陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トルーマン・カポーティ「クリスマスの思い出」最終回

2009-12-10 22:56:15 | 翻訳
最終回


 これがぼくたちが一緒に過ごした最後のクリスマスだ。

 世間がぼくたちを引き裂く。心得顔の連中が、ぼくを陸軍学校に入れることにしたのだ。そこから続くのは、軍隊ラッパの鳴り響く監獄と、情け容赦のない起床ラッパにたたき起こされるサマーキャンプが続く、悲惨な日々が始まる。新しい家もできた。だが、そんなものは家などではないのだ。家とはぼくの友だちがいるところ。そしてぼくがもはや行くことのないところ。

 そこに彼女は残り、台所をあてもなくうろうろとしている。ひとりきりで、クィーニーと一緒に。やがて、ほんとうにひとりぼっちになってしまう(「親愛なる相棒へ」と彼女がへたくそな読みにくい字で手紙を書いてくる。「きのう、ジム・メイシーの馬がクィーニーを強く蹴りました。ありがたいことに、クィーニーは長いこと苦しまずにすみました。わたしは上等のリネンシーツにあの子をくるんでから、荷車に乗せて、シンプソンの牧草地まで運んで、あの子が埋めた骨と一緒にいられるように……」)。それから十一月が来るたびに、彼女はひとりでフルーツケーキを焼くことが、何年か続く。多くはないが、何本かは。もちろん、彼女がぼくに送ってくれるのは「いちばんうまく焼けたやつ」だ。そうして、手紙のなかにはかならずトイレット・ペーパーにしっかりくるんだ十セント玉が入っている。「映画を観て、その話を教えてください」と。だが、しだいに彼女の手紙は脈絡を欠いてきて、ぼくともうひとりの友だちとを混同するようになる。もう一人の相棒、1880年代に亡くなった人だ。だんだん、十三日以外にも彼女がベッドから起きて来ない日が増える。そして、十一月のある朝が来る。木々の葉もすっかり落ち、鳥の姿もない、冬の気配のたちこめる朝だ。だが、彼女が身を起こし、「おやまあ、フルーツケーキ日和だねぇ」と叫ぶことはもうない。

 そうしてそのことが起こったとき、ぼくはそれがわかる。知らせが来ても、それをただ裏づけるだけだ。表には現れない絆を通じて、すでに知っていたのだから。そのことは、ぼくのかけがえのない部分を切り離してしまう。まるで糸の切れた凧のように虚空へ飛んでいってしまう。今日、この十二月の朝、ぼくが校庭を歩きながら、ずっと空を見ているのはそのためだ。ハートの形をした、ペアの迷子の凧が、天国に向かって急ぐのが見えないかと思って。



The End




(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)



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