陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

読めない……

2009-07-26 22:48:41 | weblog
それにしても読めないのが、いまどきの子供の名前だ。

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以前にも「名前の話」というログを書いたが、2008年のトップ(二年連続)となった「大翔」が読める人は手を挙げて!

ほかの読み方もあるが、41人のうち、23人が「ヒロト」と読むのだそうだ。「ヒロト」以下「ハルト」「ヤマト」…あとはもう好きにして頂戴、といいたくなる。要は「何でもあり」なのである。

女の子でも「陽菜」と書いて、「ヒナ」というのが大人気なのだが、「青梗菜」「搨菜」と並んで出てきそうな気がする。

おそらく、こういう名前をつける人というのは、「健一」とか「明子」などという「ありきたり」の名前ではなく、「個性的」な名前を、と考えて、そんな名前を選んだのだろう。

ただ、こんな名前がついていれば個性的なんだろうか、そもそも、個性的とは「人とはちがう」ということなんだろうか、と疑問に思うのである。

同じ人間がこの世にふたりといない、ということを思えば、人はみな、かならず個性的なはずだ。ところがある種の人は「個性的」と評価され、ある種の人は「平凡」とみなされる。あるいは子供に対しては、「個性を伸ばす」ことが大切とされる。

だが、目立つことを「個性的」であるとする根拠はいったい何なのだろう。
人がひとりひとりちがうのなら、それだけで「個性的」であるはずなのだし、人目を引かないこと、目立たないことも十分その人の個性のはずだ。

山本周五郎にはめずらしく、現代物の連作短篇に『寝ぼけ署長』というものがある。
警察署で居眠りばかりしている署長、五道三省なのだが、彼の周囲では不思議なことに事件がひとつも起こらない。ほんとに運がいい、あんな男でも署長が勤まるんだからな、と陰口をたたかれるのだが、実は彼は目立たない、細かいところに気を配っていた。そのために、事件が起こらなかったのである。

もし五道三省の「個性」をあえてあげるとすれば、あだ名ともなった「寝ぼけ署長」ということなのかもしれない。表だって立派なことを言うわけでもない、華々しい活躍をするわけでもない、それでも彼は「何ごとも起こさない」という、目立たないけれど、大変な仕事をしていたわけだ。どんな組織でも、そういう形で支えている人がかならずいる。そういう人がいなければ、組織というのは回っていかない。

「何ごとも起こさない」ということは、実際には目立たない。なかなか理解も意識もされないし、ときには本人ですら、気がついていないかもしれない。けれども、わたしたちはもっとそんな「目立たないこと」「何ごとも起こさないこと」に、もっと気が付くべきだし、評価すべきだろう。

少年犯罪が起こると、判で付いたように「ふだんは目立たない、おとなしい子だった」というコメントがあがってくる。「目立つこと」「華々しいこと」ばかりを評価する風潮のなかで、もしかしたら、自分に貼られた「目立たない」「地味」というレッテルに苛立ち、自分はここにいるのだ、という叫び声として犯行に走らせたという側面は、なかったのだろうか。

一度聞いたら忘れられないような名前、個性的な名前をつけてやろうとするあまり、読めない名前ばかりになって、何がどう個性的かもわからなくなってしまった。
子供が生まれるということは、それだけで小さな奇跡だ。どんな子だって、それぞれに個性的なのだ。別につけたきゃどんな名前をつけても、わたしがとやかく言う筋合いではないのだが、「大翔」はどう見ても「ダイショウ」としか読めないし、それを「ヒロト」と言われても、何だかな、と思うのである。

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