陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

セミの話

2006-08-02 22:25:28 | weblog
洗濯物を取り込んでいたら、ベランダにセミが仰向けになって転がっていた。死骸かと思ってつまみ上げると手足を急にもぞもぞと動かし、しゃがれた声でジィジィとやかましく鳴いた。まだ生きているぞ、とでも言いたかったらしい。手すりにはってある落下防止用のネットにつかまらせたら、そのまま飛んでいってしまった。そろそろ寿命なのだろうが、少しでも気に入った死に場所を探しているのだろうか。

昔、セミの脱皮を見たことがある。
昼間、窓を開けていたら入ってきたのだろう、蛍光灯の柄にセミの抜け殻がくっついている、と思ったら、小さなふたつの黒い目がついていた。抜け殻ではなく、幼虫だったのだ。

抜け殻なら、もっと小さなころ、近所にあった小さな神社の境内によく拾いに行ったものだった。虫が湧く、アリがあがってくる、と怒られながらも、空き缶の箱の中にいくつもしまって置いたのだった。
だから蛍光灯にくっついているのも、抜け殻だろうと思っていたのだ。まさかセミの幼虫と「目が合う」とは夢にも思わなかった。

いつ羽化するのだろうか。
そう思ってみると、殻がときどき動いているようにも思える。驚かせないほうがいいだろう。暮れていく部屋のあかりもつけず、わたしは薄暗い中でときどきふるえる幼虫を見ていた。

少し部屋を出ていたのだろうか、それとも、椅子に座ったまま、うたたねをしてしまったのだろうか、いまとなってはよく覚えていないのだけれど、つぎに気がついたら、暗い部屋の中でそこだけ白いセミの一部が見えていた。背中の切れ目が徐々に広がり、白い部分が広がっていく。濡れてつやつやした白い体表は、暗い中で光る蛍光色のようにも見えたのだった。

全身が現れた。特に、羽根の部分が薄葉紙のように白い。さかさまの身をゆっくりと立て直して頭を上にすると、また動かなくなった。

やがて体の色がすこしずつ濃くなって、部屋の闇の中に溶ける。
わたしはそのまま、蒲団を敷いて寝てしまったのではなかったか。とにかく、翌朝見てみれば、見慣れた抜け殻だけが、柄につかまっていたのだった。

今年は暑くなるのが遅かったので、例年より少し遅い感じがするが、そろそろセミだのカナブンだのの死骸が、ベランダや非常階段に転がる時期になってきた。死んでいるかと思うと、急に手足を動かす。放っておくと踏まれるかもしれない、と思って、いつも拾い上げてやるのだが、そこからもうどれほども生きることはないのだろう。

それでも、床にころがっているセミも、かつてわたしが見たようなプロセスをそれぞれに経て、羽化し、求愛の歌を歌い、子孫を残したのにちがいない。
それでも、羽化したばかりの、濡れて輝き、気高ささえ感じたあの姿と、床に仰向けに転がっている、干からびた姿のちがいはどうだろう。やはり、生を燃焼し尽くしたために、そんなに干からびてしまったとしか思えない。

地中で長い時期を過ごし、地上に出て一週間ほどの寿命しか持たないセミを、人間はときに「儚い」という形容で語るけれど、セミは、セミの時間を生きたのだ。
普遍的で客観的な、モノサシの目盛りのような「時間」があるわけではない。

セミは、セミの時間を生きたのだ。

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2 コメント

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私もつられて「セミの話」 (helleborus)
2006-09-04 20:03:24
 新作はサイト掲載版を楽しみにして、

 もう一月も過ぎ去りし夏の日へコメント。

 私もつられて「セミの話」を。



 ――



 7年も地中に居たら、里山に進出する新興住宅地のコンクリートに地表を覆われて、ついに出られず「窮死に一生を終える」蝉も多かろうに。でも、意外とあれで都会好きなのか、住宅街から蝉が消え去ることもなく、私の住居にも時折蝉は飛び込んできます。



 ある初夏の夜、階段途中に一匹がころりんと。仰向けの蝉を揺すりおこせば、足が動きました。『あ、生きてた』

 枝と思って掴まれよ、出した指に足を絡ませてくるのを待って、さぁ連れてってやろうと立ち上がれば、ぽとんと落ちました。もう足に掴む力なく、虚しく空を掻くのが精一杯の様子。もう一度指を出しても、伝わってくるのは、鎧兜さながらのずんぐりした胴体を支えるには、あまりに頼りない、小さな蜘蛛が掻く程度のもぞもぞした動き。



 蝉を抓んで携帯扇風機にして遊んでいた悪ガキも、いつしかどこかで、虫と話をしたがる淋しさを学んでいたようです。

 路頭に迷っている虫に出会ったら(だいたいカナブン)、連れて帰ってウェルカムフルーツでもてなすのですが、蝉は栄養源を与えられないのが残念。目立たない木を選んで移してあげます。



 ある日の路上、自転車でとばす耳にバタバタと蝉の羽ばたく音。引き返して辺りを探せば、再度ばたついてくれて程なく発見。見れば片方の羽根の先を失っていました。

 飛べないのは死も同じ、受け入れ難くもがく姿はどうにも痛ましい。

 同じように木にとまらせてあげても、すぐに飛ぼうとして地に落ちる蝉。拾い上げてはとまらせてを繰り返すこと数回、幹の感触が他所より気に入ったのかすぐに飛ばない。いまのうちだ!と、蝉の羽音の届かないところまで懸命にペダルをこいで逃げ去るのでした。



 ――



 って書いて読み返してみれば「どうだ、私は優しい人間だろう」と言ってるみたいで。

 書き方が下手でした。I'll be back.

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ムシとわたしのクールな関係 (陰陽師)
2006-09-05 12:48:23
helleborusさんこんにちは。



本川 達雄『ゾウの時間・ネズミの時間』(中公新書)っていう本があるんですが、これはかなり有名だから、いまさらここに書くのもなんだかな、というような本ではあるのですが。

この本によると、寿命がずいぶんちがうネズミもゾウも、ほ乳類の心臓は、だいたい15億回鼓動している。ネズミの心周期が0.1秒であるのに対して、ゾウの心周期は3秒くらい。

こうなると、「生きる時間」というのがもうまるっきりちがう。



わたしたちは人間のモノサシでしか時間を感じることができませんから、ネズミの見る世界、ゾウの生きる世界というのも、まったく想像さえできません。



だから、まぁセミの一生を、一種、はかないもののようにとらえたりする。

だけど、それは所詮、人間の側からするところの擬人化にしかすぎず、セミにしてみりゃ、はかなくもなんともない、大きなお世話、ということでしょう。



なにしろ三つ点があったら、そこに顔を読み込んでしまう人間の認知能力ですから、そうした感情移入は、ある種当然のことなのかもしれませんが。



かつてネコを飼っていたころ、家のネコが、ジイジイと鳴くセミを、なぶっていたのを見たことがあります。まず羽根を取り、手足をもぎながら、左右に転がす。そのあいだ、セミのジイジイいう声が、だんだん小さくなっていくわけです。かわいそうに、と思う気持ちより、ネコっていうのは、そういうものなんだろうな、と思ったわけです。



つまり、動物を飼う、というか、動物とともに生きる、ということは、人間以外の感覚を知るという経験なのかもしれません。

もちろん、ほんとに知ることなんてできないわけですが、自分の感じ方というのは、非常に限定されたものなんだな、ということを、これほどはっきりと味わえる経験もないんじゃないか。

ネコをつい、擬人化したり、感情移入したりしてしまう側面もあるのですが、他方、「ネコの目」で世界のほんのいったんをかいま見ることもできる。



まぁ、結局はこういうことなのかな、と。



以来、わたしはキンギョにしてもムシにしても、感情移入をあまりせず、クール(笑)な関係を保っているわけですが、その根っこのところにはこういう経験があるのかな、とも思います。

わたしが単に冷たいだけなのかもしれませんが(笑)。



helleborusさんの書き込みを拝見して、へぇ、こんな人もいるんだ、ってちょっとびっくりしました。

しばらくセミだのカナブンだの、忙しいときは続きますね(笑)。



書き込み、ありがとうございました。
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