(承前)
「絶対に、ウィル・メイズはやってない」理髪師がいった。「万一やった人間がいたとしても。あたしだけじゃない、みんなだってこの町みたいにいい黒ん坊のいるところはどこにもないって知ってるはずでしょ。それに女ってものは、たとえ理由なんてなくても男のことをいろんなふうに考えるもんだ、ってこともよく知ってるでしょう。ミス・ミニーときたら、とにかく……」
「わかった、わかった」元兵士がいった。「おれたちはこれからやつとちょっと話をするだけさ。それだけだよ」
「話だなんてとんでもない」ブッチがいう。「そんなことはとっくに終わって……」
「頼むから、いいかげんにしてくれよ」元兵士が割り込んだ。「町中の人間みんなに……」
「聞かせてやりゃいいじゃないか」マクレンドンがいう。「みんなに教えてやれよ、白人の女をみすみす……」
「さぁ行こうぜ、もう一台車が来たぞ」
路地の入り口に砂ぼこりをまきあげて、二台目の車がタイヤをきしませながら入ってきた。マクレンドンは自分の車を発進させて、先に走り出した。通りは砂ぼこりが霧のようにたれ込めている。街灯のまわりには、水の中の明かりのように、おぼろな輪ができていた。車は街の外に出る。
わだちのついた狭い道は直角に曲がるのを繰り返していた。そこにも、そこだけでなく地上のあらゆるものの上にただよっていた。製氷工場の暗い大きな建物が、空にそびえている。黒人のメイズはここで夜警として働いているのだった。
「ここに停めておこう」元兵士がいった。マクレンドンは返事をしない。そのまま荒っぽく走らせ続け、やおらブレーキをかけた。ヘッドライトがのっぺらぼうの壁をぎらぎらと照らす。
「頼むから聞いてくださいよ」理髪師がいった。「もしやつがここにいるんなら、それこそやってないってことになりませんか? 何かしたんだったら、逃げてます。そうするはずじゃありませんか?」
後続の車が続いて止まった。マクレンドンは自分の車から下りる。ブッチも飛び出してきて、ぴったりその横についた。「聞いてください」理髪師がいった。
「ライトを消すんだ!」マクレンドンが命じた。息がつまりそうな闇が押し寄せる。音のない世界に聞こえるものといえば、この二ヶ月、乾ききった砂ぼこりのなかに生きてきた彼らの、空気を求めて呼吸する肺の音だけだった。やがてマクレンドンとブッチがざくざくと砂利を踏み敷きく足音が遠ざかっていき、まもなくしてマクレンドンの声が響いた。
「ウィル!……ウィル!」
東の空低く、病んだ血が大量に流れ出したような月の光がのぼってくる。山の背の上に姿を現した月は、大気も砂ぼこりも銀色に照らしだし、そのために、彼らの姿は、溶けた鉛のボウルのなかで、生き、呼吸しているように見えた。夜啼く鳥の声も、虫の声すらせず、耳に響くのは、彼らの息と、車が冷えて収縮する金属のピキッという微かな音だけだった。お互いの身体がふれると、干上がってしまったために、乾いた汗が吹き出してくるように思えた。「畜生」だれかがいった。「はやいとこ外に出ようぜ」
(この項つづく)
おまけ
----(今日のできごと)------
帰り道、自転車で信号待ちをしていた。
「♪おーーーーうぇいざさまーざすりっぴんなうぇぃ~~」(なぜかここはひらがなでこう歌ってしまうワタシ)と鼻にかかった声のスティーヴン・ウィルソンと一緒に歌いながら、青に変わったところで、さて、と、ペダルを踏む足に力をこめた瞬間、目の前にいたおばちゃんが「あ、そうや!」と叫んでいきなりひょいっと下りて(なんでおばちゃんは自転車からすぐおりるんだろう?)自転車をUターンさせやがった もといっ、させたので、危うくそこにつっこみそうになってしまった。とっさにハンドルを切ったのは、もちろんこちら。
すると向こうは、「そやそや、忘れてたわ。ほんま、えらいことやわなぁ」とわたしに話しかけると、きこきこと助走をつけ、そのまま自転車に乗って去っていってしまった。
もちろん見たことのないおばちゃんである。
おばちゃんというのは、なかなかに理解しがたい生き物であるように思われる。
自分もやがてそうなるのであろうか。ちょっと怖い(この「ちょっと」は"a little"ではなくて、"quite a bit"の意)。
「絶対に、ウィル・メイズはやってない」理髪師がいった。「万一やった人間がいたとしても。あたしだけじゃない、みんなだってこの町みたいにいい黒ん坊のいるところはどこにもないって知ってるはずでしょ。それに女ってものは、たとえ理由なんてなくても男のことをいろんなふうに考えるもんだ、ってこともよく知ってるでしょう。ミス・ミニーときたら、とにかく……」
「わかった、わかった」元兵士がいった。「おれたちはこれからやつとちょっと話をするだけさ。それだけだよ」
「話だなんてとんでもない」ブッチがいう。「そんなことはとっくに終わって……」
「頼むから、いいかげんにしてくれよ」元兵士が割り込んだ。「町中の人間みんなに……」
「聞かせてやりゃいいじゃないか」マクレンドンがいう。「みんなに教えてやれよ、白人の女をみすみす……」
「さぁ行こうぜ、もう一台車が来たぞ」
路地の入り口に砂ぼこりをまきあげて、二台目の車がタイヤをきしませながら入ってきた。マクレンドンは自分の車を発進させて、先に走り出した。通りは砂ぼこりが霧のようにたれ込めている。街灯のまわりには、水の中の明かりのように、おぼろな輪ができていた。車は街の外に出る。
わだちのついた狭い道は直角に曲がるのを繰り返していた。そこにも、そこだけでなく地上のあらゆるものの上にただよっていた。製氷工場の暗い大きな建物が、空にそびえている。黒人のメイズはここで夜警として働いているのだった。
「ここに停めておこう」元兵士がいった。マクレンドンは返事をしない。そのまま荒っぽく走らせ続け、やおらブレーキをかけた。ヘッドライトがのっぺらぼうの壁をぎらぎらと照らす。
「頼むから聞いてくださいよ」理髪師がいった。「もしやつがここにいるんなら、それこそやってないってことになりませんか? 何かしたんだったら、逃げてます。そうするはずじゃありませんか?」
後続の車が続いて止まった。マクレンドンは自分の車から下りる。ブッチも飛び出してきて、ぴったりその横についた。「聞いてください」理髪師がいった。
「ライトを消すんだ!」マクレンドンが命じた。息がつまりそうな闇が押し寄せる。音のない世界に聞こえるものといえば、この二ヶ月、乾ききった砂ぼこりのなかに生きてきた彼らの、空気を求めて呼吸する肺の音だけだった。やがてマクレンドンとブッチがざくざくと砂利を踏み敷きく足音が遠ざかっていき、まもなくしてマクレンドンの声が響いた。
「ウィル!……ウィル!」
東の空低く、病んだ血が大量に流れ出したような月の光がのぼってくる。山の背の上に姿を現した月は、大気も砂ぼこりも銀色に照らしだし、そのために、彼らの姿は、溶けた鉛のボウルのなかで、生き、呼吸しているように見えた。夜啼く鳥の声も、虫の声すらせず、耳に響くのは、彼らの息と、車が冷えて収縮する金属のピキッという微かな音だけだった。お互いの身体がふれると、干上がってしまったために、乾いた汗が吹き出してくるように思えた。「畜生」だれかがいった。「はやいとこ外に出ようぜ」
(この項つづく)
おまけ
----(今日のできごと)------
帰り道、自転車で信号待ちをしていた。
「♪おーーーーうぇいざさまーざすりっぴんなうぇぃ~~」(なぜかここはひらがなでこう歌ってしまうワタシ)と鼻にかかった声のスティーヴン・ウィルソンと一緒に歌いながら、青に変わったところで、さて、と、ペダルを踏む足に力をこめた瞬間、目の前にいたおばちゃんが「あ、そうや!」と叫んでいきなりひょいっと下りて(なんでおばちゃんは自転車からすぐおりるんだろう?)自転車をUターン
すると向こうは、「そやそや、忘れてたわ。ほんま、えらいことやわなぁ」とわたしに話しかけると、きこきこと助走をつけ、そのまま自転車に乗って去っていってしまった。
もちろん見たことのないおばちゃんである。
おばちゃんというのは、なかなかに理解しがたい生き物であるように思われる。
自分もやがてそうなるのであろうか。ちょっと怖い(この「ちょっと」は"a little"ではなくて、"quite a bit"の意)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます