陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「事実」とは何だろうか その7.

2006-06-14 21:47:57 | 
7.物語・事実・真実

物語とは何だろうか。

物語とは、「はじめ」と「終わり」で区切られた出来事である。
わたしたちは出来事を、ひとかたまりの「出来事」として認識する。
連続のひとつながりのあれやこれやに「はじめ」と「終わり」という切れ目を入れて取り出すのである。そうしてたいがいこの「はじめ」と「終わり」は「原因」と「結果」として認識されている。

つまり、わたしたちが「出来事」を「出来事」として認識するやりかたは、「物語として認識する」ということなのである。(※参照「物語をモノガタってみる」

「事実」とはなんだろう。
ここでは「実際に起こったことがら」ぐらいに理解することにしよう。
「実際に起こったことがら」を言葉にする人は、その出来事を「はじめ」と「終わり」、言い換えれば「原因」と「結果」を自分の判断で定めて、「出来事」と認識し言葉にする。
ここで「実際に起こったことがら」は物語となる。

さらにそれを記述しようとするとき、もう一段階、虚構化の手続きを経なければならない。
たとえ、それはどれだけ「事実ありのまま」と体験した「わたし」が思ったとしても、二重の段階での虚構化が加えられているのだ。

では、それをなぜわたしたちは小説を読んで、「これは事実にちがいない」と思ったり「事実のはずがない」と思ったりするのだろうか。
「事実」と小説の関係について、石原千秋は『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)のなかでこうまとめている。

リアリズム小説とは、出来事がいかにも現実に起きたように書いてある小説で、目に見えるものだけを「客観的」な「事実」として書く技法によって成り立っている。しかしその実、リアリズム小説は目に見えないもの、すなわち登場人物の「気持ち」を読み取ることを重視した小説でもあるのだ。なぜそうなるのか、説明すればこうなる。

 リアリズム小説の書く「事実」はたしかに「事実」である。しかし、「事実」が人生にとってどういう意味を持つのかは人の「気持ち」が決めることだ(ここで言う「気持ち」とは、少し高級な言い方をすれば「内面」であり、もっと高級な言い方をすれば「自我」である)。「事実」が人生にとって持つ意味こそが「真実」と呼ばれるものである。人間を外側から見たように書くその技法とは裏腹に、目に見えない「気持ち」にこそ「真実」が宿っていると考えるのが、リアリズム小説なのである。ここに、受験小説で「気持ち」ばかりが問われる理由がある。

これは、わたしたちが現実に自分が見聞きしている「事実」を、出来事とする認識のやりかたでもある。
わたしたちは自分が見聞きしたことを、原因と結果を持つ物語として認識する。そうすることで、なにをしようとしているかというと、そこに「目には見えない真実」を見いだそうとしているのである。そうして、その「真実」とは、自分が決めることなのだ。

「人間、所詮、金だ」という人にとっての「真実」とは、「所詮、金」ということである。その人は、自分の「真実」を補強するために、自分の見聞きしたことに「原因」と「結果」という切れ目を入れて、「出来事」として取り出す。

「わたしは小さい頃の不幸な体験によって、人生を大きく狂わされてしまった」という「真実」を持つ人は、それを補強するために、自分の過去に起こったことに「原因」と「結果」という切れ目を入れて、「出来事」として取り出す。

「あの人は自分にとってかけがえのない人だ」という「真実」を持つ人は、その人のかけがえのなさを、自分の過去に起こったことに「原因」と「結果」という切れ目を入れて、「出来事」として取り出す。

本を読んだときも同じようにそのなかに「真実」を見つけようとする。そうして、その「真実」が「現実にあったこと」「小説の外でも真実であること」としたい、という欲望を持つ。
だからこそ、小説を読んだあとに、ああ、あの人はまるで『坊っちゃん』に出てくる「野だいこ」だ、と人に当てはめてみたり、ああ、この情況はまるでハムレットみたいだ、と情況をなぞらえてみたり、あるいは森鴎外を『舞姫』の太田豊太郎と同一視して「あいつは文豪とかいうけど、とんでもないやつだ」と思ったりするのだ。

よく「真実はひとつ」という言い方がある。
だからこそ、逆に『藪の中』のような小説が、小説として成立するのだ。
けれども「真実」が、人の数だけあったら?

だから、わたしたちは話をし、本を読む。自分にとっての「真実」が人にとっての「真実」だと確認したい。あるいは、人の話を聞いて、自分の「真実」の中にある穴を埋めたい。

同じ出来事に直面しても、人はまったく異なる「出来事」としてさまざまなことを書き残す。
山田風太郎の『同日同刻 ――太平洋戦争の一日と終戦の十五日』(文春文庫)を見ると、そのことがよくわかる。

山田は前書きでこのように記す。

私は当時の敵味方の指導者、将軍、兵、民衆の姿を、真実ないし真実と思われる記録だけをもって再現して見たい。しかも、同日、できれば同刻の出来事を対照することによって、戦争の悲劇、運命の怖ろしさ、人間の愚かしさはいっそう明らかに浮かび上がるのではないだろうか。

こうして、さまざまな人の、さまざまな「昭和十六年十二月八日」と、「昭和二十年八月一日-十五日」が描かれていく。
これは、山田風太郎の手による「はじめ」と「終わり」を持つ物語である。
けれども、同時に、わたしたちは、どんな歴史年表を見るより、このさまざまな人によるさまざまな言葉の中に、「歴史の真実」を見る。

わたしたちは「出来事」を物語として理解する。
あの人はどんな人か、あるいは自分はどんな人間か、というのも、物語として理解する。
そうして、この物語にもとづき、虚構化というプロセスを経た小説を、やはり物語として理解するのだ。

この物語は自分ひとりにしか意味がないものではないことを確かめるために、わたしたちは人に保証を求める。「これ、本当でしょう? 事実でしょう?」そうやって、確認しながら、再度、自分の物語を紡いでいくのだ。

『ユリシーズ』について書いていたとき、詩人のエズラ・パウンドは「われわれは言葉に支配されている。法律は言葉で書かれている。そして文学はこれらの言葉を生きた正確なものにしておく唯一の手段である」と断言した。(ジョージ・スタイナー『言語と沈黙』からの孫引き)

「真実」は、いつでも「わたしの真実」だ。
そうして、「わたしの真実」は、「わたし」を物語る。

(この項終わり)


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