陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

方言の話

2007-10-04 22:18:28 | weblog
横光利一の「夜の靴」を読んでいて気になったのは、村の人の言葉である。

横光は昭和二十年四月、東京から夫人の実家のある山形県鶴岡市に疎開させる。そうして、ひとり東京で生活を続けるのだが、空襲があまりにひどくなり、六月に鶴岡に移る。そこからさらに、八月十二日、西田川郡上郷村に移るのだが、そこで終戦を迎えるのだ。
「夜の靴」はその三日後、終戦の日から四ヶ月の日記、という体裁になっているので、その舞台も上郷村と考えてよさそうだ。
ところがこんな部分を読むと、ちょっと考えてしまうのである。
「おれは小さいときから算術が好きでのう。」
 と久左衛門は云った。「今の若いもののやることを見ていても、おれよりは下手だのう。おれは算術より他に、頼りになるものは、ないように思うて来たが、やっぱりあれより無いものだ。」
 またこの老人はこうも云った。
「みんな人が働くのは、子供のためだの。おれもそうだった。」

山形といっても、鶴岡は庄内地方になるので、上郷村の言葉も庄内弁であると考えて良いだろう。ご存じの方がいらっしゃったら教えてほしいのだけれど、これは庄内弁なんだろうか。

わたしは東北地方に行ったことがないので、どこの言葉も聞いたことがない。
だが、いわゆる「東北弁」といういい方はずいぶん大ざっぱであるにちがいないのだ。青森と、秋田の言葉が一緒のはずがないし、同じ県というより、それ以前の地方がその方言の単位になっているように思う。

以前、こんな経験をしたことがある。
たまたまあるとき、千葉県の山間部に行ったのだが、そこでおじいさんに話しかけられたのだ。ところが、何を言っているか、ただの一言も聞き取れない。ほんとうに、これが同じ日本語なんだろうか、自分が住んでいるところからほんの数時間しか離れていないような場所なのに、と青ざめた。驚くほどわからなかった。いま思うに、早口だったことと、イントネーションにまったく馴染みのないものだったために、単語と単語のあいだに切れ目をいれることができなかったのだと思う。

ともかくそういう経験があったために、横光が上郷村の人々と、つつがなくコミュニケーションが取れていたとは信じがたいのである。

ただ、『夜の靴』にはこんな部分もある。
 ある朝、私が縁側で蚤を取っていると、裏からいきなり這入って来た農婦が、何やら意味の通じぬことを私に喋ったことがある。妻に翻訳させると、子供を白土工場へ入社させたいので、その履歴書を私に書いてくれという意味だった。

「何やら意味の通じぬことを私に喋った」のではなく、この農婦の言葉が聞き取れなかったのではあるまいか。

あるいはこんな部分もある。
 寝ながらあちこちで話す村人の会話を聞いていると、このあたりの発音は、ますますフランス語に似て聞える。この谷間だけかもしれないが、意味が分らぬからフランスの田舎にいるようで、私はうっとりと寝床の中で聴き惚れている。私の妻に云わせると、この村の言葉はこの国でも特殊な発音だとのことだが、まことにリズミカルで柔かい。起き出して夢破れるのはいやだから、なるべく、このような朝は朝寝をして、ここだけめぐる山懐にフランスが落ち溜っている愉しみで、じっと耳を澄ませている。人人の中でも宗左衛門のあばと参右衛門の発音が、一番フランス語に近い。


ここから判断するに、ここに会話としてカギカッコで括った会話として出てくる久左衛門や参右衛門の言葉は、横光利一の創作なのかもしれない。

ここでひとつ考えておいた方がいいのは、久左衛門は日露戦争時に従軍経験があるということである。軍隊で強制的に共通語を身につけさせられた結果、村人同士で話しているときはともかく、村民以外の人と話すときは、対外的な、共通語にちかい言葉を話していたのかもしれない。あるいは、人前で話すことの多いお寺の和尚さんなら、村人とはちがう、公的な場面での言葉を使っていたとしても不思議はない。

ただ、それにしても「そうだのう」「同じことじゃ」というのは、何というか、ちがうなあ、と思ってしまうのだ。これはどこかの言葉というより、一種の方言のステロタイプではあるまいか。
できればもう少し、その地域の言葉で書いて欲しかったように思うのだ。

だが、話し言葉を記述するのは、その人がその言葉を使わないとしても、あるていど知っていなければできないことなのかもしれない。横光はそれができるほどはそこに滞在しなかった、ということなのかもしれない。


かく言うわたしも、人生のほぼ半分を関西で過ごしてきた。
だが、わたしはほとんど共通語に近い言葉を使う。ときに関西が長いのに……と言われることがあるのだが、関西圏をあちこち移動していたために、いったいどこの言葉を自分の第二言語として採択していいのか、迷うところがあるのである。
一口に京都弁といっても、市内出身者の言葉と、北部の人の言葉はちがう。大阪寄りの言葉もちがう。言葉というか、発声がすでにちがうのだ。


「もう、そぉゆうこと言うのは、めちゃバカにしてるいうことやもん」
「具体的に、どぉゆうことでそうゆうてるの?」
「具体的に、て、言われると、ちょっとわたしもよぉ言えへんねんけどな」

関西人の会話、と考えて、上でサンプルを作ってみた。
どうでしょう、想定は若い女性の「関西弁」での会話、というところなんですが。

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2 コメント

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Re:方言の話 (helleborus)
2007-10-05 03:19:52
 生まれも育ちも大阪の、helleborusです。

 いつだったか嘉門達夫がNHKのTV講座で関西弁をレクチャーしていたのを見ました。そのなかで記憶にのこっているのが、関西弁には一音の言葉がないというものです。たとえば、蚊、胃、湯、手、戸など2語で発音されます。「蚊(かぁ)、おったで」「胃(いぃ)が痛いねん」「湯(ゆぅ)わいたで」「ちょっと手(てぇ)出してみ」「ちゃんと戸(とぉ)閉めた?」
 アクセントの置き方も東西で変わるのですが、発音では、この点を強調すると著しく関西っぽいですね。

 若い女性なら、TVドラマ(標準語)、メール調子、ネット用語、ギャル語、タレント真似など、ちゃんぽん状態という感じなので、どうしゃべられても違和感のない今です。とりわけ、「すごい」「すっごい」「ちょー」というごく限られた形容詞・副詞を声高に繰り返すことでしか強意の表現が出来ない単調さと、冗長な言い回しが多用され内容に対して一文が間延びするもどかしさ、が今の世相では「らしさ」の要点にあたりましょうか。

 バカ・アホにも東西があると聞いた覚えがありますが、いうほどでもないでしょう。(ちなみに関西では「アホ」が口をついて出やすい罵倒語だそうです)
 「言えへん」、こういう「は行」の否定は、関西ではなく京都という印象を受けます。

 書いていて思ったのが、こういうのは設定をオバちゃんにする方が良いかも、ということでした。


・河内のオバちゃんの会話例

「もう、そないな口きくんが、おもいっきしコケにしとーわな」
「具体的に、なんちゅうて?」
「具体的に、ちゅわれても、すぐには出てこんけどな」
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言葉を聞く、声を聞く (陰陽師)
2007-10-06 07:00:23
helleborusさん、おはようございます。

>「言えへん」、こういう「は行」の否定は、関西ではなく京都という印象を受けます。

そうですね、わたしも書いたあと、どこかおかしいなあ、と思っていたんですが、「は行」の否定だったんですね。なるほど、よくわかりました。

京都弁というと、わたしがすぐに思い浮かべるのは、「いうてはる」「してはる」の「はる」という簡易敬語。「はる」をつけるだけで敬語になるのは便利だなあ、と、京都に住むようになってすぐ、思いました(笑)。
あとね、京都の人がよく「自分」を二人称で使うでしょ、あれは、学生言葉なのかなあ。

「自分、昨日どこ行っててん。呼びに行ったけどおれへんかったやん」

あと、東京・横浜出身者がムカッとくるのはこれね。

「自分、田舎はどこやのん?」

これを聞いてくる相手のアゴはたいがい少し上がってる(笑)。


>「蚊(かぁ)、おったで」「胃(いぃ)が痛いねん」「湯(ゆぅ)わいたで」「ちょっと手(てぇ)出してみ」「ちゃんと戸(とぉ)閉めた?」

おもしろいですね。

「気ィ悪いわ」

というのを初めて聞いたとき、おもしろい言い方だなあ、と思ったんですが、これも一語単語の語尾を伸ばしてるわけですね。
じゃ、三重県の県庁所在地は、やっぱり津(つぅ)と発音するんでしょうか。

「明日、津(つぅ)へ行かなあかんねん」

これは何かちがうかも。固有名詞はそのままにするのかな。


わたしがいつも一番気になるのは、発音より、発声なんです。
わたしが英語の勉強をしたとき、ラジオの語学講座を聞いていても、講師の日本人とアシスタントの外国人の声の出し方があきらかにちがうことに気がついたんです。

同じ英語を話す外国人と言っても、アメリカ人と、イギリス人と、アイルランド人と、カナダ人と、オーストラリア人と、南アフリカ人は、アクセントやイントネーションという以前に、発声がそれぞれにちがってるんです。
日本人は日本語で笑うし、日本語でくしゃみをする。それは、発声が日本語だからなんだと思います。

単語は真似られる。イントネーションも真似られる。ただ、発声を近づけるのは、自分の発声ポイントをずらした状態を、一定期間保たなければならないので、声楽のトレーニングと同じ、意識的な訓練が必要です。
この、自分の生まれついての発声をそのままにして、単語の発音と全体のイントネーションだけ「英語」っぽくしても仕方がないんじゃないか、みたいに思っていた時期がありました。

そういう経験があったせいかもしれません。
わたしが方言というとき、いつも考えるのは、単語ではなく、発音でもなく、発声なんです。そうして、一番その言葉らしいと感じさせるのも、つまり、啄木が上野駅に聞きにいったのも、北上の、あるいは岩手の、あるいは東北の「声」だったのではないか。
横光が「フランス語のようだ」と思ったのも、その発声だったのではないか、と思います。

わたしは大阪といっても、あまり南の方は知らないので、直接には河内弁というのも聞いたことはないように思います。それでも、helleborusさんが書いてくださったサンプルを読むと、喉の上の方を閉めて、下あごの両サイドに力を入れ、胸からぐっと押し出され、そのまま落とし気味に(ああ、発声を記述するのはむずかしい)声を出す、「河内のオバちゃん」の発声が聞こえてくるように思います。

やっぱり方言を書き取るというのは、そこの言葉を知っていなければだめなんだろうな、と思いました。そうでなければ、宮本常一みたいに相手の声を聞くことに、独特な感受性を持っているとか。

言葉って、おもしろいですね。
書きこみどうもありがとうございました。
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