秋九月中旬というころ、一日自分が樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま暖かな日かげも射してまことに気まぐれな空合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧し気にみえる人の眼のごとくに朗らかに晴れた蒼空がのぞかれた。
自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかに戦いだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌りでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語(ささやき)の声であった。
そよ吹く風は忍ぶように木末を伝ッた、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変わッた、あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈なくあかみわたッて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢を帯び、地上に散り布いた、細かな落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような『パアポロトニク』(蕨の類い)のみごとな茎、しかも熟えすぎた葡萄めく色を帯びたのが、際限もなくもつれからみつして目前に透かして見られた。
(※原文改行なし)
この文章は青空文庫の二箇所に載っている。
二葉亭四迷の『あいびき』の項と、国木田独歩の『武蔵野』の項に。
独歩が、四迷の『あいびき』の冒頭二十一行をそのまま引用したのである。
四迷のこの文体が、日本の近代小説に決定的な影響を与えたひとつの例証である。
1864年、江戸幕府が終わりかけようとする時期に二葉亭四迷、本名長谷川辰之助は、武家の家に生まれる。激動の時代に成長した辰之助は、最初、軍人を志すが、極度の近視であったために、三度に渡って陸軍士官学校の受験に失敗する。その後、軍人になることをあきらめ、外交官になろうとして、外国語学校のロシア語科に入学する。
明治十七年ごろの外語学校は、語学だけを教えていたのではなく、そのほかの授業もすべて原書で教えていた。だが、教科書が足りない。四年次の辰之助は、米国籍の亡命ロシア人ニコラス・グレイの教えを受けるのだが、グレイはただ一冊の文学書を朗読し、ロシア語で解説し、学生たちはそれを聞く、という形式の授業だったのである。
此グレーという人は朗読が頗る名人で、調子も面白い。真に妙を極めたものだ。誰でも聞惚れないものは無い。自ずと文学の感興が湧いて来る。で、読終るとハラクタレスチカ(※キャラクタリゼイション)即ち正確批評、作中の主人公又は女主人公の批評を作らせて、之で文章の練習をさせた。……何でもレルモントフ、ツルゲエネフ、ゴーゴリ、カラムジン、カラゾコフなどで、トルストイの『戦争と平和』なども読みました。(坪内逍遙・内田魯庵編「二葉亭四迷」 中村光夫『二葉亭四迷論』よりの孫引用)
このとき辰之助は、ロシア語の持つ「ことばの響きと拍の美しさ」を知り、あらかじめ文学に対するイメージを持たないままに、ロシア文学の影響を受けていったのである。
明治十八年、坪内逍遙が『小説神髄』を発表する。
そのなかに、このような文体論がでてくる。
言は魂なり。文は形なり。俗言には七情ことごとく化粧をほどこさずして現はるれど、文には七情も皆紅粉を施して現はれ、幾分か実を失ふ所あり。俗言のまゝに詞をうつせば、相対して談話するが如き興味あり。雅俗折衷の文をもて詞をつゞれば、書簡を読むの思ひあり。其おもしろみの薄かること、いふまでもなきことなりかし。俗文の利すでに斯くの如し。唯憾らくは世に其不便を除くの法なし。嗚呼、我が党の才子、誰れか此法を発揮すらむ。おのれは今より頸を長うして新俗文の世にいづる日を待つものなり。
話していることば(の中味)が「魂」である。文章(書き言葉)は形式である。話しことばには、さまざまな感情がそのままに表れるけれど、文章にしてしまうと美しくはなるけれど、感情のいくぶんかを失ってしまう、というのである。書き言葉が使い辛く、古めかしく感じられるのなら、新しい「書き言葉」が作りだされなければならない。
この逍遙の思想を理解し、支持したのが辰之助だった。
そうして、辰之助こと二葉亭四迷が、新しい文体を模索しながら書いたのが、近代日本の小説の先駆けとされる『浮雲』である。
千早振る神無月ももはやあと二日の余波(なごり)となッた二十八日の午後三時ごろに神田見附の内より塗渡る蟻、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよ沸き出でて来るのは孰れも顎を気にしたもう方々
この冒頭の文章を、四迷はのちに「第一回は三馬(式亭)と饗庭さんのと八文字屋のものを真似て書いたのですよ。第二回はドストエフスキーと、ゴンチャロッフの筆意を模して見たのであツて、第三回は全くドストエフスキーを真似たのです」と言っている。
事実第四回になると、こんな文体になる。
轟然と駆て来た車の音が家の前でパツタリ止まる。ガラガラと格子戸が開くガヤガヤと人声がする。ソリヤコソと文三がまづ起直ッて突胸をついた。両手を杖に起たんとしてはまた坐り坐らんとしてはまた起つ。
過去形「た」が登場した(詳細は後述)。
そうしてついに第八回にはこんな文章が現れるのである。
どうも気が知れぬ。文三には平気で澄ましてゐるお勢の心意気が呑込めぬ。若し相愛してゐなければ文三に親しんでからお勢が言葉遣ひを改め起居動作(たちゐふるまひ)を変へ蓮葉を罷めて優に艶しく女性らしく成る筈もなし又今年の夏の一夕の情話に我から隔ての関を取除け乙な眼遣をしぞんざいな言葉を遣つて折節に物思ひをする理由(いわれ)もない。
ここでは誰が語っているのだろうか。作者=語り手ではない。作者は文三の心のなかに踏み込んでいる。けれども、文三自身ではない。このあと、もう少し文三の内心の思いに踏み込むときは「イヤ妄想ぢや無いおれを思つてゐるに違ひない」と、「」で処理される。作者は文三の心のなかに踏み込みつつ、一方でそれを対象化する。つまり心理描写なのである。
ここに日本に近代文学が生まれた。
(この項つづく)
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(※無意味に出てくる日々のつれづれ)
いらっしゃってくださるみなさま、こんにちは。
これは書きたいことがある、というより、自分がつぎに進むため、知っていることを整理する性格の文章です。
着地場所は決まっているのですが、いまひとつ何を書こうとしているのか、自分でもよくわかっていないところがあります。
ということで、苦労しつつ、おそらくは多くのみなさまにはちっとも興味のない「二葉亭四迷」を題材に、あれやこれや「文体」について考えております。
できるだけ毎日書きたいとは思っているのですが、途切れがちになるかもしれません。
暖かい目で見守ってくだされば幸いに思います。
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