陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

赤い実を食べた

2008-06-06 22:26:02 | weblog
今日、すっかり日が長くなって、まだ明るい中を駅から自転車に乗って帰っているときのことだ。住宅街の細い通りに入っていくと、向こうで中年とおぼしき女性が立ち止まって、何かをしきりに口に運んでいる。最近では食べながら歩いている人を見るのもめずらしくはなくなったが、その人は髪をゆるくうしろで束ね、きちんとお化粧もし、タートルのサマーセーターにスラックス、ブランドもののバッグという、大変身なりのいい人で、しかも立ち止まっている。だからこちらも、何を食べているのだろう、と、それでもあまり失礼にならないように、ちらちらと見てしまったのである。すれ違い際に確認したところ、その人が食べているのは、植え込みに繁った木イチゴらしい。赤い実がたくさんついていて、その人は、少なくともわたしがその小道に入る前から横を通りすぎるまで、実をちぎっては口に入れ、またちぎっては口に入れしていたのである。

ちなみに、そこの家の人は、よく庭の手入れをしていて、わたしもいちど剪定した月桂樹の枝をもらったことがある。料理に使うんだったらあげる、と手渡されたおおぶりの枝を持って帰って、しばらくは木のにおいを楽しんだのだが、虫がぞろぞろと這いだしてきたので、葉っぱだけ取って乾かし、枝のほうは捨ててしまった。そのとき以来、顔を合わせれば挨拶を交わしている。

ともかくその家の人ではないのだ。確かに熟れた木イチゴがたくさん実ったままになっていれば、五個や十個、食べたところでどうということもないのかもしれないが、外見と年齢から似つかわしくないその人の行動に、少し驚いてしまったのだった。

昔の子供向けの本か何かで、近所の柿の木に登って、柿を取って逃げた、というような場面を読んだことがあるような気がするのだが、そういう経験がある人というのは、いったい何歳ぐらいまでなのだろう。柿の木自体、なかなか見かけないのだが、秋にもなれば、電車の窓からオレンジ色の実をたわわに実らせている柿の木を目にすることもある。取る人もいないのだろう、いつまでもいつまでも実っている。昔、甘いものが不足していた頃にはさぞかし貴重だったであろう柿の実も、いまではわざわざ取る人もいないのかもしれない。

木から果物をもいで食べたり、畑でなったトマトやスイカを、そのままそこで食べたという経験が、わたしにはない。まだ日が昇って間もない時間に朝露をふんで畑に入っていき、色づいたトマトをもいで、そのままかぶりつく、というのは、ずいぶん気持ちが良さそうだが、わたしにはまったくそんな経験がない。だいたい畑のなかに入った経験も、二、三度あるかないかぐらいなのである。近所に猫の額ほどの畑があって、そこに生えているトウモロコシの丈が伸びたり、トマトやキュウリが日に日に色づいていくのを見たりするのは、それだけで楽しいものだったが、その畑も数年前に建て売り住宅になってしまった。

畑のかわりにはならないが、わたしはベランダでブルーベリーとラズベリーを育てている。ゆくゆくはジャムを作るほど収穫することをもくろんでいるのだが、いまのところ、ラズベリーはせいぜい十五個か二十個ぐらい、ブルーベリーは五十個ぐらいも取れるだろうか。ところが二週間から一ヶ月ほどかけてそのくらいの収穫ということは、一日に一個か二個なのである。そろそろかな、と思っていると、ヒヨドリやムクドリに食われてしまっている。ただ、そんなときでも、その場でもいで口に入れる、ということはどうしてもできない。つい、水道の水で洗って、冷蔵庫で冷やして……ということをやってしまうのだ。

今日見た女性は、立ち止まって、ハンドバッグを肘にかけたまま、片手で枝を押さえて、反対の手で、無心に取っては口に入れていた。確かにそんなことがしたくなるほど、はっとするほどあざやかな木イチゴの赤だったのだ。小さな赤い粒が固まった実が、夕方の日を受けてきらきらと光っていた。



"what's new" も書きました。あと、本文の最後にちょっとした付記を書き足しています。興味がある方はまたのぞいてみてください。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
何の実を食べた? (小狸工房)
2008-06-07 02:10:12
その女性は、子供の頃、日常的に木の実や花の蜜を口にしていたとか。
植え込みの赤い実を目にして、ふと幼い頃の習慣が蘇ったとか。
そんなところではないでしょうか。

庭木に実のなる木を植えるのも、武家の嗜みであったとも聞きますし。

知人のブラックベリー畑はワンコが番をしているそうです。
収穫期になると野ウサギに食べられてしまうので。
返信する
夢の採取生活 (陰陽師)
2008-06-08 23:21:49
小狸工房さん、こんばんは。

お返事、遅くなってごめんなさい。
もうひとつの方、ログそのものが結論をつけそこねているので、どう書こうかもう少し考えたいと思っていたのです。そのとき、一緒に書きますから、そちらはもう少し待ってくださいね。


>その女性は、子供の頃、日常的に木の実や花の蜜を口にしていたとか。
>植え込みの赤い実を目にして、ふと幼い頃の習慣が蘇ったとか。

そうですよね。
よその家の庭の実を取って食べるというのは、わたしたちの日常の行動から逸脱したものだと思うんです。
なんにせよ、その人にそういう行動を取らせるような、強い衝動が起こったのだろうと思います。そうして、その強い衝動というのは、わたしたちの身体に刻まれた「遠い日の記憶」であったように思うんです。

ツツジでしたっけ、花の蜜を吸う、ということを聞いたのは、わたしがもう十代の半ばを過ぎたころだったかと思います。
埃や排気ガスをかぶったツツジを口に入れるなんて、という意識が先に立ち、「小さい頃、よくそれをやった」という人の話を奇妙なもののように聞いたのでした。
考えてみれば、わたしのそうした面での体験というのは、ずいぶん貧しいもののように思います。

>庭木に実のなる木を植えるのも、武家の嗜みであったとも聞きますし。

そうですね。いわゆる「常在戦場」というやつですよね。

干し柿なんて、渋柿を食べる工夫ですよね。そのままでは食べられないほど渋い柿を、おいしく食べられるように工夫する。さらに保存が利くようにまでする。
そうした面での知恵というのは、すごいものだなと思います。

いまでは干し柿を食べる人も減っているのでしょう。なったままずっと放っておかれている柿を見ると、なんとなく寂しい気持ちになります。ヒヨドリたちは喜んでいるのかもしれませんが。

わたしなんて、すぐ汚い、とか、虫がついてるんじゃないか、なんてことを考えて、なっているものに手を出すなんて、そもそも思いつくことすらないのですが、そういうことが自然にできるのって、なんかいいなあ、って思ったのでした。

>収穫期になると野ウサギに食べられてしまうので。

すごいですね、野ウサギがいるようなところなんですね!
野ウサギがいるようなところだったら、きっと木になったままの果実も、取って食べることができるような気がします。

その昔、マンガの「美味しんぼ」だったと思うんですが、例の海原雄山でしたっけ、あの人が、「最高のサラダ」というので、植木鉢にひと株だけ植えたトマトの枝に、一個だけなったトマトを出すんです。それをもいで食べるのが、最高のサラダだ、とか言って。

だけど、それはちがうよなあ、と思ったのでいまでも覚えてるんです。
食卓で食べるのは「もぎたて」とはちがうものだ。単なる野趣の気取りだけじゃないか、って。
それを言うならやっぱり朝露を踏んで、畑の中に入って行かなくちゃって思います。

ブラックベリーもいいですね。今度、植木を捜してみよう。
ええ、夢はベランダ菜園の採取生活なんです(笑)。

書きこみありがとうございました。
返信する
この木何の木 (小狸工房)
2008-06-09 04:21:23
陰陽師様へ

私の駄文は、ああ、こういう意見もあるか、くらいに読み飛ばしていただければ。

生垣のツツジは僕の母が。白砂糖が貴重品だった世代ですから。戦前はチョコレートもキャラメルも国産品がいくらでも出回っていたというのがどうしても信じられなかったって。
干し柿もあまり見かけなくなりましたね。あの品の良い甘みにはいかなる甘味料も敵わないという話。
近所のもと陸軍兵の老人の話によると、大陸駐留の頃には、外出許可日に小遣いをもらって街に屋台売りの月餅を食べに行くのが何よりの楽しみだったとか。この月餅に挟み込まれた餡が干し柿を練ったもので、その口に広がる甘みを今でも懐かしく思い出されます。
月餅と干し柿に関しては「マスターキートン」から。

ブラックベリー畑の野ウサギは、ペットとして飼われていたものが山に捨てられそのまま野生化したもので、むしろ野良ウサギとでも呼ぶべきか。
収穫された実はデコレーションに、ケーキ屋さんに卸すのだそうです。

よく手入れされた新鮮な作物がご馳走、というのも国民性でしょうかね。
素材の良さを重視する日本人は大まかに切り分けた生野菜にドレッシングを和えたものをサラダとして供するが、料理にうるさいフランスでは細かく刻まれた野菜をドレッシングと丁寧に混ぜ合わせたものしかサラダとして認めないというのは「裂けた旅券」から。

なんだか漫画の話が多くなりました(笑)

ではまた。
返信する
貴重な甘味 (陰陽師)
2008-06-10 22:39:32
>生垣のツツジは僕の母が。白砂糖が貴重品だった世代ですから。

戦後しばらくはほんとうに砂糖は貴重だったみたいですね。
いつだったか、たまたまTVアニメの『サザエさん』を見ていたら、タラちゃんが「あまいですぅ~」と言ってお菓子か何かを食べている。そのせりふに、マンガそのものが描かれた時期を思ったものでした。

だって、わたしたち、何かを食べて「甘いっ」って言うときって、「おいしい」っていう意味では使わない、逆に、これ甘すぎるよ(つまり、あまりおいしくない)という意味で使うように思うんです。

そうしてケーキでも何でも、おいしいものは「甘さ控えめ」「しつこくない上品な甘さ」という。

やはり砂糖が豊富というのは、それを「おいしい」と意識することもなくなるということなのかもしれません。

>よく手入れされた新鮮な作物がご馳走、というのも国民性でしょうかね。

日本人が生野菜をバリバリ食べるようになったのは比較的歴史は浅いと思うんです。
中国の人は、確かいまでも食べませんよね。
わたしが子供のころは、もう生野菜はふつうに食べていたけれど、野菜というと生で食べることに違和感を持っていた人のエッセイを読んだ記憶はそのころのものでした。

何かおもしろいですね。
おいしさも時代がある。

いろんなことを考えました。
書きこみありがとうございました。

返信する

コメントを投稿