陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』その10.

2007-08-16 23:14:51 | 翻訳
第十回

 ポケットから封筒を取りだして、しぶしぶ、といえなくもない仕草で開いた。手紙なんてまったくぞっとする。再婚してからというもの、手紙というと、決まって何か不快なことが書いてあった。これは姉からのものだ。ざっと目を通したが、叱責と耳の痛むことしか書いてない。「恥ずかしいまでのあわてよう」「社会的な自殺」「墓の中でまだ冷たくもならないのに」「下流階級の人間」ありとあらゆる言葉が書いてある。いまや立派でまっとうな考えの親戚たちは、どの手紙でもかならずこうしたことを言ってくるのだった。苛立ちのあまり、馬鹿げた手紙を破ってしまおうとしたとき、不意に三枚目の最後の一行が目に入った。それを読むと、気持ちが悪くなるほど激しい動悸がしてきた。あきれるにもほどがある! ジャネット・スペンスがことあるごとに、自分がドリスと結婚するために、妻を毒殺したと言いふらしているのだという。これほどまでの悪意があろうか。いつもはものやわらかな気性のミスター・ハットンだったが、このときばかりは怒りで震えた。悪態をついて――あの女をさんざん罵ってから、子供のようだったが、なんとか自分をなだめたのである。

 やがてふと、この状況のバカバカしい側面に気がついた。この自分がドリスと結婚するために、誰かを殺すなんて! 自分が眼もあてられないほど退屈していることを知りさえすれば。哀れなジャネット! 人を陥れようとして、結局、馬鹿げた振る舞いをすることしかできなかったのだ。

 足音に気がついてはっとした。あたりをみまわす。テラスの下の庭で、召使いの娘が果物をつんでいた。ナポリ人で、北部のフィレンツェまでふらふらとやってきたのだ。古典的な顔立ちの見本のようだ――多少、気品に欠けるが。彼女の横顔は、シチリアコイン、少し落ちる時期のものであるが、コインに刻まれた顔を引き写したようだった。顔立ちはすばらしい伝統そのままの華やかなカーヴ、内面のほぼ完全なうつろさが表情に浮かんでいる。なかでも美しいのは口元だった。自然が描いたカリグラフィの手跡のような豊かな曲線は、強情で短気な性質を示していた。ミスター・ハットンは、みっともない黒い服の下に、力強い肉体、引き締まり量感のある体が息づいていることを見抜いたのだった。以前から漠然とした興味と好奇心を感じながら見てはいた。今日になって、その好奇心は、欲望と定義されるものに焦点化されたのである。ギリシャ詩人テオクリトスが歌った牧歌。ここに女がいる。だが彼は、ああ残念ながら火山のふもとの丘の山羊飼いとはいかない。彼は女を呼んだ。

「アルミダ!」

 それに応えた女の笑みが、あまりに挑発的で、あまりにたやすく貞節を譲り渡すことを示していたために、逆にミスター・ハットンはひるんだ。彼はふたたび崖っぷちにたっていた――崖っぷちに。引き返さなくては。早く、早く、手遅れになる前に。娘はずっと彼を見上げたままでいた。

“Ha chiamato?(お呼びになりました?)” とうとう彼女が聞いた。

 愚挙か理性か? もはや選択の余地はない。つねに愚行が選択されてきた。

“Scendo(降りていくよ),”彼は答えた。十二段の階段が庭からテラスまである。ミスター・ハットンは数えた。一段、一段、一段、一段……。自分がひとつの地獄の輪から、次の地獄へと降りてゆく姿を見た――風が吹きすさび、霰が降る闇から、悪臭ただよう汚泥の淵へと。

(次回最終回)


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