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 陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・チーヴァー「ニューヨーク発五時四十八分」最終回

2009-06-26 23:09:26 | 翻訳
最終回


 駅の北側は、貨物倉庫と石炭置き場と入江になっていた。入江には、肉屋とパン屋とガソリンスタンドの店主の小型ヨットが繋留してあり、日曜日になると釣りに出かけるヨットも、いまは降り込む雨のせいで、船縁り近くまで水に浸かっていた。貨物倉庫に向かって歩きながら、ブレイクは地面を走る影を見、きしるような音を聞いたように思った。そこへ、一匹のネズミが紙袋から頭を突き出したのが見えた。ネズミはじっと彼を見つめている。そのまま紙袋を口にくわえて、下水溝へ引っ張っていった。

「止まって」と女が言った。「こっちを向いて。あらあら、あなたのこと、かわいそうに思わない方がどうかしてるんでしょうね。あなたの情けない顔を見せてあげたいわ。だけどあなたには、わたしがどんな思いを味わってきたかわからない。昼間のうちは外へ出るのさえ怖いのよ。空から空が落ちてくるかもしれないような気がして。おとぎばなしに出てくるチキン・リキンみたいなものよ(※上から何かが落ちてきてあわてふためき、空が落ちてくると怯えるおとぎばなしの登場人物)。暗くなってくると、ようやく自分らしくなるような気がするの。だけど、それでもあなたよりはましね。だってときどきはいい夢だって見られるんだから。ピクニックとか、天国とか、兄弟愛とか、それから月の光を浴びたお城や、川べりに柳並木が続いている川とか、外国の街なんかの夢を見るのよ。それに、あなたよりわたしの方が、愛についてよく知ってるんだと思う」

 暗い川から船外機エンジンの音が聞こえてきた。暗い水面を渡ってゆっくりと近づいてくるその音は、過ぎ去った夏とかつての喜びに満ちた、甘やかな記憶を呼び起こす。その記憶は彼の皮膚をぞくぞくとさせ、山のなかの暗闇や、子供たちの歌声を思った。

「病院の人たちは、わたしのことを治そうともしてくれなかった」彼女が言った。「あの人たちって……」

 北の方角からやってきた電車の音のせいで、声が聞こえなくなったが、それでも彼女はしゃべるのをやめなかった。騒音が耳を聾し、目の前を流れていく明るい車窓には、食べたり飲んだり眠ったり何か読んだりしている人びとの姿が浮かび上がっていた。電車が鉄橋を越えて行ってしまうと、音は遠くなり、彼の耳には彼女のわめく声が飛び込んできた。

「ひざまずくの! ひざまずくのよ! 言うとおりにして。ひざまずきなさい!」

 彼はひざをついた。そうしてこうべを垂れた。

「そうよ。ほら、わたしの言うとおりにすれば、危害を加えなくてすむんだから。ほんとはこんなこと、したくないのよ。あなたを助けてあげたいの。だけどあなたの顔を見てたら、もう助けてあげられないんじゃないかっていう気がしてくる。もしわたしがもっといい人間で、愛情深くて、正気だとしても――ああ、いまのわたしよりもっといい人間だったら――ときどき思うのよ、もしわたしがそんなふうな人間で、若くてきれいだとしても、それに、もしわたしが正しいやり方を教えてあげるためにあなたを呼んだとしても、あなた、わたしのことなんて気にも留めないでしょうね。ええ、あたし、あなたより上等な人間よ。いい人間なの。だからこんなふうに自分の時間を無駄にしたり、人生を損なったりしちゃいけないんだわ。顔を地面につけて! 言うとおりにするの。顔を地面につけなさい!」

 彼は汚い地面に伏せた。石炭が顔をこする。彼は地面に倒れて手を延ばし、むせび泣いた。

「これで気分がちょっとましになったわ」彼女が言った。「これであなたと手を切ることができる。こんなこと一切合切から手を引けるんだわ。わたしのなかにだって、親切心や正気なところがある、それをちゃんと使うことだってできるってわかったでしょ。だからわたし、手を切れる」

やがて砂利を踏んで遠ざかっていく彼女の足音が聞こえた。やがてその音はプラットフォームの固い表面を踏む澄んだ音に変わり、いっそう遠くなった。やがて音は消えた。彼は顔を上げた。木の歩道橋を上っていき、反対側のプラットフォームへ降りてゆく姿が見える。薄明かりのなかの彼女は小さく、どこにでもいるような、無害な姿に見えた。彼は汚い地面から起きあがった――初めは警戒しながら。やがて彼女の物腰やようすから、自分のことなどすっかり忘れてしまっていることがわかった。彼女はやろうと決意したことを成し遂げたのだ、そうして、自分はもう安全だ。彼は立ち上がり、落ちていた帽子を地面から拾い上げ、歩いて家に向かった。




The End


(※後日手を入れたのち、サイトにアップします)



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