会話のなかの「含み」
たとえばわたしが軽い気持ちで、会話のつなぎに「明日は晴れるかな」とAさんに聞いてみたとする。ところがAさんは、パソコンを立ち上げ、気象情報のサイトにアクセスし、予想天気図をもとに詳細な予報を教えてくれたとする。
このような状態は、おそらく先に挙げた「量の原則」と「様態の原則」の逸脱にあたるだろう。それでもわたしはその説明をおもしろく感じ、さらにいくつかの質問をして、会話は盛り上がるかもしれない。
このように、原則に反するようなふるまいをしたからといって、かならずすぐに会話が中断してしまうとはかぎらない。つまり、
「そろそろ行かなくちゃ」
「わかった。じゃあ、またね」
「その件に関してはどうかよろしくお願いいたします」
「わかりました。こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします」
というふうに、会話がここで終わる、ということに、双方が快く合意するのでないかぎり、会話は適切なやり方で続けられなければならない、というある種の了解事項を、暗黙の内にしているからにほかならない。
ところがそろそろ行かなければならないし、こちらはそろそろ会話をうち切りたいようなときでも、相手が楽しそうに話し続けていたら、じりじりしながらもそれをいきなり中断させてしまうような事態を、できるだけ回避しようとするだろう。
逆に、会話の最中に立ちあがって「わたし、帰る」という人がいたら、「自分は気に障ることを言ったのだろうか」と考えてしまうだろう。つまり、これまでの会話を振り返って、相手の予想外の行動の「理由」をそこから引き出そうとする。
「さっき自分が言った“ばっかみたい”という言葉が気に障ったのではないか。軽い冗談のつもりだったのに……」
「調子が悪くなったのかもしれない。そう言えば顔色が悪かったからな」
このように、こちらからすると、予期していない相手の行動の「理由」を、わたしたちが会話から引き出すことを、グライスは会話の「含み」と呼ぶ。
たとえば、わたしはある人と家にいるとする。部屋は冷房が効きすぎて、わたしには少し寒い。だが、相手の家ではあるし、相手はこのくらいの室温が心地よいのかもしれない。そこでわたしは
「冷房を切ってもらえませんか」と言う代わりに「冷房がよく効いてますね」と言う。
冷房が効いているのはお互い、よくわかっている。だからここでは何の情報も含まれていないという意味で「量の原則」からは逸脱している。だが、相手は、わざわざわかっていることをあえて言うのは、何か意味があるのだろうと推測して「寒いですか? じゃ、冷房を切って、窓を開けましょうか」と言う。
そのことによって、わたしは「冷房を切ってもらえませんか」と言ったのと同じ結果が得られる。だが、「冷房を切ってもらえませんか」というのが、そのままの、直接的な言い方であるのに対して、「冷房がよく効いてますね」というのは文字通りの意味ではなく、相手に意味を引き出してもらおうとする、つまり「含み」を介して行われる表現なのである。
「様態の原則」では、自分の意図はできるだけ明らかに伝えることが期待される、というものだった。ところがこの「含み」のある表現は、聞いた方が相手の意図をさぐらなければならない、という意味で、この原則から逸脱していることになる。
けれども聞いている側は、どうしてわざわざそんな言い方をするのか、と考える。
「寒いから冷房を切ってください」というべきところを、「冷房がよく効いてますね」と言う。
相手がいまの状態が心地よければ「そうでしょう、外は暑いですからね、暑い日にはエアコンをガンガンに効かせた部屋にいるのが一番です」と伝わらないかもしれない。だが、自分はそれならばあきらめる、相手にこうしてほしい、と要請するつもりはない、という表現なのである。つまり意味で、押しつけがましくない表現、従って、丁寧な表現と受けとられるのだ。
A「かしこそうなお坊ちゃんですね。ウチのバカ息子に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい」
B「とんでもない。お宅の元気なお坊ちゃんにくらべたら、ウチの子はもうおとなしくって。男の子は元気なのが一番ですよ」
たとえばこの会話は、双方ともに含みの多い会話といえる。
話者Aが。ほんとうに自分の子供を「バカ」と思っているか、それにくらべて相手の子供が優れていると考えているかどうかはよくわからない。「謙虚さ」が含まれているのか、「追従」が含まれているのか、「皮肉」が含まれているのか、それとも文字通りの意味なのか、両人が置かれている状況や「その人がどのような人か」に応じて流動的である。
だが、「文字通りの意味」の割合と「含み」の割合は反比例すると考えてよいだろう。
では、わたしたちはどうやってこの「文字通りの意味」と「含み」を見分けているのだろうか。
(この項つづく)
たとえばわたしが軽い気持ちで、会話のつなぎに「明日は晴れるかな」とAさんに聞いてみたとする。ところがAさんは、パソコンを立ち上げ、気象情報のサイトにアクセスし、予想天気図をもとに詳細な予報を教えてくれたとする。
このような状態は、おそらく先に挙げた「量の原則」と「様態の原則」の逸脱にあたるだろう。それでもわたしはその説明をおもしろく感じ、さらにいくつかの質問をして、会話は盛り上がるかもしれない。
このように、原則に反するようなふるまいをしたからといって、かならずすぐに会話が中断してしまうとはかぎらない。つまり、
「そろそろ行かなくちゃ」
「わかった。じゃあ、またね」
「その件に関してはどうかよろしくお願いいたします」
「わかりました。こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします」
というふうに、会話がここで終わる、ということに、双方が快く合意するのでないかぎり、会話は適切なやり方で続けられなければならない、というある種の了解事項を、暗黙の内にしているからにほかならない。
ところがそろそろ行かなければならないし、こちらはそろそろ会話をうち切りたいようなときでも、相手が楽しそうに話し続けていたら、じりじりしながらもそれをいきなり中断させてしまうような事態を、できるだけ回避しようとするだろう。
逆に、会話の最中に立ちあがって「わたし、帰る」という人がいたら、「自分は気に障ることを言ったのだろうか」と考えてしまうだろう。つまり、これまでの会話を振り返って、相手の予想外の行動の「理由」をそこから引き出そうとする。
「さっき自分が言った“ばっかみたい”という言葉が気に障ったのではないか。軽い冗談のつもりだったのに……」
「調子が悪くなったのかもしれない。そう言えば顔色が悪かったからな」
このように、こちらからすると、予期していない相手の行動の「理由」を、わたしたちが会話から引き出すことを、グライスは会話の「含み」と呼ぶ。
たとえば、わたしはある人と家にいるとする。部屋は冷房が効きすぎて、わたしには少し寒い。だが、相手の家ではあるし、相手はこのくらいの室温が心地よいのかもしれない。そこでわたしは
「冷房を切ってもらえませんか」と言う代わりに「冷房がよく効いてますね」と言う。
冷房が効いているのはお互い、よくわかっている。だからここでは何の情報も含まれていないという意味で「量の原則」からは逸脱している。だが、相手は、わざわざわかっていることをあえて言うのは、何か意味があるのだろうと推測して「寒いですか? じゃ、冷房を切って、窓を開けましょうか」と言う。
そのことによって、わたしは「冷房を切ってもらえませんか」と言ったのと同じ結果が得られる。だが、「冷房を切ってもらえませんか」というのが、そのままの、直接的な言い方であるのに対して、「冷房がよく効いてますね」というのは文字通りの意味ではなく、相手に意味を引き出してもらおうとする、つまり「含み」を介して行われる表現なのである。
「様態の原則」では、自分の意図はできるだけ明らかに伝えることが期待される、というものだった。ところがこの「含み」のある表現は、聞いた方が相手の意図をさぐらなければならない、という意味で、この原則から逸脱していることになる。
けれども聞いている側は、どうしてわざわざそんな言い方をするのか、と考える。
「寒いから冷房を切ってください」というべきところを、「冷房がよく効いてますね」と言う。
相手がいまの状態が心地よければ「そうでしょう、外は暑いですからね、暑い日にはエアコンをガンガンに効かせた部屋にいるのが一番です」と伝わらないかもしれない。だが、自分はそれならばあきらめる、相手にこうしてほしい、と要請するつもりはない、という表現なのである。つまり意味で、押しつけがましくない表現、従って、丁寧な表現と受けとられるのだ。
A「かしこそうなお坊ちゃんですね。ウチのバカ息子に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい」
B「とんでもない。お宅の元気なお坊ちゃんにくらべたら、ウチの子はもうおとなしくって。男の子は元気なのが一番ですよ」
たとえばこの会話は、双方ともに含みの多い会話といえる。
話者Aが。ほんとうに自分の子供を「バカ」と思っているか、それにくらべて相手の子供が優れていると考えているかどうかはよくわからない。「謙虚さ」が含まれているのか、「追従」が含まれているのか、「皮肉」が含まれているのか、それとも文字通りの意味なのか、両人が置かれている状況や「その人がどのような人か」に応じて流動的である。
だが、「文字通りの意味」の割合と「含み」の割合は反比例すると考えてよいだろう。
では、わたしたちはどうやってこの「文字通りの意味」と「含み」を見分けているのだろうか。
(この項つづく)
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