以前から図書館で予約している本が、一向に返ってこないので、どうなっていますか、とカウンターの職員に聞いてみた。すると、相手は困った顔になって、その本を借りている人は一年以上前からずっと借りっぱなしになっていて、延滞通知をどれほど送っても、音沙汰がないのだという。そういう状態であれば、予約を出した時点で、そのことをこちらに知らせてほしいし、返ってくることが期待できなければ、新たに購入するか、他館に貸し出しを依頼するなどの方法を取ってほしい、と言ったところ、申し訳ありません、と頭を下げられてしまった。この人に頭を下げられてもなあ、と思って、いやいや、とにかくよろしくお願いします、と言ったら、「多いんです、延滞される方」と困った顔をした。
延滞には、ハガキや電話による督促だけでなく、何日間かの貸し出し禁止など、いくつかの罰則規定があるのだそうだが、実際にはほとんど功を奏さないらしい。図書館を頻繁に利用する人なら、つぎに借りることができないのは痛手だが、それ以降、利用しなければ、そんな罰則規定など痛くも痒くもないだろう。
とにかく本はよろしくお願いします、と念押ししてそこを離れたのだが、自転車に乗って帰りながらそのことを考えた。
レンタルビデオ屋であれば、延滞料を取る。それがいやさに、夜遅く思い出して、慌てて持っていくこともある。同じように、図書館でも延滞金を取るのはどうだろう。
そこで思い出したのがこんな話だ。
ポピュラー・エコノミックスとでもいったらいいのだろうか、『ヤバい経済学』(スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー著、東洋経済新報社)という本があるのだが、その中にこんな例があった。
ある地域の保育園では、子供を午後4時までに迎えにこなければならない。だが、親たちはよく遅れてくる。そのために、先生は少なくとも一人が残って親たちを待たなければならない。
そこで、経済学者2人が解決に乗り出した。
彼らはまず最初に4週間観察した。すると、保育所1カ所あたり、週に8件の遅刻があった。そこで、彼らは罰金制度を実施した。
迎えに来るのが10分以上遅れた場合に、毎回子供一人につき3ドルの罰金を、380ドルの月謝に上乗せして徴収することになった。
その結果はどうなったか。
遅刻は、週に20件にまで増加した。月に60ドル追加すれば、毎日遅刻してもよいことになる。親たちは罰金3ドルと引き換えに、罪の意識もなく遅刻するようになったのだった。
そこで、経済学者は罰金を取るのをやめた。遅刻する親は減ったか?
結果は、罰金をやめても遅刻する親は減らなかった。遅れてきた人たちは罰金を払わされることもなく、そのうえ罪の意識もなくなったからだった。
罰金制度の問題点というのは、遅刻という「悪」に、値段をつけてしまったことだ。罰金を払うことによって、悪は免罪されてしまう。いったん値段がつけば、罰金制度を仮に廃止したとしても、それは単なる「値引き」である。廃止しても、もはや罪の意識は戻ってこない。
さらに、問題となるのは、お金を払うことによって、保育園と保護者の関係が、保育園と保護者ではなく、売り手と買い手という関係に抽象されてしまうことだ。先生と~くんのお母さんという関係が、売り手と買い手となることで、「買い手」の側に、自分たちの保育園、という意識がなくなり、保護者としての責任は見えなくなり、結果、「お金さえ払えばいいんでしょう」という関係になっていく。
では、罰金をもっとあげたらどうだろう。
そうなると、親たちは払うことをこばむかもしれない。遅刻はするが、払うこともしない、という親が大勢出てくると、保育園の側も対応できないだろう。
こう考えていくと、罰金はあまりいい手とはいえないような気がする。
結局は、図書館なり、保育園なり、施設の利用者が、単に利用者というだけではなく、公共意識、すなわち「ほかの人のものでもあり、同時に自分自身のものでもあるのだ」という意識を持つしかないのかもしれない。自分がもしエゴイスティックな利用の仕方をしたなら、他の人が困るだけでなく、同時に自分も困るのだ、という。
何だかあまりに当たり前な結論なのだが、そんなことをもう一度改めて考えなければならないところにわたしたちはいるのかもしれない。
延滞には、ハガキや電話による督促だけでなく、何日間かの貸し出し禁止など、いくつかの罰則規定があるのだそうだが、実際にはほとんど功を奏さないらしい。図書館を頻繁に利用する人なら、つぎに借りることができないのは痛手だが、それ以降、利用しなければ、そんな罰則規定など痛くも痒くもないだろう。
とにかく本はよろしくお願いします、と念押ししてそこを離れたのだが、自転車に乗って帰りながらそのことを考えた。
レンタルビデオ屋であれば、延滞料を取る。それがいやさに、夜遅く思い出して、慌てて持っていくこともある。同じように、図書館でも延滞金を取るのはどうだろう。
そこで思い出したのがこんな話だ。
ポピュラー・エコノミックスとでもいったらいいのだろうか、『ヤバい経済学』(スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー著、東洋経済新報社)という本があるのだが、その中にこんな例があった。
ある地域の保育園では、子供を午後4時までに迎えにこなければならない。だが、親たちはよく遅れてくる。そのために、先生は少なくとも一人が残って親たちを待たなければならない。
そこで、経済学者2人が解決に乗り出した。
彼らはまず最初に4週間観察した。すると、保育所1カ所あたり、週に8件の遅刻があった。そこで、彼らは罰金制度を実施した。
迎えに来るのが10分以上遅れた場合に、毎回子供一人につき3ドルの罰金を、380ドルの月謝に上乗せして徴収することになった。
その結果はどうなったか。
遅刻は、週に20件にまで増加した。月に60ドル追加すれば、毎日遅刻してもよいことになる。親たちは罰金3ドルと引き換えに、罪の意識もなく遅刻するようになったのだった。
そこで、経済学者は罰金を取るのをやめた。遅刻する親は減ったか?
結果は、罰金をやめても遅刻する親は減らなかった。遅れてきた人たちは罰金を払わされることもなく、そのうえ罪の意識もなくなったからだった。
罰金制度の問題点というのは、遅刻という「悪」に、値段をつけてしまったことだ。罰金を払うことによって、悪は免罪されてしまう。いったん値段がつけば、罰金制度を仮に廃止したとしても、それは単なる「値引き」である。廃止しても、もはや罪の意識は戻ってこない。
さらに、問題となるのは、お金を払うことによって、保育園と保護者の関係が、保育園と保護者ではなく、売り手と買い手という関係に抽象されてしまうことだ。先生と~くんのお母さんという関係が、売り手と買い手となることで、「買い手」の側に、自分たちの保育園、という意識がなくなり、保護者としての責任は見えなくなり、結果、「お金さえ払えばいいんでしょう」という関係になっていく。
では、罰金をもっとあげたらどうだろう。
そうなると、親たちは払うことをこばむかもしれない。遅刻はするが、払うこともしない、という親が大勢出てくると、保育園の側も対応できないだろう。
こう考えていくと、罰金はあまりいい手とはいえないような気がする。
結局は、図書館なり、保育園なり、施設の利用者が、単に利用者というだけではなく、公共意識、すなわち「ほかの人のものでもあり、同時に自分自身のものでもあるのだ」という意識を持つしかないのかもしれない。自分がもしエゴイスティックな利用の仕方をしたなら、他の人が困るだけでなく、同時に自分も困るのだ、という。
何だかあまりに当たり前な結論なのだが、そんなことをもう一度改めて考えなければならないところにわたしたちはいるのかもしれない。
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