その昔、おそらく雑誌で読んだのだと思うのだけれど、アメリカの映画スターのデンゼル・ワシントンが南アフリカ共和国に行った、という話が載っていた。印象的だったのは、同行した彼の息子が「ここには黒人がいっぱいいるね」とうれしそうに話した、ということだった。
ワシントンの息子は、おそらくはアメリカで上流階級の子どもが通う学校に行っているのだろうし、そうした学校では黒人は圧倒的に少数なのだろう。そういう学校で、しかも映画スターの子どもであるならば、露骨な差別感情にさらされることも少ないのではないか。それでもマイノリティであるということはそれだけで神経をすり減らすことなのだ、とひどく印象に残ったのだった。
植民地で支配する側の一員であるというのはどういうことなのか。
たとえば、牧師の娘としてインドに行き、自分がそこにいることに何の疑問も抱かず、自分に向けられた眼差しの意味に気づくこともなく、そこに住む「原住民のこども」を題材に、「愉快な」物語を書くこともできる。
あるいは、キプリングのように「情け深い帝国主義」イギリスが面倒を見てやらなければ、インドは立ちゆかない、と考えることもできる。
オーウェルは、そのどちらともちがって、帝国主義に批判的な目を向けつつもその一員として、自分に向けられた憎悪をひたすらに感じる、という道を選んだ、というか、結果的に取らざるを得なかった。
それがどれだけきついことだったか。
少なくともその「きつさ」を想像してみる価値はあると思う。
事実、オーウェルは五年間の勤務の間に健康を害し、休暇を取って帰国する。
実際にオーウェルはそうして最下層に身を投じることになる。この間のことは『パリ・ロンドン放浪記』(小野寺健訳 岩波文庫、ほか晶文社版も)に詳しい。
人が人を支配する、というのは、どういうことだろうかと思う。
わたしはソキウスのこのページでマルクスの「この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、かれが王だから自分たちは臣下なのだとおもうのである」ということばを知った。
開高健は、この『象を撃つ』という短編を
とまとめた。確かにそれはそのとおりなのだけれど、そして、確かに〈支配スルモノハ支配サレルモノニヨッテ支配サレテイル〉のだけれど、支配される者が自発的に膝を屈する、というのはどういうことなのか、オーウェルに嘲笑を浴びせ、見せ物を楽しんだビルマ人をどう考えたらいいのか、そして、それを日本人の自分が読むということは、どういうことなのか、考えることはたくさんある。
(※近日中に手を入れて全文をサイトに掲載する予定です)
ワシントンの息子は、おそらくはアメリカで上流階級の子どもが通う学校に行っているのだろうし、そうした学校では黒人は圧倒的に少数なのだろう。そういう学校で、しかも映画スターの子どもであるならば、露骨な差別感情にさらされることも少ないのではないか。それでもマイノリティであるということはそれだけで神経をすり減らすことなのだ、とひどく印象に残ったのだった。
植民地で支配する側の一員であるというのはどういうことなのか。
たとえば、牧師の娘としてインドに行き、自分がそこにいることに何の疑問も抱かず、自分に向けられた眼差しの意味に気づくこともなく、そこに住む「原住民のこども」を題材に、「愉快な」物語を書くこともできる。
あるいは、キプリングのように「情け深い帝国主義」イギリスが面倒を見てやらなければ、インドは立ちゆかない、と考えることもできる。
オーウェルは、そのどちらともちがって、帝国主義に批判的な目を向けつつもその一員として、自分に向けられた憎悪をひたすらに感じる、という道を選んだ、というか、結果的に取らざるを得なかった。
それがどれだけきついことだったか。
少なくともその「きつさ」を想像してみる価値はあると思う。
事実、オーウェルは五年間の勤務の間に健康を害し、休暇を取って帰国する。
1927年に休暇で帰国したとき、勤めをやめようというはらは、もう半ば決まりかけていたが、イギリスの空気をひと息吸ったとたんに、完全に決まった。あのえげつない独裁制の先棒をかつぎに戻るのは、もうまっぴらごめんだ、と思った。しかしわたしの気持ちは、ただ勤めをやめたらそれでいい、というものではなかった。今まで五年間、弾圧機構の一部をつとめてきたわたしは、そのために良心の呵責をも感じていたのだ。忘れることのできないおおぜいの人たちの顔――被告席に立った囚人の顔、死刑囚監房で処刑を待っている死刑囚の顔、わたしがどなりつけた部下たちの顔、木で鼻をくくったようにあしらってきた老いた農民たちの顔、怒りにまかせてげんこで殴りつけた召使いや苦力たちの顔(東洋へくると、おおぜいの人が、少なくとも時々はこんなまねをする。それというのも、東洋人という連中をあしらうのは、まことにもって気骨が折れるからだが)――がわたしにつきまとい、どうにも我慢ができなかった。わたしは自分が償いをしなければならない罪の重さを意識していた。……
帝国主義からぬけ出すだけでは充分でないので、ありとあらゆる形式の、人間による人間の支配からもぬけ出さなければならない、という気がした。わたしは自分の身を落とし、しいたげられている人たちの中へじかに入り込んで、そのひとりとなり、その人たちの味方となって、しいたげられている連中と闘いたい、と思った。(『ウィガン波止場への道』 『動物農場』高畠文夫訳 角川文庫版解説よりの孫引用)
実際にオーウェルはそうして最下層に身を投じることになる。この間のことは『パリ・ロンドン放浪記』(小野寺健訳 岩波文庫、ほか晶文社版も)に詳しい。
人が人を支配する、というのは、どういうことだろうかと思う。
わたしはソキウスのこのページでマルクスの「この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、かれが王だから自分たちは臣下なのだとおもうのである」ということばを知った。
開高健は、この『象を撃つ』という短編を
〈支配スルモノハ支配サレルモノニヨッテ支配サレテイルノダ〉という簡潔な主題をこれ以上ない明瞭さで言明しておき、そして託宣の強烈さがデリケートな全体を損傷することなく、みごとなイメージに一篇を結晶させてみせた。
(『動物農場』 角川文庫版よりの孫引用)
とまとめた。確かにそれはそのとおりなのだけれど、そして、確かに〈支配スルモノハ支配サレルモノニヨッテ支配サレテイル〉のだけれど、支配される者が自発的に膝を屈する、というのはどういうことなのか、オーウェルに嘲笑を浴びせ、見せ物を楽しんだビルマ人をどう考えたらいいのか、そして、それを日本人の自分が読むということは、どういうことなのか、考えることはたくさんある。
(※近日中に手を入れて全文をサイトに掲載する予定です)
そんな時、ここのHPに助けていただきました。本当に感謝です!!
次はガンジーについて書かれた作品を訳すらしいので私もいい訳できるように頑張ります★
参考になってなによりです。
>先生の訳があまりに堅すぎて困ってたんです
これは先生の責任じゃなくて……。
英語の授業だと思うんですが、基本的に英文解釈と翻訳は全然ちがうものなんですね。
わたしも翻訳は勉強中で、あまり偉そうなことは言えないんですが、できるだけ原文に忠実に、何も足さない、何も引かない、を心がけてはいても、どうしても英語から日本語に移しただけではぎくしゃくする。そんなとき、微妙に順番を入れ替えたり、ほんのちょっとだけ足したりします。
だから、原文からは、多少離れてしまっているところもあります。
もうひとつ、単語の意味する範囲が、やはり日本語と英語ではずいぶんちがいますから、訳者の色というのも出てくるのです。
無色透明、自己主張の少ない訳を心がけてはいますが、やはり、「いわゆる英文解釈」的な見地から見ると、マイナスポイントをつけられかねないところもある。
参考にしていただくのは大変に光栄なのですが、どうかそういうものだということは踏まえておいてくださいね。
サイトのほうにもいくつか翻訳を載せているので、もしよかったら、そちらものぞいてみてくださいね。
それじゃ、また遊びにいらしてください。