もしあなたが肉を食べているとき、「よく死んだ動物の肉なんか食べられるな」と言われたらどう思います? 食欲が失せたりしませんか?
その言葉を初めて耳にしたのは、90年代の初め、英会話教室でバイトしていたころのことである。あるアメリカ人講師のヴェジタリアンが、控え室でハンバーガーを食べている別の講師に向かって、「よく死んだ動物の肉なんか食べられるな」と言ったのである。
そのヴェジタリアンは私物をロッカーに入れてしまうと、そのまま部屋を出ていったのだが、そんないやがらせを言うなんて、あの人はケンカを売っているのだろうか、それともこのふたりはよほど仲が悪いのだろうか、と思ったものだった。
ところが言われた方は、素知らぬ顔で食べ続けている。食べ終わったところを見計らって、その人に、ケンカでもしてるの? と聞いてみた。すると、全然、という。ヤツのことは好きじゃないけどね、と笑ったあとで、どうして? と逆にわたしに聞いた。
――だって、"dead animal flesh" なんてこと、食べてる人に向かって言うなんて、ひどいでしょう?
ああ、それか、とその人はまた笑って、連中はかならず、"meat" のことをわざわざ "dead animal flesh" って言い直すんだ。ご苦労なことだね、と皮肉っぽい調子で笑った。
ほんの一瞬の出来事だったのだが、「死んだ動物の肉」という強烈な表現は、いつまでもわたしの記憶に残った。
ちょっと前に、「ザ・コーヴ」というドキュメンタリー映画のことがずいぶん話題になったが、反日感情だの、盗撮だのということはさておき、この映画の根本には、クジラやイルカの肉を食べるべきではない、というメッセージがあったのではないか(わたしは観ていないのでわからないが)。
人が何を食べようが、自分には関係ないことのはずだが、先に挙げたヴェジタリアンにせよ、日本人がクジラやイルカを食べるといって非難する外国の人びとにせよ、思想信条からあるものを口にしないと決めた人は、人が食べることさえ許せない、という気持ちが強いのだろう。
確かに「死んだ動物の肉」という表現は、まちがってはいない。けれども、わたしたちは肉を食べるときに、そのことは意識の外に置かれていることだ。
原型をできるだけ思い出させないように、きれいに切り落とされ、白いトレーに載せられてパック詰めで店頭に並んでいる。知識としては、それがかつては牛の姿をしていたり、豚の姿をしていたり、と知っていても、直接には結びつかない。
結びつかないからこそ、平気でうまい、うまいと食べることができるのだろうし、結びつけないように販売されてもいる。
そのフレーズを使う人は、わたしたちが自分の行為に罪悪感ないしは嫌悪感を抱くように、わざとわたしたちが半ば無意識のうちに見ないようにしている事柄を暴き立てる。ここでの「死んだ動物の肉」というのは、レトリックにほかならない。
「ザ・コーヴ」にしてもおなじことで、動物を肉にする過程には当然、「暴力行為」が含まれるはずだが、イルカ漁に限って、その場面を残酷に撮ることによって、イルカを食べるという行為に対する嫌悪感をかき立てようとしている、これも一種の「レトリック」なのである。
おもしろいのは、戒律によって食の禁忌が定められているユダヤ教やイスラム教の信者が、豚肉など食べるべきではないと、信者でない人に向かって主張したりはしないことである。もしかしたらコーランなどには禁忌を訴える際にレトリックが使われたりしているのかもしれないが、外に向けて、たとえば「豚の肉を口にするようなやつが言うことなど、信用できない」などという主張するのを、少なくともわたしは目にしたことがない。
かつて、ある交流会での持ち寄りパーティが行われたとき、少数ではあったが、イスラム圏からの参加者があった。その人たちは、料理のひとつひとつに対して、持ってきた人は誰ですか、とたずね、「これには一体何が使われていますか、油は何の油ですか、ラードは含まれていませんか」と確認していた。すぐ横にある皿に盛られたスペアリブは、一目瞭然だったのだろう、「何の肉ですか」と聞いたりはしなかった。だが、自分たちが禁忌とされるものがそこにあることに、不快の念を覚えたりしないのだろうか。
わたしはイスラム圏の人をそれまで直接には知らなかったので、これは良いチャンス、とばかりに話を聞きに行った。
食べられるものと食べられないものの区別、どこまで厳密にしているか、日常はハラールフード(食べて良いとされるもの)を扱っている店まで買い物に行っていることなどの話のあとで、わたしは、あんなふうに豚肉が並んでいるのを見て、不快に感じたり、逆に、どんな味がするんだろう、と好奇心をかき立てられたりしませんか、と聞いてみた。
すると、自分はその戒律があたりまえの環境に育ち、その外へ出たのは大人になってからだったから、自分とは異なるものを食べる人が多くいることは理解していた、だから特にそれをイヤだと感じたり、逆に、自分も食べてみたいと思ったりすることはない、ただ、日本で生活している子供たちは、やはりみんなと同じものを食べたがる……という話だった。
そのたった一度の経験、ひとりしか話していない経験を敷衍するのは、もちろん危険なのだが、それでも、思想信条から行動する、といっても、その思想信条を自分の意志で選択した人と、選択する以前にその環境に生まれ落ちた人のあいだには、少し温度差がある、とは言えないだろうか。
肉を食べている人に向かって「死んだ動物の肉なんか食べられるな」とは決して言わないわたしたちも、たとえば、幼虫を食べたりしている人の映像を観たときは、平気で「気持ち悪い、よくあんなものが食べられるな」と思う。実際、そんな視聴者の反応を前提としたようなテレビ番組も、ときどき放映されているように思う。それでも、その人たちのところへ出かけてまで、虫を食べることは正しくない、とは主張しないだろう。仮にそこへ行き、差し出されでもしたら、好意を無にすまい、と、必死の思いで口にするのではあるまいか。
どうやら、自分が選択した思想信条にもとづく行為を取る人は、その思想信条を共有しない人に対して不寛容だ、と言えそうだ。生まれついての好き嫌いや、習慣によって、言葉を変えれば無意識に何かをするのではないような場合には、自分の行為は正しく、そうでない人の行為は誤っている、という価値判断が、いちいち生じているらしい。だから、その思想信条を共にしない側に取ってみれば、彼らの不寛容さはときに不快に思え、またときによっては、どこか滑稽にも見える。
逆に、そんな不寛容の批判を受けて立つ側が、クジラの肉を食べることに対して、「日本の食文化」と呼んだりして、習慣的だった行為を、一種の思想信条に祭り上げるような場合もある。わたしは学校の給食で「クジラノルウェー風」なるものを食べてきた世代だが、そのころ、あれが「日本の食文化」と言われても、ちょっと困ってしまっただろう(第一、「ノルウェー風」だし)。
こう考えてみると、何かをきっかけに、「自分の思想」というものを選択的に持つようになると、人間の行為は、他者に対して不寛容になり、不快にも滑稽にもなるものなのだろうか。
このことは、もうちょっと考えてみたい。
(この項つづく)
その言葉を初めて耳にしたのは、90年代の初め、英会話教室でバイトしていたころのことである。あるアメリカ人講師のヴェジタリアンが、控え室でハンバーガーを食べている別の講師に向かって、「よく死んだ動物の肉なんか食べられるな」と言ったのである。
そのヴェジタリアンは私物をロッカーに入れてしまうと、そのまま部屋を出ていったのだが、そんないやがらせを言うなんて、あの人はケンカを売っているのだろうか、それともこのふたりはよほど仲が悪いのだろうか、と思ったものだった。
ところが言われた方は、素知らぬ顔で食べ続けている。食べ終わったところを見計らって、その人に、ケンカでもしてるの? と聞いてみた。すると、全然、という。ヤツのことは好きじゃないけどね、と笑ったあとで、どうして? と逆にわたしに聞いた。
――だって、"dead animal flesh" なんてこと、食べてる人に向かって言うなんて、ひどいでしょう?
ああ、それか、とその人はまた笑って、連中はかならず、"meat" のことをわざわざ "dead animal flesh" って言い直すんだ。ご苦労なことだね、と皮肉っぽい調子で笑った。
ほんの一瞬の出来事だったのだが、「死んだ動物の肉」という強烈な表現は、いつまでもわたしの記憶に残った。
ちょっと前に、「ザ・コーヴ」というドキュメンタリー映画のことがずいぶん話題になったが、反日感情だの、盗撮だのということはさておき、この映画の根本には、クジラやイルカの肉を食べるべきではない、というメッセージがあったのではないか(わたしは観ていないのでわからないが)。
人が何を食べようが、自分には関係ないことのはずだが、先に挙げたヴェジタリアンにせよ、日本人がクジラやイルカを食べるといって非難する外国の人びとにせよ、思想信条からあるものを口にしないと決めた人は、人が食べることさえ許せない、という気持ちが強いのだろう。
確かに「死んだ動物の肉」という表現は、まちがってはいない。けれども、わたしたちは肉を食べるときに、そのことは意識の外に置かれていることだ。
原型をできるだけ思い出させないように、きれいに切り落とされ、白いトレーに載せられてパック詰めで店頭に並んでいる。知識としては、それがかつては牛の姿をしていたり、豚の姿をしていたり、と知っていても、直接には結びつかない。
結びつかないからこそ、平気でうまい、うまいと食べることができるのだろうし、結びつけないように販売されてもいる。
そのフレーズを使う人は、わたしたちが自分の行為に罪悪感ないしは嫌悪感を抱くように、わざとわたしたちが半ば無意識のうちに見ないようにしている事柄を暴き立てる。ここでの「死んだ動物の肉」というのは、レトリックにほかならない。
「ザ・コーヴ」にしてもおなじことで、動物を肉にする過程には当然、「暴力行為」が含まれるはずだが、イルカ漁に限って、その場面を残酷に撮ることによって、イルカを食べるという行為に対する嫌悪感をかき立てようとしている、これも一種の「レトリック」なのである。
おもしろいのは、戒律によって食の禁忌が定められているユダヤ教やイスラム教の信者が、豚肉など食べるべきではないと、信者でない人に向かって主張したりはしないことである。もしかしたらコーランなどには禁忌を訴える際にレトリックが使われたりしているのかもしれないが、外に向けて、たとえば「豚の肉を口にするようなやつが言うことなど、信用できない」などという主張するのを、少なくともわたしは目にしたことがない。
かつて、ある交流会での持ち寄りパーティが行われたとき、少数ではあったが、イスラム圏からの参加者があった。その人たちは、料理のひとつひとつに対して、持ってきた人は誰ですか、とたずね、「これには一体何が使われていますか、油は何の油ですか、ラードは含まれていませんか」と確認していた。すぐ横にある皿に盛られたスペアリブは、一目瞭然だったのだろう、「何の肉ですか」と聞いたりはしなかった。だが、自分たちが禁忌とされるものがそこにあることに、不快の念を覚えたりしないのだろうか。
わたしはイスラム圏の人をそれまで直接には知らなかったので、これは良いチャンス、とばかりに話を聞きに行った。
食べられるものと食べられないものの区別、どこまで厳密にしているか、日常はハラールフード(食べて良いとされるもの)を扱っている店まで買い物に行っていることなどの話のあとで、わたしは、あんなふうに豚肉が並んでいるのを見て、不快に感じたり、逆に、どんな味がするんだろう、と好奇心をかき立てられたりしませんか、と聞いてみた。
すると、自分はその戒律があたりまえの環境に育ち、その外へ出たのは大人になってからだったから、自分とは異なるものを食べる人が多くいることは理解していた、だから特にそれをイヤだと感じたり、逆に、自分も食べてみたいと思ったりすることはない、ただ、日本で生活している子供たちは、やはりみんなと同じものを食べたがる……という話だった。
そのたった一度の経験、ひとりしか話していない経験を敷衍するのは、もちろん危険なのだが、それでも、思想信条から行動する、といっても、その思想信条を自分の意志で選択した人と、選択する以前にその環境に生まれ落ちた人のあいだには、少し温度差がある、とは言えないだろうか。
肉を食べている人に向かって「死んだ動物の肉なんか食べられるな」とは決して言わないわたしたちも、たとえば、幼虫を食べたりしている人の映像を観たときは、平気で「気持ち悪い、よくあんなものが食べられるな」と思う。実際、そんな視聴者の反応を前提としたようなテレビ番組も、ときどき放映されているように思う。それでも、その人たちのところへ出かけてまで、虫を食べることは正しくない、とは主張しないだろう。仮にそこへ行き、差し出されでもしたら、好意を無にすまい、と、必死の思いで口にするのではあるまいか。
どうやら、自分が選択した思想信条にもとづく行為を取る人は、その思想信条を共有しない人に対して不寛容だ、と言えそうだ。生まれついての好き嫌いや、習慣によって、言葉を変えれば無意識に何かをするのではないような場合には、自分の行為は正しく、そうでない人の行為は誤っている、という価値判断が、いちいち生じているらしい。だから、その思想信条を共にしない側に取ってみれば、彼らの不寛容さはときに不快に思え、またときによっては、どこか滑稽にも見える。
逆に、そんな不寛容の批判を受けて立つ側が、クジラの肉を食べることに対して、「日本の食文化」と呼んだりして、習慣的だった行為を、一種の思想信条に祭り上げるような場合もある。わたしは学校の給食で「クジラノルウェー風」なるものを食べてきた世代だが、そのころ、あれが「日本の食文化」と言われても、ちょっと困ってしまっただろう(第一、「ノルウェー風」だし)。
こう考えてみると、何かをきっかけに、「自分の思想」というものを選択的に持つようになると、人間の行為は、他者に対して不寛容になり、不快にも滑稽にもなるものなのだろうか。
このことは、もうちょっと考えてみたい。
(この項つづく)
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