかり整っています」

ふたりは玄関ホールに立っていた――このところふたりが顔を合わせているのはいつも玄関ホールのようだった――夫人の方は帽子を被り、コートを着こみ、ハンドバッグを手にしており、フォスター氏はエドワード七世時代ふうの風変わりな仕立ての、襟の高いジャケットを着ている。「荷物はどうしたんだ」

「空港にあります」

「ああ、そうだったな」夫は言った。「もちろんそうだ。クラブに送ってくれるつもりなら、そろそろ出かけた方がいいな?」

「そうしましょう」夫人の声は悲鳴に近かった。「さあ、行きましょう――お願い」

「葉巻を何本か取ってこなくては。すぐに行くよ。先に行ってなさい」

夫人は外に出て、運転手が立っているところへ向かった。夫人が来たのを見て運転手がドアをあけた。

「いま何時?」夫人は運転手に聞いた。

「じき九時十五分になります」

フォスター氏は五分ほどたってから出てき、のろのろと階段を降りるその姿を夫人は見た。あんなふうに細くてぴったりしたズボンをはいていると、まるで山羊の脚みたい。昨日と同じように途中で立ち止まって、空気のにおいを嗅ぎ、空模様を確かめる。空は晴天とまではいかなかったが、霧の合間から一条の陽の光が差しこんでいた。

「今日は君にも運がめぐってくるようだな」夫人の隣に乗り込みながらそう言った。

「急いで、お願い」夫人が運転手に声をかける。「膝掛けなんてどうでもいいわ、わたしがやります。急いで出てちょうだい。遅くなったわ」

運転手は運転席に戻ると、エンジンをかけた。

「しまった」急にフォスター氏が声を上げた。「運転手、ちょっと待ってくれ」

「どうしたんですの、あなた」夫はオーヴァーのポケットをあちこちさぐっている。

「君から渡してもらおうと、エレンにプレゼントを用意していたんだ。おやおや、いったいどこにいってしまったんだ。家を出るときは確かに手に持っていたと思ったんだが」

「そんなもの何も持っていらっしゃいませんでしたわ。どんなプレゼントなんですの?」

「小さな箱で白い紙に包んであった。昨日、君に渡すつもりで忘れていたんだ。今日こそはちゃんと渡しておかなけりゃ」

「小さな箱!」フォスター夫人は悲鳴をあげた。「小さな箱なんて見たこともありませんわ」それから後部座席を死にものぐるいで探し始めた。

夫はなおもポケットを探った。それからコートのボタンを外し、ジャケットのあちこちを叩きだした。「くそっ。寝室に忘れてきたんだ。すぐ戻る」

「まあ、そんな。時間がないんですのよ。そんなものどうだっていいじゃありませんか。郵便で送ればすむことですわ。どうせまたらちもない櫛かなんかでしょう、あなたいつもあの子に櫛をあげるんだから」

「櫛のどこが悪いんだ、教えてくれ」その怒りがあまりに激しかったので、一瞬、夫人は自分の問題を忘れてしまった。

「そんな意味じゃなかったんです、ほんとうよ。でも……」

「ここで待っていなさい」有無を言わさぬ調子で言った。「取ってくるから」

「急いでね、あなた。どうか、ほんとうに急いでちょうだい」

夫人は座ったまま、ひたすら待ち続けた。

「運転手さん、いま何時?」

運転手は腕時計を確かめた。「そろそろ九時半になります」

「空港には一時間で着けるわね?」

「そのぐらいで行けると思いますよ」

そのとき、不意にフォスター夫人は何か角張った白いものが、夫の座っていた座席の隙間から顔を出しているのに気がついた。手を伸ばして引っぱりだしてみると、紙で包んだ小箱である。そのとき、夫人にはどうしても、まるで人の手でむりやり奧まで押しこめられたように思えてならなかった。

「ここにあったわ!」夫人は叫んだ。「見つかったわ。ああ、なんてことでしょう、あの人ったら見つかるまで戻ってこないつもりなのよ! 運転手さん、すぐに――急いで家まで行って、あの人にすぐにくるよう言ってくださいな」運転手は、いかにもアイルランド系という、薄い、きかん気らしい口元をした男で、そうしたことはどうでもよさそうだったが、それでも車から降りて、階段を上ると表玄関まで行ってくれた。だが、すぐに引き返す。「ドアには鍵がかかっていました」運転手が告げた。「鍵はお持ちですか?」

「ええ――ちょっと待って」夫人は大慌てでハンドバックのなかを引っかきまわしはじめた。小さな顔は不安でこわばり、唇は薬缶の口のようにすぼめられている。

「あったわ! いいえ――わたしが行きましょう。そのほうが早いわ。わたしならあの人がどこにいるか知ってるんですもの」

夫人は急いで車を出ると、表玄関に通じる階段を、片手に鍵を握ったまま駆け上がった。鍵を鍵穴に入れてひねろうとした――その瞬間、彼女の動きが止まった。頭を寄せて、そこでそのまま微動だにせず立ちつくす。大急ぎで鍵を開け、家に入ろうとしたままの姿勢で、全身は固まってしまっていた。そこで待った――五秒、六秒、七秒、八秒、九秒、十秒、待ち続けた。そこに立つ彼女の姿、頭をもたげ、全身を緊張させているその姿は、まるで、そこからはるか離れた家の奧から聞こえてきた物音が、もう一度、聞こえはしないかと待ちかまえているようでもあった。

そう――あきらかに彼女は耳をすませていたのだった。全身全霊で聞こうとしていた。事実、耳はドアにどんどん近づき、やがてドアにぴたりとついた。いまやドアにしっかりと耳をつけ、さらにもう数秒間というもの、そのままの姿勢、頭をあげ、耳はドアに、片手に鍵をにぎりしめ、いまにも家に入りそうな、だが実際には入らず、そのかわりに、家の奧から微かに聞こえる音を聞き、つきとめようとしているかのようだった。

突然、夫人の顔がぱっと明るくなった。鍵を引き抜くと、階段を駆けおりた。

「もう遅いわ!」夫人は大きな声で運転手に言った。「あの人なんて待ってはいられない。そんなことしてられないわ。飛行機に遅れてしまう。急いでちょうだい、運転手さん、急いで。空港へ行ってくださいな」


(明日最終回。夫人の運命やいかに)

ロアルド・ダール 「天国へ上る道」その4.

2007-09-15 22:41:02 | 翻訳
第四回


言葉を書ける手間さえ惜しんで、フォスター夫人は車から飛び降りると、空港ビルの正面入り口へと急いだ。空港内は大勢の人であふれかえり、そのほとんどは、がっくりと肩を落とした乗客たちが、チケットカウンターのまわりでじっとしているのだった。夫人は人をかきわけながら進み、係員に尋ねた・

「はい」と彼は答えた。「お客様の便はいま現在出発を見合わせております。ただ、あまり遠くにはいらっしゃらないでください。天候は間もなく回復するようですので」

夫人はあいかわらず夫が腰を下ろしたままでいる車に戻って、この知らせを伝えた。「ですけどね、あなた、どうかもうkらっしゃって」夫人は言った。「ここにいらっしゃってもしかたがないわ」

「そうしよう」夫は答えた。「運転手が戻れるようならな。君、戻れそうかね?」

「行けると思いますよ」運転手は答えた。

「荷物は出したんだな?」

「はい、さようでございます」

「ではあなた、ごきげんよう」フォスター夫人はそう言うと、身を車に寄せて、夫の白髪混じりのひげに覆われた頬に、軽くキスをした。

「じゃあ行ってきなさい。旅を楽しんでおいで」

車が行ってしまうと、フォスター夫人はひとりになった。

それからあと、その日は夫人にとって悪夢のような一日となった。できるだけ航空会社のカウンターに近いベンチに腰かけたまま、一時間、また一時間と過ぎていった。三十分おきに立ちあがってはまだ状況は変わらないかと係官に尋ねる。だが答えは決まって、もうしばらくお待ちください、霧は間もなく晴れるでしょう、ということだった。ついに夕方の六時を過ぎたところで、ついにスピーカーから、明朝十一時まで出発は延期されます、というアナウンスが流れてきたのだった。

フォスター夫人はこの知らせを聞いて、どうしたらいいかわからなくなった。ベンチに座ったまま、たっぷり半時間ほど、立ちあがることもできず、疲れてもうろうとした頭で、今夜どこに泊まったものかとあてどなく考えていた。空港を離れるのはいやだった。夫の顔など見たくもなかった。あのひとのことだから、きっと、どうにかしてわたしをフランスに行かせまいとするだろう、と思うと、身がすくんだ。ここでこのまま、ベンチにすわって一夜を過ごすほうがよほどましだわ。それが一番確実のように思えた。だが、そうするにはあまりに疲れすぎており、やがて、わたしのようなおばあさんがそんなことをするなんて、馬鹿げたふるまいにちがいない、と考え直した。そこでとうとう電話のところまで行って、家にかけたのだった。

夫はちょうどクラブへ行こうと家を出るところだったので、自分で電話に出た。夫人は状況を説明し、召使いはまだ家にいるかどうか尋ねた。

「みんなもう出かけたよ」夫は答えた。

「でしたらわたしは今夜、どこかに部屋を取ることにします。ですからわたしのことはどうかおかまいなく」

「何を馬鹿なことを言っておるのだ。ここにいつでも好きなだけ使える大きな家があるじゃないか」

「みんな出払ってしまったじゃありませんか」

「じゃあわたしがいてやろう」

「だって家にはもう食べるものもないんですのよ。ほんとうに何も」

「帰る前に何か食べてくればいい。分別のない女のようなことを言うな。なんでもかんでも、おまえはどうしてそんなくだらないことで大騒ぎをするのだ」

「その通りね。ごめんなさい。ここでサンドイッチでも食べて帰ります」

外は霧も少し晴れかけてはいたが、それでも長い距離を徐行運転で進まなければならず、62番街の屋敷に着いたときは、夜も更けていた。

帰ってきた音を聞きつけて、夫が書斎から出てきた。「やあ」書斎のドアのわきで夫が言った。「パリはどうだったかね?」

「明日、十一時に出発です。今度こそ間違いありません」

「霧が晴れたら、の話だ」

「もう晴れ始めています。風もでてきましたし」

「だいぶ疲れているようだな。さぞ気が揉めた一日だったんだろう」

「それはゆっくり過ごした、というわけにはいきませんでしたけど。ともかく、上がって休むことにします」

「明朝の車を頼んでおいてやったよ。九時に来る」

「あら、それはご親切に。今度はほんとうに、わざわざお見送りしていただかなくて結構ですのよ」

「ならやめておこう」夫はおもむろに言った。「見送るのはよすよ。だが途中、クラブにまわってわたしをそこで落としてくれたまえ」

夫人は夫に目をやったが、そのとき、夫の姿が自分から遠く隔たり、境界線の彼方に立っているように思えた。不意に小さくなり、はるか彼方に遠ざかって、もはや何をしようとしているのか、何を考えているのか、それどころかいったい何者なのかさえもわからなくなってしまったような気がした。

「クラブがあるのはダウンタウンですわ」夫人は言った。「空港へ行く方向じゃありません」

「時間なら十分あるだろうに。それとも君は私をクラブで落とすのが、気が進まないのかね?」

「とんでもない――もちろんおっしゃるとおりにいたします」

「それは結構。じゃ、明日の朝、九時に」

夫人は二階の寝室にあがると、その日一日ですっかりくたびれていたために、横になるやぐっすりと眠ってしまった。


(この項つづく)

ロアルド・ダール 「天国へ上る道」その3.

2007-09-14 22:50:24 | 翻訳
第三回

執事がそう答えたとき、ドアが開いてフォスター氏が玄関ホールに現れた。立ったまま、つかのま妻の顔をじっと見つめたので、妻の側も見返した――小柄だが、きびきびとした老人で、豊かな顎髭はやした顔は、アンドリュー・カーネギーの古い写真に驚くほどよく似ていた。

「さて、と。あの飛行機に乗ろうと思えば、そろそろ出かけた方が良かろう」

「ええ、そうですわ、あなた。もう準備はすっかり整っているんですのよ、車も待ちかねてますわ」

「結構」そういうと、首を傾げて夫人の顔をまじまじと見つめた。その首の傾げ方には独特のものがあって、小刻みに小さく素早く揺するのである。そうやったまま組み合わせた手を、胸の当たりまで持ち上げていたものだから、どこか立ちあがったリスのようにも見えた――セントラル・パークからやってきた敏捷で賢い、年取ったリス。

「ウォーカーがあなたのコートを持ってきてくれましたわ。お召しになって」

「すぐいくよ」彼は言った。「ちょっと用足しに行ってこよう」

夫人は待った。背の高い執事が隣でコートと帽子を手に立っている。

「ウォーカー、わたし間に合うかしら?」

「ご心配いりません、奥様」執事は答えた。「きっと大丈夫でございますよ」

やっとフォスター氏が戻ってきたので、執事がコートを着せかけた。フォスター夫人は外へ急ぎ、ハイヤーのキャデラックに乗り込んだ。そのあとからやってきた夫の方は、屋敷の階段をゆっくりとおりながら、途中で止まって空を眺めたり、朝の冷たい空気をかいだりしている。

「少し霧があるな」妻の隣に腰をおろしながら言った。「いつもここらより空港の方が霧は濃いからな。飛行機が運航中止になったとしても、驚くにはあたらんね」

「そんなこと、おっしゃらないで。お願いですから」

ふたりはロング・アイランドの橋を渡り終わるまで、口を開くこともなかった。

「召使いのことはすべてわたしが手配しておいたからな」フォスター氏は言った。「みんな今日のうちに出ることになっておる。六週間分の給料の半分はもう払ってやったし、ウォーカーには、途中で戻ってほしいようなことがあれば電報を打つと言っておいたよ」

「わかってますわ」夫人は答えた。「ウォーカーからも聞いてますから」

「わたしは今夜からクラブへ行くよ。クラブに泊まるのもいい気分転換になるだろう」

「そうですわね、あなた。わたしもお手紙、差し上げますわ」

「家の方にもときどきは不都合がないか確かめたり、手紙を取りに行ったりすることにしよう」

「だけど、ほんとうはずっとウォーカーにいてもらって、様子を見てもらったほうがよかったんじゃなくて?」夫人はおずおずと聞いてみた。

「馬鹿馬鹿しい。そんな必要などない。第一、そうなれば給料を全額払わねばならん」

「そうですわね。もちろん」

「おまけにおまえには見当もつかんだろうが、連中ときたら屋敷に自分だけとなるといったい何を始めるものやらわからんのだ」フォスター氏はきっぱりと申し渡すと、葉巻を取りだして、銀のカッターで端を切り、金のライターで火をつけた。

夫人は膝掛けの下で手をきつく組んで、車のシートに静かに座っていた。

「お手紙、くださる?」夫人は尋ねた。

「書くかもしれん。だが、どうかわからん。何か特別なことが起こりでもしたら別だが、わたが筆無精ということは、おまえも知っておるだろう」

「わかってますわ、あなた。だから、あまりお気になさらないで」

車はクイーンズ・ブールヴァード沿いを走っていく。アイドルワイルドがある低湿地に近づくにつれて、霧はしだいに濃くなり、車は速度を落とさないわけにはいかなくなった。

「あら大変!」フォスター夫人は声をうわずらせた。「これじゃほんとうに間に合いっこないわ。いま何時かしら」

「さわぐんじゃない」老人は言った。「もうそういう問題じゃない。これでは飛行中止だろうよ。こんな天候で飛べるものか。わざわざ行きたがるおまえの気が知れんね」

確信はなかったが、ふと、夫の声に、いままで聞いたことのないような響きが混ざっているのを聞いたように思った。髭の下の表情がどんなふうに変わったのか、見極めることもできない。口元だけでもわかればいいのに。これまでにもなんどもそう思ってきたのだった。夫の目は、怒っているときをのぞけば、何の色も浮かばない。

「もちろん」夫は続けた。「万一飛ぶようなことがあっても、確かにおまえは正しいよ――もう間に合わんだろう。もうあきらめたらどうだ」

夫人は顔を背けて、窓の外の霧の向こうに眼をこらした。進につれて、霧はいっそう濃くなり、道路の縁と、向こうに広がる草地の境目をなんとか見分けるのがやっとだ。夫がまだ自分の方を見ていることはわかっていた。ふたたび夫にすばやく目を走らせると、自分の左目の隅、ぴくぴくと引きつっている箇所を、夫がじっと見ていることに気がついて、ぞっとするような思いがした。

「さて、どうする?」夫は言った。

「どうする、って何をどうするんですの?」

「飛行機が飛んだにしても、間に合うはずがない。こんな霧のなかでは早く走れるわけがないんだから」

そのまま夫は何も言わなくなった。車の徐行は続く。黄色いライトで目の前の道路を照らし、それでやっと進んでいるのだった。さまざまなライト、白いものもあれば黄色いのもあるライトが霧の中からいくつも現れたが、その向こうには、とりわけ大きく明るく輝くライトがずっと見えていた。

不意に運転手は車を停めた。

「ほら言わんこっちゃない」フォスター氏は大きな声をだした。「立ち往生だ。こうなるだろうと思っていたよ」

「そうじゃありません」運転手が振り返った。「着きました。空港です」


(この項つづく:空港についた夫人はどうなるのでしょう)

※音楽堂のレビューの項を追加しました。マニアックなログですが、Dream Theater の "Constant Motion" を書いています。You Tubeでも聴くことができるんですが、これはシングルカット版みたいで、ずいぶんカットしてある。シングル版だと、ふつうの曲になっちゃってて、うーん、って感じです。オリジナルはすごい。すごいけど、何を書いてるか意味不明かもしれません)

ロアルド・ダール 「天国へ上る道」その2.

2007-09-13 22:43:32 | 翻訳
仮に(何の確証もないのだが)夫の側に非があったとすれば、彼の仕打ちはまったくもって理不尽なものである。このささやかな、抗しがたい欠点を除いたら、フォスター夫人はこれまでずっと善良で愛すべき妻であったのだがら。三十年以上にわたって、貞淑かつ申し分なく夫につくしてきた。この点に関しては、疑問の余地がない。夫人みずからが、何ごとによらずひかえめな性質ではあったのだが、そう思っていて、これまでずっと、夫がわざと自分にいやがらせをしているのだ、と感じるたびにうち消してきた。だが近ごろでは何かにつけ、そうではないかと疑うようになっていたのだった。

ユージーン・フォスター氏は、もう七十歳になろうという年齢で、妻とふたりでニューヨーク東62番街にある六階建ての大きな屋敷に住んでおり、ほかに召使いが四人いる。屋敷はほの暗く、訪れる人もない。だが一月のある朝、この日ばかりは家中が沸き立つようで、使用人たちもせわしげに立ち働いていた。メイドの一人が一部屋ずつ、ほこりよけのシートを配って歩き、もう一人のメイドがそれを家具にかけていく。執事はスーツケースをいくつも階下におろしては、玄関ホールに集めていた。コックは台所から顔を出したまま執事にいろいろ聞いており、フォスター夫人は昔風の毛皮のコートに身を包んで、黒い帽子を頭のてっぺんにのせ、部屋から部屋を飛び回っては、いかにも作業の様子を監督するふりをしていた。ほんとうは、あのひとが書斎からすぐに出てきて、出発の用意をしてくれなければ、飛行機に乗り遅れてしまう、ということ以外には、何も考えられずにいたのである。

「いま何時になるの、ウォーカー」執事とすれちがいざまに夫人は尋ねた。

「九時十分でございます、奥様」

「車はもう来ていて?」

「はい奥様。外におります。これからお荷物を運び入れるところでございます」

「アイドルワイルド空港(※JFK空港の旧称)までは一時間はかかるわよね」夫人は言った。「わたしが乗る飛行機は十一時発なのよ。搭乗手続きのために三十分前には着いていなくちゃ遅れてしまうのに。ああ、もう遅れるに決まってるわ」

「お時間はたっぷりございますよ、奥様」執事は優しく声をかけた。「旦那様にはわたくしの方から、九時十五分にはここをご出発なさらなければ、と申し上げておきました。まだ五分ほどございます」

「ええ、そうね、ウォーカー。そうよね。でも荷物は急いで積んでくださいな、お願いよ」

夫人は玄関ホールを行ったり来たりし始め、執事がそこを通りかかるたびに時間を尋ねた。この飛行機にどうしても乗らなくちゃ、と、ずっと自分に言い聞かせていた。行かせてもらえることになるまで、何ヶ月もあの人を説得してきたんですもの。もし乗り遅れるようなことがあったら、あの人のことだから、きっと簡単に、じゃあ一切合切、キャンセルしてしまうがいいさ、とでも言うにちがいない。そもそもあのひとが空港まで見送りに行く、なんて言い出してきかないから、こんな大事になるのよ。

「ああ、神さま」夫人は声に出していた。「遅れそう、そうね、そうなのよ、わたしにはわかっている。わたしは遅れるんだわ」左目の脇の肉の部分が、はげしく痙攣していた。目からは涙があふれそうだ。

「ウォーカー、いま何時なの」

「九時十八分でございます、奥様」

「ああ、もうわたし遅れてしまうわね」声が大きくなった。「ああ、早く来てくれればいいのに」

こんどの旅行はフォスター夫人にとって重大なものだった。娘に会いにパリまでひとりきりで行くのだ。娘はたったひとりの子供で、フランス人と結婚したのだ。フォスター夫人にとってはそのフランス男などどうでもよかったが、娘のことはいとおしかったし、それ以上に三人の孫に会いたくてたまらなかった。どの子も写真でしか見たことがなかった。手紙で届いた写真を夫人は家中に貼っていたのだった。どの子もかわいい子供たちだ。夫人はその子たちを溺愛していた。新しく写真が送られてくるたびに、夢中になり、長いこと座ったままそれに見とれるのだった。いとおしげに見つめ、その小さな顔のどこかに、連綿と受け継がれてきた血のつながりがうかがえそうな特徴がないかと探すのだった。そうしてこのごろでは、ますます孫の近くで日々を過ごすことができないことがつらくてたまらなくなっていた。孫の家を訪れたり、散歩に連れて行ったり、何かプレゼントを買ってやったり、大きくなっていくのを見守ってやったりができないなんて。もちろん夫か未だ生きているうちからそんなことを考えるのは、まちがっているし、ある意味では不実な考えでもある、ということはわかっていた。もうひとつ、事業から引退したとはいえ、あの夫が、ニューヨークを離れてパリで生活するなどという考えに同意するはずがないということも。六週間も家を離れ、孫のところへひとりで行かせてくれるというだけでも、たいした奇蹟なのである。それはわかっているけれど、ああ、あの子たちといつも一緒に過ごすことができればいいのに。「ウォーカー、いま、何時?」

「二十二分でございます、奥様」

ロアルド・ダール 「天国へ上る道」その1.

2007-09-12 22:31:10 | 翻訳
今日からロアルド・ダールの "The Way up to Heaven" の翻訳をやっていきます。
ダールらしいあっと驚く結末は、まとめて読んだ方がいいかも。だいたい六回くらいをめどにやっていきますので、そのころにどうぞ。今回はどんな「びっくり」が待っているでしょうか。
原文は
http://www.daltonvoorburg.nl/file/5156/1068724209/The+Way+up+to+Heaven.doc
で読むことができます。

「天国へ上る道」

by ロアルド・ダール



 生まれてからこのかたずっと、フォスター夫人は電車や飛行機や船、あるいは劇場の開幕であっても、遅れるということに病的な恐怖感を抱いてきた。それ以外の面では、とりたてて神経質な女性というわけでもなかったのだが、こうしたものの時間に遅れるということを考えただけで、痙攣を起こすほどの不安に陥ってしまうのだ。左まぶたの隅が、ちょうどこっそりウィンクでもするようにピクピクとする程度ではあるのだが、この不快な症状は、電車であれ飛行機であれ、無事乗りこんでからも一時間ほど消えないのだった。

 ある種の人々にとっては、たかが電車に間に合うかどうかの懸念がここまで深刻な強迫観念になってしまうのは、きわめて想像しにくいことである。だが、駅に向かうために家を出る時間の少なくとも三十分前には、フォスター夫人はいつも、帽子もコートも手袋も身につけ、準備万端整えて、いつでもエレベーターから出られる状態になっている。もうそうなると腰を下ろす気にもなれず、そわそわと部屋から部屋へと歩き回っているころになって、妻の状態などとうに知っているはずの夫が、やっと自分の部屋から出てきて、そっけない声で、そろそろ出かけた方がいいんじゃないのかね、と言うのだった。

 フォスター氏が妻の愚かしさに苛立つのにも一理あると言えなくもないが、かといって必要もないのに妻を待たせ、途方に暮れさせてもいいという話にはなるまい。念のためにつけ加えておくと、実際に彼がそうしていたという確証があるわけではないのだが、それでも夫婦そろってどこかへ出かける段になると、彼のタイミングたるや見事なもので――つまり、ほんの一分か二分――、おまけにそれを素知らぬ顔でやってのけるものだから、このかわいそうな女性に対してひそかな意地悪を仕掛けているのがわざとではないとは、とても信じがたいところがあった。加えて、もうひとつ、彼には確実にわかっていることがあった――彼女(あれ)は、早く、早く、などと急きたてるようなことをするような女ではない。こうしたことに関しては、実に妻を厳しくしつけてきたのである。さらに、夫にはぎりぎり間に合う、という線を超えて待たせたならば、妻がほとんどヒステリーといってもいいほどの状態になることも知っていた。長い結婚生活のあいだには一度か二度特別に、気の毒な女性を苦しめるためだけに、電車に乗り遅れたこともあったらしい。

(この項つづく)

サイト更新しました

2007-09-11 18:51:18 | weblog
八月の初めに連載していた「二葉亭四迷あれこれ」を大幅に加筆修正して「文豪に聞いてみよう ~ 二葉亭四迷と新しいことば」としてサイトにアップしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

もうすごく苦労しました。
昨日一昨日とブログを休んだのも、そのためでございます。一瞬、書き上がらないかとも思いました。
読んでいたのはおもにアルチュセールだったんですが、それをダイレクトに使うんじゃなくて、何とかちがうふうに書いてみたかったんです。
アルチュセールなんて名前を出すのも恥ずかしいようなものですが。

ただ、自分が書いたのがどれほどの意味もないものでも、単にその昔書いた「英語大変記」とどれほどもちがわなくても、ここを通らなければどこにもいけないのだと自分に言い聞かせながら最後までいきました。

森鴎外の文章を紹介できただけで十分なのかもしれません。
弔文というのは、だいたいにおいていい文章が多い。冒頭で引いた漱石の「長谷川君と余」も、実にいい文章ですが、鴎外のそれはわたしは読むたびに涙が出てきます。鴎外にそれを書かせる何ものかがやはり四迷のうちにあったのだろうと思います。

昨日、一昨日と見に来てくださったかた、無駄足ふませてごめんなさい。元気にしております。ちょっと疲れたけど。
明日から、また翻訳やります。
何をやるか決めてないんだけど、短めの、楽でおもしろいものがいいなあ(笑)。
これから何か探すことにします。

お暇なときにでも、サイトまたのぞいてみてください。
更新情報も、新しくなりました。
更新情報にブックマークされてる方は、どうか変更よろしくお願いします(笑)。

なんかあの、やたらに長い更新情報もずいぶんたまったんで、そのうち整理します。翻訳に関しては、あとがきよりあっちの文章の方がまとまってるのが多いし(笑)。

それじゃ、また。
明日からもよろしく。
ふう、疲れました。頭の中はもうすっかりおがくずです。自分でも何を書いているのかよくわかりません。

コーラで乾杯

2007-09-08 22:57:20 | weblog
このあいだ、缶コーラを一本もらった。ブルトップを開けて一口飲むと、昔と同じ味がして、不意にいろんなことを思いだしてしまった。

いまではほとんど飲むこともないのだけれど、中学から高校にかけて、わたしが学校で飲むものといえば、コカ・コーラだった。
もちろん昼食時には、週番(わたしはこの言葉を高校を卒業してから初めて使ったことにいま気がついた。ものすごく懐かしい言葉なのだが、この文脈で意識することもなくすんなりでてきて、ちょっと感動している)がお茶を用意することになっていて、それを飲むのだが、放課後とか、部活が終わったあととかに飲むものといえばコカ・コーラだったのである。

中学にあがるまで、たぶんコーラなど飲んだことがなかったように思う。家で飲むのはお茶か牛乳、せいぜいカルピスぐらいで、炭酸飲料は相当大きくなるまで飲めなかったはずだ。

校舎の裏手にプレハブの売店があって、例の赤い自動販売機は売店の外にあった。売店のなかにも椅子や机はあったが、たいていそこに腰かけているのは大人っぽい高校生で、わたしたちは外のベンチが空いていればそこにすわって、もしそこがふさがっていればそのあたりに立ったまま、コーラを飲みながら、好きな男の子の話やクラスメイトのうわさ話に興じたのである。学校にお金を持っていって自分で好きなものを買って飲む。それだけのことが、ひどく大人になったような気がして、そういうときにはコーラがふさわしいように思ったのかもしれない。ともかく、わたしはいつもコカ・コーラの赤い缶を持っていたような記憶がある。

まだそうすることが楽しくてたまらない一学期のころだった。わたしたちが外のベンチに座って、ずいぶん大人になったような気分でいたときに、とある高齢の先生がやってきて、自動販売機の前に立った。使い方がわからないようで、小銭を投入する場所を探している。お釣りの返却口をのぞきこんだりしているので、わたしたちは先生に、ここをこうやったらいいんですよ、と教えてあげた。するとその先生はびっくりしたように、おお、そうか、と言うと、たいそう感激したように、君たちどうもありがとう、となんどもくりかえして缶コーヒーを手にすると、戻っていった。

その先生の授業は週に何度か受けていたのだが、確かにすこし浮世離れしたところのある先生だった。授業中にふっと口をつぐむと、いきなり生徒たちを放ったまま考えこんだり、かと思うと、教科書にも参考書にも載っていないような専門的な話が突然始まったりして、どこからともなく流れてきた、その分野ではずいぶん高名な人だという噂はほんとうらしい、とわたしたちも思うようになっていた。雰囲気といい、ひょうひょうとしたしゃべりかたといい、わたしたちはちょっと仙人かなにかを見るような感じでその先生のことを眺めていたように思う。

「先生、自動販売機、使ったことないんだね」
「そうだね。全然、わかってなかったもんね」
風にふくらんだワイシャツが遠くなっていくのを見送りながら、わたしたちは人助けでもしたような気分でいたのだろう。

それから何年かが過ぎ、学校にも慣れたというより長くいすぎたような気がしていたころだった。コーラを飲んだのも、何百回目くらいになっていたはずだ。そのとき、その先生がやってきて、まったく同じように自動販売機の前で立ち往生してしまったのである。相も変わらず、お金を入れたらいいかわからないらしく、返却口のプラスティックをカチャカチャ言わせたりしている。たまたま近くにいた中学生らしい女の子たちの一団が、先生、お金はここに入れるんです、そしたらここから出てきます、と口々に教えていたのだった。おお、そうか、君たちどうもありがとう、と言いながら去っていく先生を見送りながら、わたしは感動していたのだった。

おそらく先生は、わたしが入学するはるか前、おそらくそこに自動販売機が設置されてからこちら、いったい何度利用したかは定かではないが、ずっとわからないできたのだろう。自販機の使い方など、覚える気になりさえすれば、実に簡単なものだ。けれども先生は覚えることをしなかった。それくらい、専門の研究に没頭していたのだ。なんとすごいのだろう。そんなふうに、ひとつのことに夢中になれるなんて。

まわりでは、中学生たちが、自販機の使い方がわからなかったその先生のことを、かわいい、かわいい、と言い合っていた。その向こうでは一部始終を見ていた高校生の男子生徒たちが、あいつ、呆けてんじゃねえの、と悪口を言っていた。わたしは、なんでみんなわからないのだろう、と、ひそかに腹を立てたのだった。

コーラを飲んで思いだしたのがその先生のことだったのだ。
そうしていまはまた、その出来事を今度は別の角度から眺めてしまうのである。

たとえばパソコンを日常的に使えるからといって、パソコンの機能をすべて使いこなしているわけではない。わたしが使っている機能など、パソコン全体のごく一部だろう。そうして、それ以外のことをやろうとするとき、たとえばわたしは以前にHDDの交換をしたことがあるのだが、そのときはサポセンに電話したり、マニュアルを引っ張り出したり、検索で調べたり、ヘルプを使ったりしながら、さまざまな助けを借りながらやったわけだ。だが、つぎにその作業が必要になったとき、かならずやまたわたしには、マニュアルやヘルプの助けが必要だ。前の経験など、きれいさっぱり忘れているにちがいない。同じようにまたマニュアルやヘルプのお世話になるわけだ。まるで自販機と先生の関係と同じではないか。

別に浮世離れしているわけでも、何かに没頭しているわけでも、「かわいい」わけでも、呆けているわけでもない。ただ、必要ないことは覚えない、それだけの話だったのではないか。

簡単かどうか、というのは、その人が置かれた条件によるものにすぎない。人によってはHDDの交換など、自販機でジュースを買うのと同じぐらいのものだろう。ある人にとってはそれがどんなに簡単なことであっても、別の人にとって、日常の動作ではなく、覚える気もないことは、覚えられないのである。
一定の年齢を超えてしまうと、どうやら人間はそうなるものらしい。

ただ、いまのわたしは、そうだったのではあるまいか、と思うけれど、それが「正解」だとも思わないのである。

わたしたちは、人のことをさまざまに理解する。この人がこうしたのはこんな人だからだ、と考える。けれど、それはどこまでいっても、自分が見たいその人の姿でしかない。わたしが変われば、わたしの見方も変わる。同じ先生の、同じ行動が、「浮世離れした先生」から「研究に没頭していた先生」へと見えたように、そうしていま、覚える気がないことは覚えない、ただそれだけだ、というように。

ただ、人は、そんなふうに一言で言い表せるものなのだろうか。
同じ人間が、さまざまな状況で、さまざまにふるまう。おおまかな傾向とか、癖、といったものはあるかもしれないが、それ以上のものはないのではあるまいか。さまざまな状況でさまざまにふるまって、自分でもどうするか予想もつかない、あとになって自分の行動の理由をあとづけていく、それが人間なのではあるまいか。

そう考えると、そもそも「正解」も「誤解」もないことになる。

わたしたちはいつもその人の近似値を求めながら、きっとそれに失敗しているのだろう。
けれど、それがどれほどずれていたとしても、勝手に決めつけて、そのずれが明らかになったときに、失望した、見損なった、なんて勝手なことを言いさえしなければ、それでいいんじゃないだろうか。決めつけず、少しずつ修正しながら、理解しようとし続けていきさえすれば、少々トンチンカンだったり、多少ロマンティックに過ぎたり、変な色がついていたりしたとしても、大丈夫なんじゃないだろうか。

だから、もしある人の見方が、あなたのセルフイメージとずれていたとしても、大目に見てあげてほしいのである。その人はたぶん会うたびに、話をするたびに、あなたの書いたものを読むたびに、修正を続けるから。そうして、あなたもおそらく同じことをやっているのだから。

わからなくても、まちがっても大丈夫。時間はいくらでもある。

新しい買い物

2007-09-07 23:05:58 | weblog
最近、炊飯器を買った。

わたしは基本的に、本を除くとあまり買い物をしない人間で、日本の景気回復にはいかなる面でも貢献していない自信がある。なかでもしないのが「衝動買い」というやつで、あるものの購入が必要になってくると、いろいろ情報を集め、人から話も聞き、さらに実物をいくつか見て、それでもすぐには買わず、三ヶ月くらい「どうしても買わなくては」という気分が高まってくるのを待つのである。電化製品の購入を検討するときというのは、たいていがすでに故障しているので、そんな悠長なことは言っておれないはずなのだが、なければないでどうにかなるもので、三ヶ月の気持ちの醸成期間はとらないにしても、やはり比較検討の時間は必要なのだ。そうでなければ、前と同じメーカーのものを買うか。ただ、わたしは物持ちまでいいので(笑)、以前、コーヒーメーカーが故障して、修理に出したら、この型番のつぎの機種がすでに製造中止になっているので、この機種の部品はもうない、と言われて新しいのを買わざるを得なかったのである。

ところが、この炊飯器だけは、めずらしいことに衝動買いに近かったのである。
実はそれまで使っていた炊飯器、マイコンジャーというやつなのだが、マイコン(いまでもそんな言い方をするのだろうか?)の具合がおかしくなってしまったようで、ときどき炊飯をせずに、保温状態になってしまうのである。
これは悲しいよ。
さあ、おかずも作った。おみそ汁もできた。ご飯だご飯だ、と、炊飯器をぱかっと開けたら、水に浸かっていくぶん膨らんだ生米が水底に沈んでいるのを見るのは。
そこで、胸の中で舌打ちしながら(わたしは子供の時に舌打ちするたびに親からひどく怒られたので、未だに舌打ちができないのである)、「白米高速」のスイッチを押して、これを押すととりあえずは20分ほどでご飯が炊けるから、それをひたすら待つのである。
そのあいだ、焼いた鮭も、炒めたキャベツも徐々に冷えていくわけだ。まあ食べるときは温め直すけれど。

そういう気まぐれをたまに起こすけれど、基本的にご飯が炊けないわけではない。
炊飯器というのは毎日使うもので、修理に出すタイミングをつかむのもむずかしい。何を考えているかよくわからない人にペースを合わせていくためには、根本的に相手を信頼するしかない、ということを経験則として学んでいたわたしとしては、何を考えているかわからない炊飯器を相手に、それを実践していたわけである。

ところがその日、たまたまある臨時のバイトをやって、その報酬を振り込みではなく現金でいただいていたのである。なんとなく気分も大きくなって、ショッピングモールを歩いていたのである。そこへ、銀色に輝くIH炊飯ジャー(IHって何の略だ?インター・ハイか?)が赤札40%OFFとなっていたのである。考えてみれば、いまの気まぐれな炊飯器も、買ってから9年を超える。壊れているとは言い切れない。だがしかし、ときどき炊けない。この状態は、壊れていると言ってもいいのではあるまいか。だがしかし、未だ炊飯器を検討しているわけではない。これが買っても良い機種であろうか……と、しばらく悩んだ。いやいや、まだ壊れていないのだ、といったんそこをあとにしたのだが、しばらくして、やっぱり買おう、と思い直したのだった。

わたしが前に買った頃は、炊飯器といえば白いものだった。
ところがこの炊飯器は銀色に輝き、なんとなくC3POに似ていなくもない。先にも書いた、去年買ったコーヒー・メーカーはなんとなくダース・ベイダーに似ていて、つぎに買うのはチューバッカか、という気がしないではないのだが、チューバッカに似ている電化製品というのは見当もつかないので、きっとそれはないだろう。

ともかく、このC3PO、実にすばらしい炊飯器なのである。ほんとうに、ご飯がおいしく炊けるのである。文明はわたしが知らない間にも、着々と進歩していたのだなあ、としみじみ感動してしまった。

ところで、この炊飯器、ご飯が炊けるとアマリリスのメロディの最初の二小節で教えてくれる。
例の
♪ソラソド ソラソ 
である。
どうもここだけというのは気持ちが悪いのである。起があれば、承、呼びかけがあれば、応えがほしいのである。
しかたがないので、いつもわたしは口で
♪ララソラ ソファミレ ミド
と歌って応えているのだが、いっそどこかにつくってほしいものである。
家中の電化製品が順番にフルコーラス演奏してくれれば、きっとさぞかし楽しいだろう。わたしが買うかどうかはまた別問題なのであるが。

そうそう、古い炊飯器、捨てるのが忍びないなあと思いながら、それでも置き場所がないので、粗大ゴミの回収日に出したのである。
出したその足で、通りを渡ったところにあるパン屋に行って、また横断歩道を渡ってゴミ捨て場の横を通りかかった。すでに炊飯器の姿は消えていたのである。
新たな場所で活躍してくれることを祈るのみだ。
そこではもう気まぐれをおこすんじゃないよ。