陰陽師的日常

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サキ「博愛主義者と幸福な猫」~前編

2007-05-09 22:44:09 | 翻訳
今日はサキの短編第二弾です。

「博愛主義者と幸福な猫」~前編

 ジョカンサ・ベスベリーはゆったりと満ち足りて幸福感に浸っていた。彼女を取り巻く世界は心地よい場所で、しかもいまはそのもっとも素晴らしい様相をあらわしている。グレゴリーは時間をやりくりして家に帰ってきて昼ご飯を慌ただしくすませたところで、これから居心地のいい場所に腰を落ちつけて一服するつもりだ。昼食はうまくできたし、コーヒーとタバコを楽しむ時間もある。コーヒーもタバコも、それなりにステキだし、グレゴリーだって、彼なりにすばらしい夫。ジョカンサは自分のことも相当に魅力的な奥さんだと思っていたし、洋服の仕立てに関しては、第一級の腕前ではなかろうかと思っていた。

「チェルシー全部を探したって、わたし以上に幸せな人間はいないはずよ」ジョカンサは自分のことをそう言った。「たぶんアタブは別だろうけれど」ソファの隅にのんびりとねそべっている大きなぶち猫に目をやりながら続ける。「あそこに寝そべって、喉を鳴らしながら夢心地ね。いまは脚の位置を変えてから、クッションが気持ちよくてご満悦なんだわ。柔らかいもの、絹だとかヴェルヴェットだとかみたいで、とがったところなんてひとつもないものを生き物にしたら、あの子みたいになるんだわ。夢みる子の哲学は、眠ることと眠るにまかせることね。それで、夕方になったら、あの子、目をきらりと赤く光らせながら庭に出て、眠そうなスズメの息の根を止めちゃうの」

「スズメときたら、ひとつがいで一年のうちに十羽以上も雛を孵すんだ、なのにエサになるものは増えるわけじゃないだろ、だからアタブの一党が午後のお楽しみにそういうことを思いつくのは結構なことじゃないか」グレゴリーは言う。知的な意見を開陳したところで、もう一本タバコに火をつけると、おどけた仕草で、行ってくるよ、とキスをすると、外に出ていった。

「忘れないで、今夜の晩ご飯は少し早くしなきゃいけないのよ、ヘイマーケット劇場に行くんだから」ジョカンサはその背に向かって声をかけた。

 ひとり残ったジョカンサは、ふたたび自己満足的でもあり内省的でもある目で、自分の生活を見つめるのだった。かりにこの世で望むものすべてを手に入れることができていないとしても、すくなくとも自分が手に入れたものには十分満足していた。たとえばこの居心地の良い場所だ、快適でしかも上品かつ豪勢という条件をすべて満たすようにしつらえてある。磁器の置物は珍しいもので美しいし、中国製の七宝焼きは、火明かりのなかですばらしく映える、絨毯も壁飾りも、豪華な色の調和には目を奪われるものだった。その部屋は、大使や大主教をもてなすにふさわしいような部屋、それでいて、スクラップブックに張るために切り抜いた写真を散らかしていても、この部屋の神々に恥じることのないような部屋でもあったのだ。この部屋と同じように、家全体がそうだったし、家がそうであるように、ジョカンザの生活のほかの部分もそうだった。チェルシーで一番の幸せ者と考えるのも十分な理由があったのである。

 自分の運命に対するわきたつような満足感は、やがて周囲の何千という人々、退屈し、貧乏で、何の楽しみもない人々に向けた同情へと移っていった。女工だとか店の売り子といった、貧しいがゆえに気楽で自由な層でもなく、かといって有閑階級でもない人々に対して、ジョカンザの同情心はおもに向けられていった。若い人たちが、一日の長い仕事を終えて、たった一人で冷え冷えとしてわびしい寝室に腰をおろしていることを思うと、悲しくてたまらなくなるわ。その人たちは一杯のコーヒー、ひと皿のサンドイッチさえレストランで食べる余裕もないんだもの、まして一シリング払って天井桟敷の切符なんて買えやしないのだわ。

 ジョカンサはこうしたことで頭をいっぱいにしたまま、昼下がりのあてもない買い物に出かけていった。どんなに心がやすらぐだろう、と思う。もしわたしが何かしてあげられたら、とっさの思いつきで、ちょっとした楽しみやおもしろいことを、ひとりでもふたりでもいい、わびしい思いと空っぽのポケットを抱えた労働者に、ちょっとした思いつきで、楽しいことやおもしろいことをさせてあげられたら。それなら、今夜、お芝居を見に行くのも、いっそう楽しめるのに。

(後編は明日)


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