そもそも「話し合い」というのはどういったものをさすのだろう。
たとえば漱石の『こころ』のなかで、のちに「先生」と呼ばれることになる手記での「わたし」と「K」の対決場面は話し合いではない(青空文庫の『こころ』のページはいまアクセスが集中しているようで、さっきから何度やってみてもハングアップしてしまうので、引用はまた後ほど)。
つぎにあげるのは、太宰治の『お伽草子』の「瘤取り」で、山中で鬼どもを相手にびっくりするような経験をしたおじいさんが家へ帰ってくる場面である。おじいさんはおばあさん相手に、自分が世にも珍しい経験をした話を聞かせたくてたまらない。
おじいさんは話をしかけても、お婆さんの方がその話に応えてくれない。そのためにここでは話し合いどころか会話にすらなっていない。
「話し合い」というのは、何よりも、まず会話だ。ふたりから数人の人間が共同でおこなうものだ。だが、
「×号室に新しく人が越してきたんだって」
「あら、そう。どんな人だった?」
と続いていく雑談を「話し合い」とは呼びにくい。
情報の交換や、何ごとかに向けての意思統一、あるいは決定、というように、何らかの目的がある場合に「話し合い」という言葉が使われると言えよう。そうして、話し合う人は、その目的が達成できるように、意識的・無意識的に協力する。つまり、話し合いとは、対話者による協同作業なのである。
協同作業というのなら、話し合いに参加する人びとが守らなければならない原則があるのではないか。その原則について考えたのがポール・グライスである。グライスは会話者が遵守するものと期待される原則を、つぎの四つにまとめている。(『論理と会話』)
1.量の原則:会話者には適当な量の情報を提供することが期待される。
グライスは「特定の段階で四本のネジが必要になったら、私が期待するのは、あなたが二本でも六本でもなく四本のネジを手渡してくれることである」と言っている。
たしかにわたしたちは、答えるときに相手がどの程度のことを知りたがっているかを推し量る。「ダンゴムシは昆虫かどうか」と聞かれたとき、相手が小学生なら、「節足動物門昆虫網ではなく節足動物門甲殻亜門軟甲綱 」という代わりに「昆虫ではなくて、カニの仲間なんだよ」と言うだろう。
2.質の原則:会話者には真実の情報を提供することが期待される。
「あなたの助けを借りてケーキを作っているときに、材料の砂糖が必要になれば、私はあなたに塩を手渡してもらおうとは期待しない」
事実、オオカミ少年(ケンではなく、「オオカミが来た、オオカミが来た」と嘘をつく子の方)は、やがて誰も話し相手にしなくなる。
3.関係の原則:関係のある情報を提供することが期待される。
「ケーキの材料を交ぜているとき、私が手渡してほしいのはよい本ではないし、オーブンクロスでさえない」
自分の疑問と関係のない答えを返してくる相手には、わたしたちはたいてい腹を立てるものだ。
4.様態の原則:明晰な情報を提供することが期待される。
ここでは内容ではなく、表現のやり方が問題になっている。その内容や場面にふさわしい表現の仕方で、適度な手早さで実行されてほしい。たとえば、「蜂に刺された!」と言う人は、「すぐに水で洗って!」とか、「病院に行く?」とかという即座の反応であって、「この場合、何が最も適切な処置であろうか」と考えこむことでもなければ、「蜂にさされるなんて、不注意だからだ」という批判でもない。
グライスは、以上の四つは「原則」であって、規則ではない、という。というのも、規則ならそこから逸脱した場合、会話として受け入れてもらえないことになってしまう。けれども、原則だから、たとえ逸脱しても、その人が自動的に排除されるということはない。だが、この原則に従わなければ、コミュニケーションをおこなう上で、いろいろと不都合なことが起こってくるらしいのだ。
明日はそのことをもう少し見てみる。
たとえば漱石の『こころ』のなかで、のちに「先生」と呼ばれることになる手記での「わたし」と「K」の対決場面は話し合いではない(青空文庫の『こころ』のページはいまアクセスが集中しているようで、さっきから何度やってみてもハングアップしてしまうので、引用はまた後ほど)。
つぎにあげるのは、太宰治の『お伽草子』の「瘤取り」で、山中で鬼どもを相手にびっくりするような経験をしたおじいさんが家へ帰ってくる場面である。おじいさんはおばあさん相手に、自分が世にも珍しい経験をした話を聞かせたくてたまらない。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」(「お伽草子」)
おじいさんは話をしかけても、お婆さんの方がその話に応えてくれない。そのためにここでは話し合いどころか会話にすらなっていない。
「話し合い」というのは、何よりも、まず会話だ。ふたりから数人の人間が共同でおこなうものだ。だが、
「×号室に新しく人が越してきたんだって」
「あら、そう。どんな人だった?」
と続いていく雑談を「話し合い」とは呼びにくい。
情報の交換や、何ごとかに向けての意思統一、あるいは決定、というように、何らかの目的がある場合に「話し合い」という言葉が使われると言えよう。そうして、話し合う人は、その目的が達成できるように、意識的・無意識的に協力する。つまり、話し合いとは、対話者による協同作業なのである。
協同作業というのなら、話し合いに参加する人びとが守らなければならない原則があるのではないか。その原則について考えたのがポール・グライスである。グライスは会話者が遵守するものと期待される原則を、つぎの四つにまとめている。(『論理と会話』)
1.量の原則:会話者には適当な量の情報を提供することが期待される。
グライスは「特定の段階で四本のネジが必要になったら、私が期待するのは、あなたが二本でも六本でもなく四本のネジを手渡してくれることである」と言っている。
たしかにわたしたちは、答えるときに相手がどの程度のことを知りたがっているかを推し量る。「ダンゴムシは昆虫かどうか」と聞かれたとき、相手が小学生なら、「節足動物門昆虫網ではなく節足動物門甲殻亜門軟甲綱 」という代わりに「昆虫ではなくて、カニの仲間なんだよ」と言うだろう。
2.質の原則:会話者には真実の情報を提供することが期待される。
「あなたの助けを借りてケーキを作っているときに、材料の砂糖が必要になれば、私はあなたに塩を手渡してもらおうとは期待しない」
事実、オオカミ少年(ケンではなく、「オオカミが来た、オオカミが来た」と嘘をつく子の方)は、やがて誰も話し相手にしなくなる。
3.関係の原則:関係のある情報を提供することが期待される。
「ケーキの材料を交ぜているとき、私が手渡してほしいのはよい本ではないし、オーブンクロスでさえない」
自分の疑問と関係のない答えを返してくる相手には、わたしたちはたいてい腹を立てるものだ。
4.様態の原則:明晰な情報を提供することが期待される。
ここでは内容ではなく、表現のやり方が問題になっている。その内容や場面にふさわしい表現の仕方で、適度な手早さで実行されてほしい。たとえば、「蜂に刺された!」と言う人は、「すぐに水で洗って!」とか、「病院に行く?」とかという即座の反応であって、「この場合、何が最も適切な処置であろうか」と考えこむことでもなければ、「蜂にさされるなんて、不注意だからだ」という批判でもない。
グライスは、以上の四つは「原則」であって、規則ではない、という。というのも、規則ならそこから逸脱した場合、会話として受け入れてもらえないことになってしまう。けれども、原則だから、たとえ逸脱しても、その人が自動的に排除されるということはない。だが、この原則に従わなければ、コミュニケーションをおこなう上で、いろいろと不都合なことが起こってくるらしいのだ。
明日はそのことをもう少し見てみる。
いつもここで翻訳されたものを夜中に楽しく読ませてもらっています。ありがとうございます。
ジョン・チーヴァーやフォクナー、ランドナーの短編はここで触れたのが初でした。いい体験でした。特にチーヴァーが良かったです。多分この人は、カポーティほど狂気をストレートには持ってきてはいないけど、静かで不気味な、歪んだ狂気を感じます。「橋の上の天使」以外の短編集がでていないのが残念です。もっと評価されてもいいのに。
ちなみにミランダジュライという女性作家は知っていますか?最近の人なんですけど、とても面白いですよ。
「ユタカ」という名前をうかがって、その昔、大洋ホエールズのスーパーカートリオの一員、高木豊選手のファンだったので、ちょっとうれしくなってしまいました。すいません。
ときどき、ここでの翻訳なんて、語学の教科書の訳を見に来る学生以外の、いったい誰に役に立っているんだろうか、と思うんですが。誤訳もいっぱいあるにちがいないし。
だから、こんなふうに感想を聞かせてくださると、とてもうれしいです。
そもそもここで翻訳を始めたのは、ひとつには、世の中にはこんなにおもしろい小説がいっぱいあるよ、ということを知ってほしくて、という理由があったんです。確かに多くが説明されていない短篇は、外国人にとってわかりにくいものも少なくありません。それでも、たとえ国がちがっても、全部が全部わからなくても、読んでおもしろいものはおもしろいはずだと思うんです。
こんな話があるよ、ねえねえ知ってる? といった感じで。
だから、ここはあくまで間口、ここから本をもっとたくさん読んでいってほしいと願っているんです。ところが残念なことに、ここで紹介する作家の多くの短編集は流通していません。おっしゃっておられるチーヴァーなんて、いまでは図書館でしか読めない。しかも、わたしの地元の図書館では、書庫の奥にしまい込まれています。
読む人がいなくなっちゃうと、本はそれで終わってしまいます。
そのことは同時に、わたしたちが本を読むことによって開かれる、自分の心の奥底へと下りていく秘密の通路が閉ざされる、ということでもあると思うんです。
チーヴァーの作品世界は、それが書かれた当時より、いまの方が、日本のわたしたちには近いかな、と思います。孤独も、ご指摘の狂気も、1950年代の日本人にとって、無縁だったわけではないのでしょうが、それほど大きな問題ではなかった。だから、社会の中でどのように行動するかを描いたヘミングウェイの長編などが、よく読まれたのでしょう。
けれども、郊外に大きな家は構えていませんが、家族のつながりは徐々に希薄なものになり、しがらみはなく気軽な反面、自分を必要とする人もいないことで、自然な自尊感情も持ちにくい。『ニューヨーク発五時四十八分』に出てくるミス・デントのように、自分以外の人がみんな満ち足り、幸せな人間関係を築いていると思い込んで、実際に犯罪に走るような人も出てきています。
そういうあやふやな時代だからこそ、簡単に「こうすれば安心」に飛びつくのではなく、一本ちがう道を歩けば、迷路の中に迷い込んでしまうような本を読むことで、自分自身や周囲が、逆に整理されていくのではないか。がっちりした世界というのは幻想だったと気づくことによって、何かしら、自分を縛っていた古い価値観なりものの見方なりに気づくことができるのではないか、と思ったりします。
その意味で、チーヴァーは、いま読んでおもしろい人だと思うんですけどね。
Miranda July という人の名前はこれまで何度か見たことはあるんですが、あまり作家と思ってなかったんです。短編集も出しているんですね。
書評をいくつか読んでみましたが、いまひとつよくわからない(笑)、でも、そのうち読んでみようと思います。ご紹介ありがとうございました。
これからも、ぼちぼちとしたペースで続けていきますので、どうかよろしくお願いします。
こういう人なんか読んでみたい、というのがありましたら、またよろしく。
書き込み、ありがとうございました。
今日図書館でオコナーの短編を読み直したんですけど、この人って不思議ですよね。書いてある内容は救いようがないのに、なぜか何度も読み直してしまいます。題材はいつも同じで単調なストーリーなのに。比喩はときおり漫画てきな単純さで、文章も凝った感じはしない。何が僕をひきつけるのかがよくわからないです。
同じ女性の作家で思いつくのはパトリシアハイスミスとかルースレンデルですけど、この二人はこわいもの見たさで読むのに対して、やっぱりオコナーはそういうのとはかなり感触が違う気がします。作者の登場人物に対する距離感とか、眼差しがどこか違う。救いが無いのに、読後はあまりそう感じない。
陰陽師さんはオコナー(フラナリーの方)のどこにひかれて訳されたのですか?
ちなみに僕は「啓示」が一番好きです。いつものオコナーの結末からもう一歩、神にたいして踏み出した所に感動します。
三日ほど留守にしていたので、一次的に事前承認制にしていました。もう一度くださったのは同じ内容だったので、先にくださった方で一本化させていただきました。どうかその旨、ご了承ください。
自分が二十代のときなんて、つい「このあいだ」のことのような気がするのに、実際の二十代の方とは、確実に世代がちがうのだなあと一瞬遠い目になってしまいました。
じゃ、「スーパーカー」なんて言葉もご存じないんですね?
当時の小学生の男の子たちは、フェラーリやランボルギーニ・カウンタックのついた下敷きや筆箱を持っていたものでしたが……。
昭和は遠くなりにけり、ですね……。
思わず遠い目になってしまった(苦笑)。
はてさて。
やっぱりフランシス・オコナーは「広さ」ではなく「深さ」という面で、ほかの人に置き換えられない作品世界をうち立てた人だと思います。
ここで訳したのは、ひとつには、わたし、どうもこの人、わかったような気がしないんです。肝心なところを読み逃しているような気がするんです。だから、訳すペースで読んでみると、もうちょっとよくわかるかなあ、と思って。
それでもやっぱり信仰の部分はよくわからない。
「善人はなかなかいない」でも
「まあ、あんたはあたしの赤ちゃんじゃないか。あんた、あたしの子供だよ!」
お祖母さんは「はみだし者」に対して、最後の最後にこう呼びかけますよね。
これはやはり愛の表現だと思うんですが、そういうふうに考えていくと、それまで何とか命乞いをしようとしていたお祖母さんがここでこう呼びかけるのは、“わたしはあなたのために苦しむ、あなたのために死ぬよ”、ということなのだろうか、と思うんです。キリスト教での愛というのは、究極的には、あなたを生かすためにわたしは死ぬ、ということだ、というふうに、少なくともオコナーは考えているんだろうか、とか。
まあほかにもわかんないところはいろいろあるんですが。
パトリシア・ハイスミスやルース・レンデルは、なんとなくわたしの頭の中では、オコナーなんかとちがうところに分類されてました(笑)。
なんというか、最後まで読めば、全部きちんとおさまるところにおさまるものと、どこまでいってもはっきりしないものとの差でしょうか。
ただ、読んでいて、ひりひりするような緊張感があるところは確かに似てますね。
『啓示』はわたしも好きな作品です。
もしかしたらそのうち訳すかもしれません。
そのときは、またよろしくお願いしますね。
書き込み、ありがとうございました。
自分の世代はミニ四駆なのでスーパーカーはなんだか聞いたことはあるもののって感じです。 爆発的な人気だったみたいですね。一度は触ってみたいです。オコナーは僕もよくわからないです。その短編も救いがなくて、自分はたんに命乞いをしているのかな、と思ってました。ただ陰陽師さんの話を聞いて、うーんと謎が残りました。ヘミングウェイの「フランナリ・マカンバーの短くて幸運な人生」的な題名の短編が浮かびました。男の妻はわざと男を撃ったのかそれとも…こういう結末がわからない話は、結局、本人にもわからないからましてや他人なんかが真実がわかるか、ってな教訓なのかもしれないですね。無理にはっきりさせなない。原因と結果を簡単に決めない。反西洋的。
女性作家は男性作家にはかけない細やかさや怨念みたいなものもあるのでこれからは女性作家のものを多く読みたいです。シャーリージャクスンとかやっぱりいいですよね。この人の小説は、ちょっと精神異常(といってもあくまでもも今の時代にあわせて考えるとそこに分類されてしまう)で人間の無意識、神秘と通じている気がします。個人的には早川が大々的にまた復刊させてくれないかな、と思います。
陰陽師さんオススメの女性作家の方とかいますか?
Yahoo!JAPAN
ミニ四駆っていうのは、サーキットを走り回らせるやつですよね。速く走るように、いろいろ改造するのが楽しいんだ、って話を、昔、家庭教師に行った先の小学生が、夢中になって話していたのを思い出します。
さて。
くっきりとしたオチを持つ短編小説の系列とは別に、人生の一瞬を切りとったような系列の短篇があります。それは一瞬だから、その人のほかの日々といったいどのような関係があるのか、よくわからない。たいした出来事ですらないのかもしれない。
にも関わらず、わたしたちの胸に忘れがたい印象を残すような作品です。たとえばヘミングウェイの「雨のなかの猫」なんてその最たるものでしょう。
そうして、どちらがわたしたちの現実に近いかというと、圧倒的に後者の方です。オチが決まる短篇が楽しいのは、何が原因で何が結果やら、何がいったい本当で、何が本当じゃないのか、わけのわからない現実に対して、くっきりした世界が提示されるからじゃないでしょうか。
そうして、よくわからない短篇は、わたしたちの世界を、別の見方もできるよ、と教えてくれるのかもしれません。ぼーっとしていたら、過ぎていくだけの日々。でも、もう一歩踏み込んだら、もしかしたらちがうものが見えてくるかもしれないよ、って。
>女性作家は男性作家にはかけない細やかさや怨念みたいなものもあるので
確かにそういう人は多いですね。
そうだなあ。
わたしがサイトで訳したことがない女性作家となると、怨念とは関係なさそうな、ユードラ・ウェルティあたりでしょうか。いや、単にいまWebで読めないか探してるんですけどね。
あと、短篇ではないですけど、アン・タイラーはほんと、おもしろいです。後期のものより、手に入りにくいけれど中期の『ここがホームシックレストラン』とか『夢見た旅』とか『アクシデンタル・ツーリスト』とかね。
サイトのなかでは、リリアン・ヘルマンの「亀」とかね。「ジュリア」の方が有名なんですが、「亀」は実は渾身の(笑)翻訳だったりします。
また読んでみてくださったら、うれしいなって思います。
書き込み、ありがとうございました。