陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フォークナー 「納屋は燃える」その9.

2008-10-20 22:49:40 | 翻訳
 その9.

 裁判はほとんど時間を要しなかったので、まだ午前も早い時間だった。少年は、これから家へ帰って畑に出るんだろう、なにしろ遅れてるんだ、ほかの小作人とくらべてもずいぶん遅れを取ってるじゃないか、と考えていた。ところが父親は荷馬車のうしろを通り過ぎ、片手で兄に荷馬車であとをついてくるように合図すると、道を渡って向かいの鍛冶屋へ入っていった。少年は父親のあとについていき、前へまわりこんで話しかけた。風雨にさらされた帽子の下の、厳しいが落ち着いた顔に、こうささやいたのだった。

「あいつ、たぶん250キロなんて手に入らないよ。25キロだって。おれたち……」

そこで初めて父親はちらりと彼に目をやった。平穏な表情のまま、冷たい目の上の、灰色のもつれた眉を寄せると、楽しげな、ほとんど優しいとさえ言えるような声を出した。

「そう思うか? まあそうだな、とにかく10月が来るまで待ってみるとしよう」

 荷馬車の用事――輪留めを一、二本直し、車輪を締め直す――はたいして時間がかからなかったし、車輪直しは荷馬車を店の裏手のばねの作業場に引いていき、そこに立てかけておけばよかった。ラバはときどき水に鼻面をつっこみ、少年は手綱をゆるめて腰を下ろし、向こうの山や、すすけたトンネル型の車庫を眺めたりしていた。のんびりしたハンマーの音が響き、父親はひっくり返したひのきの丸太に腰をおろして、気楽なようすで会話を交わしており、少年が荷馬車を作業場から引き出して戸口へ停めても、まだそこに坐ったままだった。

「そいつらを日陰に連れてってつないでおけ」父親が言った。少年は言われた通りにしてから、また戻ってきた。父親と鍛冶屋と男がもうひとり、ドアのところにしゃがんで、収穫や家畜の話をしている。少年もアンモニア臭のただよう埃っぽい、蹄の削りくずや錆びた蹄鉄のなかにしゃがんで、父親が兄さえまだ生まれていないころの、まだ博労をやっていたころの話をいつまでものんびり続けるのを聞いていた。少年は店の反対側にかかっている、去年のサーカスのぼろぼろのポスターに描かれた真紅の馬や、チュールやタイツを身につけて、空中で停止したり回ったりしている軽業師、横目使いの化粧をした道化師の姿に心を奪われ、黙って見入っていたが、そこへ父親がやってきて、声をかけた。

「昼飯の時間だ」

 家に帰るのではなかった。表の塀の前に兄と並んでしゃがみ、店から出てきた父親が、紙袋からチーズのかたまりを取り出し、ポケットナイフで慎重かつ丁寧に三等分すると、その袋から今度はクラッカーを取り出したのを眺めていた。三人は軒下にしゃがんで、ゆっくりと物も言わずに食べた。それからまた店のなかに入っていくと、ブリキのひしゃくでバケツのスギ臭い、生のブナのにおいまでするぬるい水を飲んだ。それでもまだ家には帰らない。今度は馬の市へ出向いた。高い柵をめぐらし、柵に沿って人びとが立ったり坐ったりしているところへ、馬が引き出される。馬が歩いたり、速足をしたり、つぎには駆け足で通路を行ったり来たりするあいだに、人びとはのんびりと売り買いをしているのだった。やがて日が西に傾き始めても、彼ら――親子三人――は見て回りながら、話を聞いていた。兄は濁った目をして、やめられない噛み煙草をひっきりなしにかんでいたし、父親は、ときおり馬に論評を加えていた。とくにだれに話しかけていたわけではなかったのだが。

 三人が家に戻ったのは日が暮れてからだった。ランプの火で夕食をとり、それからドアの階段に腰を下ろして、少年はすっかり日の落ちた夜の光景をながめながら、ヨタカとカエルの声に耳を澄ました。すると母親の声がした。

「アブナー! 駄目よ、駄目。お願い、ああ、神様。アブナー!」

(この項つづく)


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