先日"what's new ver.14"で、ブタのゲームのことを書いた。
ちょっとそこだけ。
これにはバリエーションがいくつもあって、わたしが知っているだけでも「ブタが何匹?」のほかにも「良いチューリップと悪いチューリップ」「メンソレータム」などがある。このゲームがあるのは日本ばかりではないらしく、バーバラ・ヴァインの『煙突掃除の少年』にハサミを渡すゲームが出てくる。
このヴァインのハサミを渡すゲームについては、以前、「鈴木晶のウェブサイト」でもふれられていたことがあって、わたしはずっと、それはちがうんじゃないか、と思っていたのだ。今日はその話。
該当のものは、2007年12月23日付けのエントリである。
直接リンクが貼れないので、その部分を引用させていただく。
このあとに、「メンソレータム」という遊びも「これとまったく同じ意図にもとづくゲームだった」とある。この意図というのは、「ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうための遊びである」ということを指しているのだろう。
おそらく鈴木さんはこのゲームをリアルタイムで、つまり、子供時代に遊びとしてなさったことはないのだろう。実際にやってみれば、こんな感想は出てこないのではないだろうか。
わたしがブタのゲームを知ったのは、中学生のときだった。確か教育実習生との交流会で、大学から来た実習生が教えてくれたのだ。そのときはブタだったのだが、のちに「良いチューリップ、悪いチューリップ」や「メンソレータム」も知った。それからのちに、わたしは塾で小学生や中学生を相手に、この遊びをやってみせたこともある。いずれのときも、最初こちらが何度かやってみせると、早めにわかった子がわからない子に対して「ぶうぶう、これはなんびき?」とヒントを出し始めるので、じきにいくつもの小グループができて、あっちこっちでぶうぶうとやかましくなる。つまり、これだけのことでも盛り上がるし、
「なあんだ、そういうことだったのか」
「え?わかんない。何で?」
「わかんない? じゃ、今度はわたしがやってみるね。ブタがいます、ぶうぶう……」
と、わかった子がわからない子に向かってやってみたくなる楽しい遊びなのだ。
いつでも単に「ルールを見つける遊び」だった。まちがっても「ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうため」のような意地の悪い、さらには「小さな共同体が侵入者をからかい、屈辱感を与え、排除するためのゲーム」ではなかった。
規則性の発見というのは、パズルにもよくあるし、数学の問題にも出てくる。昔からわたしはそのたぐいのことが大好きで、得意な方でもあったので、よけいにそんな感想を持つのかもしれないのだけれど、それがどうして「屈辱感を与え」るとまで言われなければならないのか、よくわからないのだ。
鈴木さんはこのように書いておられる。
確かにその通りだ。「ぶう」の数とブタの数のあいだに因果関係が成立していると思っている限り、決して「ぶうぶうぶうぶうが何びき?」という質問には答えられない。けれど、たいていの人は、何度か質問を聞いているうちに「何びき?」と聞かれるときと、「何ひき?」と聞かれるとき――親切な質問者なら「何ぴき?」と聞いてくれるかもしれない――があることに気がつくはずだ。ひょっとしたら、先に気がついた友だちが、隣でそっとヒントを耳打ちしてくれるかもしれない。
そうして、いったんこの「範囲の外の範囲」があると気がつくと、つぎの「良いチューリップ・悪いチューリップ」の「いい?」という確認や、メンソレータムで親指が立っているかいないか、など、わりと楽に気がつくことができるはずだ。ちょうど、ひと組のふたごの見分けがつくようになったら、ほかのふたごも比較的簡単に見分けられるように。
逆に、この遊びの一番おもしろいところは、答えがわかった瞬間に、自分が勝手に「ゲームの範囲」を決めていたことに気がつくところでもある。わからなければわからないほど、その人は自分の見方に縛られているともいえる。ああ、自分はいままでなんてかたくなな見方をしていたのだろう、と規則を見つけた瞬間に、はっと気がつくのだ。
先日、体調を崩して、頭が痛くて本も読めなかったので、『ザ・ホワイト・ハウス』のDVDを毎日見ていた。1999年のドラマだし、日本でも放映されたらしいから、いまどき『ザ・ホワイト・ハウス』でもないのだろうけれど、世間から遅れているわたしのところには、やっといまごろ届いた、と思ってください。ともかく、第一シーズンを見終えて、いったい誰が撃たれたのだろうと、いまドキドキしているところだ(笑)。
そのなかにこんなエピソードがあった。
大統領であるマーティン・シーンがこんなたとえ話をするのだ。
台風が来て、洪水が迫っている。ラジオで避難警報が流れた。だがある人は、ふだんから教会にも通い、お祈りも欠かしたことがない自分は、神がかならず守ってくれる、と避難しようとしない。つぎに近所の人が、一緒に避難しましょう、と誘ってくれた。だが、神が守ってくれると信じている人はそれも断った。さらに、災害パトロールがやってきて、避難を勧告した。それでもその人は断った。洪水に巻き込まれて天国に行ったその人は、神に「どうして自分を助けてくれなかったのか」と文句を言った。すると、神は「三度も助けを与えたのに、おまえこそどうしてその助けを拒んだのだ」と言った。
「助け」というのは、自分が期待しているかたちで与えられるとは限らない、というのがこの話のポイントなのだが、「自分が思っていること」を自分で決めてしまうことの問題点、と考えていくと、このゲームも同じものであるといえる。
ゲームが「共同体から侵入者を排除するため」のものだとすると、大統領のたとえ話に出てくる神様も、ずいぶん意地の悪い神様ということになってしまう。
ゲームが人を排除するのではない。「排除しよう」という意図がある人には、ゲームだって何だって、その道具になるということだけだ。
確かにわからない人は腹が立つかもしれない。自分一人、最後までわからなかった人がひどく怒っていたのを見たこともある。けれど、わからなかったのは、規則性を問う問題が解けなかったことと一緒。自分が自分の決めた「範囲」にとらわれていた、ということだ。
ちょっとそこだけ。
以前、こんな遊びをしたことがあります。
「ぶう、これは豚が一ぴきです。ぶうぶう、これは豚が二ひきです。ぶうぶうぶう、これは豚が三びきです。ぶうぶうぶうぶう、じゃ、これは豚は何びき?」
この答えはわかりますか? 三びきです。
では、「ぶうぶうぶうぶうぶうだと、豚は何ひき?」
文字に書くとわかりやすいかもしれませんね。答えは二ひき。
「ぶうぶう」は答えとは関係はありません。質問者が「何ぴき」とたずねれば、それは「一ぴき」、「何ひき」と聞けば、「二ひき」、「何びき」と聞くなら「三びき」と応える、そんなルールがあるのです。
これにはバリエーションがいくつもあって、わたしが知っているだけでも「ブタが何匹?」のほかにも「良いチューリップと悪いチューリップ」「メンソレータム」などがある。このゲームがあるのは日本ばかりではないらしく、バーバラ・ヴァインの『煙突掃除の少年』にハサミを渡すゲームが出てくる。
このヴァインのハサミを渡すゲームについては、以前、「鈴木晶のウェブサイト」でもふれられていたことがあって、わたしはずっと、それはちがうんじゃないか、と思っていたのだ。今日はその話。
該当のものは、2007年12月23日付けのエントリである。
直接リンクが貼れないので、その部分を引用させていただく。
さて、この小説(※ヴァインの『煙突掃除の少年』)の中に出てきたゲームは「I Pass the Scissors」というゲームで、たぶん著者の考案したものではなく、実際にあるゲームであろう。ハサミを使う。数人が輪になってすわり、ハサミを次々に隣の人にわたす、というだけのゲームである。ハサミを受け取った人は、ハサミを開いて、あるいは閉じて、次の人に渡す。そのときに「私はハサミを開いて渡す(これを「クロス」と呼ぶ。ハサミを開くと、十字架の形になるからだ)」あるいは「閉じて渡す」と宣言する。問題は、その「開いて」と「閉じて」は、ハサミが開いているか閉じているかとは関係がないということだ。初心者はルールを知らないから、ハサミを開いて隣りに渡し、「私はハサミを開いて渡す」と宣言し、まわりから「まちがい!」と指摘されるのである。つまり、初心者は、何が「開いて」であり何が「閉じて」であるかについてのルールを発見しなければならないのである。
ネタバレになるが、ハサミが開いているか閉じているかは重要ではなく、ハサミを渡すときに脚を開いているか閉じているかによるのだ。小説の最後のほうで、このルールをすぐに見抜いてしまう青年が出てくるが、それまでは、新たにこのゲームに加わった人は残らず、最後までルールがわからない。
本来、ゲームというのは参加者全員がルールを知っていることを前提にしているのであるから、この「ハサミを渡す」というゲームは、本来のゲームではない。ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうための遊びである。好意的にいえば、ルールを知らない者がいかにそのルールを発見できるかを見守る遊びである。
だからこのゲームは、その場にいるほとんど全員がルールを知っていて、それよりも少数の人がルールを知らない場合にのみ、おこなわれる。全員がルールを知っていたら、意味がないし、反対に、ひとりだけルールを知っている場合は、ゲームができないわけではないが、そのルールを知っているひとりがみんなからの敵意の的になる。
すでにおわかりのように、これはある小さな共同体が侵入者をからかい、屈辱感を与え、排除するためのゲームである。(Sho's Bar 2007/12/23)
このあとに、「メンソレータム」という遊びも「これとまったく同じ意図にもとづくゲームだった」とある。この意図というのは、「ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうための遊びである」ということを指しているのだろう。
おそらく鈴木さんはこのゲームをリアルタイムで、つまり、子供時代に遊びとしてなさったことはないのだろう。実際にやってみれば、こんな感想は出てこないのではないだろうか。
わたしがブタのゲームを知ったのは、中学生のときだった。確か教育実習生との交流会で、大学から来た実習生が教えてくれたのだ。そのときはブタだったのだが、のちに「良いチューリップ、悪いチューリップ」や「メンソレータム」も知った。それからのちに、わたしは塾で小学生や中学生を相手に、この遊びをやってみせたこともある。いずれのときも、最初こちらが何度かやってみせると、早めにわかった子がわからない子に対して「ぶうぶう、これはなんびき?」とヒントを出し始めるので、じきにいくつもの小グループができて、あっちこっちでぶうぶうとやかましくなる。つまり、これだけのことでも盛り上がるし、
「なあんだ、そういうことだったのか」
「え?わかんない。何で?」
「わかんない? じゃ、今度はわたしがやってみるね。ブタがいます、ぶうぶう……」
と、わかった子がわからない子に向かってやってみたくなる楽しい遊びなのだ。
いつでも単に「ルールを見つける遊び」だった。まちがっても「ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうため」のような意地の悪い、さらには「小さな共同体が侵入者をからかい、屈辱感を与え、排除するためのゲーム」ではなかった。
規則性の発見というのは、パズルにもよくあるし、数学の問題にも出てくる。昔からわたしはそのたぐいのことが大好きで、得意な方でもあったので、よけいにそんな感想を持つのかもしれないのだけれど、それがどうして「屈辱感を与え」るとまで言われなければならないのか、よくわからないのだ。
鈴木さんはこのように書いておられる。
つまり、どちらのゲームも、「ゲームの範囲」がどこまでかをめぐるトリックなのである。初心者は必死に規則を見つけ出そうとする。だが「正解」は、その規則が適用される範囲、つまりゲームの範囲の外にある。ルールを知っている者は、ゲームの範囲に関して、初心者にまず誤解を与える。前者であればハサミ、後者であれば指でなぞるという行為が「ゲームの範囲」であると思い込ませる。だから、そのゲームの範囲の外に、本来のゲームの範囲があることを発見すれば、初心者の勝ちなのである。
確かにその通りだ。「ぶう」の数とブタの数のあいだに因果関係が成立していると思っている限り、決して「ぶうぶうぶうぶうが何びき?」という質問には答えられない。けれど、たいていの人は、何度か質問を聞いているうちに「何びき?」と聞かれるときと、「何ひき?」と聞かれるとき――親切な質問者なら「何ぴき?」と聞いてくれるかもしれない――があることに気がつくはずだ。ひょっとしたら、先に気がついた友だちが、隣でそっとヒントを耳打ちしてくれるかもしれない。
そうして、いったんこの「範囲の外の範囲」があると気がつくと、つぎの「良いチューリップ・悪いチューリップ」の「いい?」という確認や、メンソレータムで親指が立っているかいないか、など、わりと楽に気がつくことができるはずだ。ちょうど、ひと組のふたごの見分けがつくようになったら、ほかのふたごも比較的簡単に見分けられるように。
逆に、この遊びの一番おもしろいところは、答えがわかった瞬間に、自分が勝手に「ゲームの範囲」を決めていたことに気がつくところでもある。わからなければわからないほど、その人は自分の見方に縛られているともいえる。ああ、自分はいままでなんてかたくなな見方をしていたのだろう、と規則を見つけた瞬間に、はっと気がつくのだ。
先日、体調を崩して、頭が痛くて本も読めなかったので、『ザ・ホワイト・ハウス』のDVDを毎日見ていた。1999年のドラマだし、日本でも放映されたらしいから、いまどき『ザ・ホワイト・ハウス』でもないのだろうけれど、世間から遅れているわたしのところには、やっといまごろ届いた、と思ってください。ともかく、第一シーズンを見終えて、いったい誰が撃たれたのだろうと、いまドキドキしているところだ(笑)。
そのなかにこんなエピソードがあった。
大統領であるマーティン・シーンがこんなたとえ話をするのだ。
台風が来て、洪水が迫っている。ラジオで避難警報が流れた。だがある人は、ふだんから教会にも通い、お祈りも欠かしたことがない自分は、神がかならず守ってくれる、と避難しようとしない。つぎに近所の人が、一緒に避難しましょう、と誘ってくれた。だが、神が守ってくれると信じている人はそれも断った。さらに、災害パトロールがやってきて、避難を勧告した。それでもその人は断った。洪水に巻き込まれて天国に行ったその人は、神に「どうして自分を助けてくれなかったのか」と文句を言った。すると、神は「三度も助けを与えたのに、おまえこそどうしてその助けを拒んだのだ」と言った。
「助け」というのは、自分が期待しているかたちで与えられるとは限らない、というのがこの話のポイントなのだが、「自分が思っていること」を自分で決めてしまうことの問題点、と考えていくと、このゲームも同じものであるといえる。
ゲームが「共同体から侵入者を排除するため」のものだとすると、大統領のたとえ話に出てくる神様も、ずいぶん意地の悪い神様ということになってしまう。
ゲームが人を排除するのではない。「排除しよう」という意図がある人には、ゲームだって何だって、その道具になるということだけだ。
確かにわからない人は腹が立つかもしれない。自分一人、最後までわからなかった人がひどく怒っていたのを見たこともある。けれど、わからなかったのは、規則性を問う問題が解けなかったことと一緒。自分が自分の決めた「範囲」にとらわれていた、ということだ。
>すでに古典として評価の高いものもあれば、短篇のアンソロジーにかならず入っているようなもの、英米での評価に比して日本ではほとんど知られていないもの、語学テキストの定番、あるいは気楽に読めるミステリなど、雑多な作品を寄せ集めています。ご意見、あるいは、こういうのが読んでみたいというご希望などありましたら、検討してみますので、ぜひお知らせください。
とあったのでちょっとお願いしたいのですが……
チャールズ・ボーモントという作家の短篇、是非訳して頂きたいです。
ご存知とは思いますが、ボーモントはブラッドベリに師事していた作家です。
チャールズ・ボーモントは面白いのですが、訳されている個人短篇集は二冊、彼の短篇が収録されているアンソロジーなどもほとんどが絶版です。
(個人短篇集二冊(『残酷な童話』と『夜の旅その他の旅』)は、まだ絶版ではありません)
どれも非常に面白いですし(それにアメリカでボーモントは現在も人気です)未訳が多く、訳出される価値もあると思うのですが。
できればお願いいたします。
自分勝手なお願い、本当に申し訳ありません。
これからも愛読させて頂きます。
追伸:
これからはこっちのブログにもちょくちょく来ます。
まず、わたしが翻訳を選ぶ規準みたいなものを簡単に説明しますね。
わたしがおもしろいな、訳してみたいな、と思うものをまずオンラインで探します。著作権が切れているものは簡単に見つかりますし、そうでないものも、さまざまな検索子を工夫してねばり強く探していけば、見つかることも少なくありません。
個人で、私設版「青空文庫」みたいなものを作っている人もいますし、そんな団体もあるようです。ブラッドベリなど、著作権に抵触しているような人の作品でも、結構あります。
わたしはおもにそういうものを訳しています。
もちろん、リリアン・ヘルマンみたいに、オンラインで読むことができないものはペーパー・バックから訳していますが、そういうものはごく少数です。
ひとつには、わたしの翻訳を入り口に、ある程度英語が読める人には、原文で読んでもらいたい、という気持があるんです。
あとは、わたしが持っている本にも限りがあるってことかな(笑)。
Charles Beaumontも、トワイライトゾーンの作家として、アメリカでもずいぶん人気がある人のようですから、個人的にeテキストにしている人もいると思うんです。そのうち、探せば見つかるかと思っています。
ですから、ご要望にいますぐ応えられませんが、頭に留めておきますので、どうかまた遊びに来てくださいね。