その3.
通用口で馬を降りたとき、一瞬、痩せた老婦人がこちらをのぞいているのがちらっと見えた。どうやら「大伯母さん」らしい。
自分を待っていた、十分過ぎるほどの昼食のおかげで、ストーナーにも自分の置かれている極めて特殊な状況がこれからどうなっていくのか、考える余裕が生まれた。本物のトムが、四年間の不在を経て急に戻ってくるかもしれないし、いつ何時、手紙を寄越すかもしれない。もしかしたら農場の相続人として、このニセモノのトムが書類に署名しなければならなくなるかもしれず、これもひどく困ったことになるだろう。親戚がやってくるかもしれないし、その人物は伯母さんのよそよそしい態度を見習ってはくれないかもしれないのだ。いずれにせよ自分の恥ずべきふるまいが、白日の下にさらされることに変わりはない。
だが、それより外の道というと、自分を待ち受けているのは、果てしない空と海へ続くぬかるんだ道だった。とにもかくにも農場は、すかんぴんの自分に、ほんの一時ではあっても避難所を与えてくれたのだ。農作業なら自分がこれまで経験してきた数多くの仕事のうちのひとつである。本来、自分には受ける権利がなかったもてなしに見合うような仕事だってできるはずだ。
「夕食は豚肉の冷製でよろしゅうございますか」いかつい顔のメイドが、テーブルを片づけながらそう聞いた。「それとも温かい方がよろしいでしょうか」
「温かいのにしてくれ。タマネギを添えて」ストーナーは答えた。人生の内で、いま、この時初めて、彼は即断した。そうして、そう命じた瞬間に、自分がここにとどまるつもりであることがわかった。
ストーナーは暗黙のうちに決まり、割り当てられたらしいこの家における「自分の分」というものを、厳格に守った。農場の仕事に加勢するようになっても、指図を受ける側にまわり、まちがっても自分から命令を出すようなことはなかった。ジョージ老人と葦毛の子馬、そうしてバウカーの子犬だけがこの世の友であり、それ以外は身も凍るほどの沈黙と敵意に囲まれていた。農場の女主人は、一向に姿をあらわさない。一度、大伯母が教会へ出かけたすきに、こっそりと客間に忍び込んでみたことがあった。自分が非合法的に譲り受けた地位と悪評の本来の持ち主である青年について、いくばくかでも知ることができれば、と思ったのである。
写真は何枚も壁に貼ってあったし、きちんと額装してあるものまであったが、探している写真は、それに類するものさえなかった。だが、とうとう人目につかないところにしまいこまれたアルバムの中に、求めるものを見つけた。
『トム』とラベルに記された一連の写真である。まるまるとした三歳の子供、風変わりな服がちっとも似合っていない十二歳ぐらいの少年、いやでたまらないというふうに、クリケットのバットを持っている、なかなか顔立ちの整った十八歳の青年は、髪を真ん中でぺったりと分けている。最後に、どこかしら向こう見ずな表情を浮かべた若い男の写真があった。この最後の写真をストーナーは食い入るように見詰めた――彼との類似点は見間違いようがない。
ふだんからあれやこれやと話好きなジョージ老人の口から、トムのどのようなところがあそこまでみんなに憎まれ、疎んじられているのか、何とか聞き出そうと幾度となく探りを入れてみた。
「このあたりの人間は、ぼくのことをどんなふうに言っているんだろう?」ある日も遠くの畑から帰る道すがら、ストーナーは聞いてみるのだった。
老人は頭を振る。
「やつらはろくなことは言いませんで。ひどいもんでございまよ。つらいお気持ちは、ようわかりますよ」
それ以上はっきりしたことは何も、老人の口からは明らかにはならなかった。
クリスマスもほど近い、澄んだ空気が凍てつくような夕方のことだった。ストーナーはあたり一帯を見渡す果樹園の一隅に立っていた。そこかしこにランプやろうそくの火がまたたいているのが見える。その火が物語るのは、クリスマスの善意や喜びに彩られた人びとの暮らしだった。背後には、陰気で静まりかえった農場の屋敷がある。そこでは誰も笑わず、ケンカのにぎやかささえ無縁の場所だった。
暗い影におおわれた家の、灰色に浮かび上がる横長い正面を、振り向いたまま眺めていると、扉が開いて、ジョージ老人が急ぎ足にこちらにやってくるのが見えた。ストーナーの耳にかりそめの名が、不安げに呼ばれるのが届く。瞬時に何かしら厄介なことが起こったことを悟った。彼の目には、突如、この聖域がまさに平和で満ち足りた場所に映り、ここから追い出されることが耐えがたいまでに恐ろしく思えてきた。
「トムぼっちゃま」老人がしわがれたささやき声で言った。「ここから二、三日、お逃げになってください。マイケル・レイが村に戻ってきて、見つけ次第、撃ち殺す、と言うております。そうとも、やつならかならずやりましょう。人殺しでもやりかねない形相でしたから。夜影に紛れて行ってくださいまし。なんの、一週間かそこらでございますよ。やつもそうそうこっちにゃおれないでしょうから」
「でも、ど…どこへ行ったらいい?」ストーナーは口ごもった。老人に取り憑いている明らかな恐怖が、自分にも乗り移ってくる。
「海岸沿いにまっすぐ進んで、パンチフォードへ行って、そこで隠れていてくださいまし。マイケルがつつがなく帰っていったら、わしはあの子馬でパンチフォードのグリーン・ドラゴン亭まで行きます。グリーン・ドラゴン亭に子馬がつないであったら、戻っていらっしゃって大丈夫だという合図でございますよ」
「だが……」ストーナーはためらっていた。
「ここに金が用意してございます」と老人は言った。「奥様も、わしがいま言った方法が一番良かろうとおっしゃって、これをくださいました」
老人は三枚の一ポンド金貨と、銀貨を数枚差し出した。その夜、老婦人にもらった金をポケットに入れて、農場の裏木戸からひっそりと出て行きながら、ストーナーはこれまでにないほど、自分がいかさまを働いているような気がしていた。ジョージ老人とバウカーの子犬が、庭で黙ったままじっと見送ってくれている。おれはもうここへ戻っては来ないだろう。この忠実なひとりと一匹の友だちが、彼が戻ってくる日を心待ちにするだろうことを考えると、良心の呵責に胸を衝かれる思いがした。おそらくいつかは本物のトムが帰ってくるだろう。そうして、人を疑うことを知らない農場の人びとは、同じ屋根の下で共に暮らしたあの客人はいったい誰だろうといぶかしく思うにちがいない。
自分自身については、さしあたっての心配がなかった。三ポンドばかりでは、たいしたことはできそうもなかったが、金勘定をペニーでやってきたような男にとっては、元手にするには十分だ。以前この道を、何の望みもない浮浪者として歩いてきた自分に、運命は気まぐれな幸運を授けてくれた。だから今度も何か仕事が見つかって、再出発するチャンスがめぐってくるかもしれない。農場から遠ざかるにつれて、彼の意気は上がっていった。本来の自分自身に戻ったことで、安堵する気持ちも生まれていた。もう誰かの影になったような、不安な状態でいることもない。
自分の人生と不意に交錯した執念深い敵のことは、ほとんど念頭になかった。後ろへ振り捨ててしまえば、そんな関係など、もはや気にすることもない。何ヶ月かぶりに、何の憂いもなくなり心も軽くなって、彼は鼻歌を歌い始めた。
そのとき、道に張り出した樫の大木の陰から、銃を持った男がぬっと現れた。誰だろうといぶかる必要はなかった。月明かりにうかびあがる白くこわばった顔には、憎しみの光が放射されているかのようだ。ストーナーがこれまで生きてきた浮き沈みのある人生の中でも、見たことのない表情だった。
ストーナーは横に飛びすさると、道に沿った生け垣を抜け、必死で逃げようとしたが、うっそうと繁る枝に腕をとられた。運命の猟犬は、この細道で彼を待ち受けていたのだ。そうして今度は有無を言わせなかった。
通用口で馬を降りたとき、一瞬、痩せた老婦人がこちらをのぞいているのがちらっと見えた。どうやら「大伯母さん」らしい。
自分を待っていた、十分過ぎるほどの昼食のおかげで、ストーナーにも自分の置かれている極めて特殊な状況がこれからどうなっていくのか、考える余裕が生まれた。本物のトムが、四年間の不在を経て急に戻ってくるかもしれないし、いつ何時、手紙を寄越すかもしれない。もしかしたら農場の相続人として、このニセモノのトムが書類に署名しなければならなくなるかもしれず、これもひどく困ったことになるだろう。親戚がやってくるかもしれないし、その人物は伯母さんのよそよそしい態度を見習ってはくれないかもしれないのだ。いずれにせよ自分の恥ずべきふるまいが、白日の下にさらされることに変わりはない。
だが、それより外の道というと、自分を待ち受けているのは、果てしない空と海へ続くぬかるんだ道だった。とにもかくにも農場は、すかんぴんの自分に、ほんの一時ではあっても避難所を与えてくれたのだ。農作業なら自分がこれまで経験してきた数多くの仕事のうちのひとつである。本来、自分には受ける権利がなかったもてなしに見合うような仕事だってできるはずだ。
「夕食は豚肉の冷製でよろしゅうございますか」いかつい顔のメイドが、テーブルを片づけながらそう聞いた。「それとも温かい方がよろしいでしょうか」
「温かいのにしてくれ。タマネギを添えて」ストーナーは答えた。人生の内で、いま、この時初めて、彼は即断した。そうして、そう命じた瞬間に、自分がここにとどまるつもりであることがわかった。
ストーナーは暗黙のうちに決まり、割り当てられたらしいこの家における「自分の分」というものを、厳格に守った。農場の仕事に加勢するようになっても、指図を受ける側にまわり、まちがっても自分から命令を出すようなことはなかった。ジョージ老人と葦毛の子馬、そうしてバウカーの子犬だけがこの世の友であり、それ以外は身も凍るほどの沈黙と敵意に囲まれていた。農場の女主人は、一向に姿をあらわさない。一度、大伯母が教会へ出かけたすきに、こっそりと客間に忍び込んでみたことがあった。自分が非合法的に譲り受けた地位と悪評の本来の持ち主である青年について、いくばくかでも知ることができれば、と思ったのである。
写真は何枚も壁に貼ってあったし、きちんと額装してあるものまであったが、探している写真は、それに類するものさえなかった。だが、とうとう人目につかないところにしまいこまれたアルバムの中に、求めるものを見つけた。
『トム』とラベルに記された一連の写真である。まるまるとした三歳の子供、風変わりな服がちっとも似合っていない十二歳ぐらいの少年、いやでたまらないというふうに、クリケットのバットを持っている、なかなか顔立ちの整った十八歳の青年は、髪を真ん中でぺったりと分けている。最後に、どこかしら向こう見ずな表情を浮かべた若い男の写真があった。この最後の写真をストーナーは食い入るように見詰めた――彼との類似点は見間違いようがない。
ふだんからあれやこれやと話好きなジョージ老人の口から、トムのどのようなところがあそこまでみんなに憎まれ、疎んじられているのか、何とか聞き出そうと幾度となく探りを入れてみた。
「このあたりの人間は、ぼくのことをどんなふうに言っているんだろう?」ある日も遠くの畑から帰る道すがら、ストーナーは聞いてみるのだった。
老人は頭を振る。
「やつらはろくなことは言いませんで。ひどいもんでございまよ。つらいお気持ちは、ようわかりますよ」
それ以上はっきりしたことは何も、老人の口からは明らかにはならなかった。
クリスマスもほど近い、澄んだ空気が凍てつくような夕方のことだった。ストーナーはあたり一帯を見渡す果樹園の一隅に立っていた。そこかしこにランプやろうそくの火がまたたいているのが見える。その火が物語るのは、クリスマスの善意や喜びに彩られた人びとの暮らしだった。背後には、陰気で静まりかえった農場の屋敷がある。そこでは誰も笑わず、ケンカのにぎやかささえ無縁の場所だった。
暗い影におおわれた家の、灰色に浮かび上がる横長い正面を、振り向いたまま眺めていると、扉が開いて、ジョージ老人が急ぎ足にこちらにやってくるのが見えた。ストーナーの耳にかりそめの名が、不安げに呼ばれるのが届く。瞬時に何かしら厄介なことが起こったことを悟った。彼の目には、突如、この聖域がまさに平和で満ち足りた場所に映り、ここから追い出されることが耐えがたいまでに恐ろしく思えてきた。
「トムぼっちゃま」老人がしわがれたささやき声で言った。「ここから二、三日、お逃げになってください。マイケル・レイが村に戻ってきて、見つけ次第、撃ち殺す、と言うております。そうとも、やつならかならずやりましょう。人殺しでもやりかねない形相でしたから。夜影に紛れて行ってくださいまし。なんの、一週間かそこらでございますよ。やつもそうそうこっちにゃおれないでしょうから」
「でも、ど…どこへ行ったらいい?」ストーナーは口ごもった。老人に取り憑いている明らかな恐怖が、自分にも乗り移ってくる。
「海岸沿いにまっすぐ進んで、パンチフォードへ行って、そこで隠れていてくださいまし。マイケルがつつがなく帰っていったら、わしはあの子馬でパンチフォードのグリーン・ドラゴン亭まで行きます。グリーン・ドラゴン亭に子馬がつないであったら、戻っていらっしゃって大丈夫だという合図でございますよ」
「だが……」ストーナーはためらっていた。
「ここに金が用意してございます」と老人は言った。「奥様も、わしがいま言った方法が一番良かろうとおっしゃって、これをくださいました」
老人は三枚の一ポンド金貨と、銀貨を数枚差し出した。その夜、老婦人にもらった金をポケットに入れて、農場の裏木戸からひっそりと出て行きながら、ストーナーはこれまでにないほど、自分がいかさまを働いているような気がしていた。ジョージ老人とバウカーの子犬が、庭で黙ったままじっと見送ってくれている。おれはもうここへ戻っては来ないだろう。この忠実なひとりと一匹の友だちが、彼が戻ってくる日を心待ちにするだろうことを考えると、良心の呵責に胸を衝かれる思いがした。おそらくいつかは本物のトムが帰ってくるだろう。そうして、人を疑うことを知らない農場の人びとは、同じ屋根の下で共に暮らしたあの客人はいったい誰だろうといぶかしく思うにちがいない。
自分自身については、さしあたっての心配がなかった。三ポンドばかりでは、たいしたことはできそうもなかったが、金勘定をペニーでやってきたような男にとっては、元手にするには十分だ。以前この道を、何の望みもない浮浪者として歩いてきた自分に、運命は気まぐれな幸運を授けてくれた。だから今度も何か仕事が見つかって、再出発するチャンスがめぐってくるかもしれない。農場から遠ざかるにつれて、彼の意気は上がっていった。本来の自分自身に戻ったことで、安堵する気持ちも生まれていた。もう誰かの影になったような、不安な状態でいることもない。
自分の人生と不意に交錯した執念深い敵のことは、ほとんど念頭になかった。後ろへ振り捨ててしまえば、そんな関係など、もはや気にすることもない。何ヶ月かぶりに、何の憂いもなくなり心も軽くなって、彼は鼻歌を歌い始めた。
そのとき、道に張り出した樫の大木の陰から、銃を持った男がぬっと現れた。誰だろうといぶかる必要はなかった。月明かりにうかびあがる白くこわばった顔には、憎しみの光が放射されているかのようだ。ストーナーがこれまで生きてきた浮き沈みのある人生の中でも、見たことのない表情だった。
ストーナーは横に飛びすさると、道に沿った生け垣を抜け、必死で逃げようとしたが、うっそうと繁る枝に腕をとられた。運命の猟犬は、この細道で彼を待ち受けていたのだ。そうして今度は有無を言わせなかった。
The End
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます