陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

どういったものが「話し合い」なんだろう

2009-08-19 23:20:19 | weblog
そもそも「話し合い」というのはどういったものをさすのだろう。

たとえば漱石の『こころ』のなかで、のちに「先生」と呼ばれることになる手記での「わたし」と「K」の対決場面は話し合いではない(青空文庫の『こころ』のページはいまアクセスが集中しているようで、さっきから何度やってみてもハングアップしてしまうので、引用はまた後ほど)。

つぎにあげるのは、太宰治の『お伽草子』の「瘤取り」で、山中で鬼どもを相手にびっくりするような経験をしたおじいさんが家へ帰ってくる場面である。おじいさんはおばあさん相手に、自分が世にも珍しい経験をした話を聞かせたくてたまらない。
 家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
(「お伽草子」)

おじいさんは話をしかけても、お婆さんの方がその話に応えてくれない。そのためにここでは話し合いどころか会話にすらなっていない。

「話し合い」というのは、何よりも、まず会話だ。ふたりから数人の人間が共同でおこなうものだ。だが、
「×号室に新しく人が越してきたんだって」
「あら、そう。どんな人だった?」
と続いていく雑談を「話し合い」とは呼びにくい。

情報の交換や、何ごとかに向けての意思統一、あるいは決定、というように、何らかの目的がある場合に「話し合い」という言葉が使われると言えよう。そうして、話し合う人は、その目的が達成できるように、意識的・無意識的に協力する。つまり、話し合いとは、対話者による協同作業なのである。

協同作業というのなら、話し合いに参加する人びとが守らなければならない原則があるのではないか。その原則について考えたのがポール・グライスである。グライスは会話者が遵守するものと期待される原則を、つぎの四つにまとめている。(『論理と会話』)

1.量の原則:会話者には適当な量の情報を提供することが期待される。
 グライスは「特定の段階で四本のネジが必要になったら、私が期待するのは、あなたが二本でも六本でもなく四本のネジを手渡してくれることである」と言っている。
たしかにわたしたちは、答えるときに相手がどの程度のことを知りたがっているかを推し量る。「ダンゴムシは昆虫かどうか」と聞かれたとき、相手が小学生なら、「節足動物門昆虫網ではなく節足動物門甲殻亜門軟甲綱 」という代わりに「昆虫ではなくて、カニの仲間なんだよ」と言うだろう。

2.質の原則:会話者には真実の情報を提供することが期待される。
「あなたの助けを借りてケーキを作っているときに、材料の砂糖が必要になれば、私はあなたに塩を手渡してもらおうとは期待しない」
事実、オオカミ少年(ケンではなく、「オオカミが来た、オオカミが来た」と嘘をつく子の方)は、やがて誰も話し相手にしなくなる。

3.関係の原則:関係のある情報を提供することが期待される。
「ケーキの材料を交ぜているとき、私が手渡してほしいのはよい本ではないし、オーブンクロスでさえない」
自分の疑問と関係のない答えを返してくる相手には、わたしたちはたいてい腹を立てるものだ。

4.様態の原則:明晰な情報を提供することが期待される。
ここでは内容ではなく、表現のやり方が問題になっている。その内容や場面にふさわしい表現の仕方で、適度な手早さで実行されてほしい。たとえば、「蜂に刺された!」と言う人は、「すぐに水で洗って!」とか、「病院に行く?」とかという即座の反応であって、「この場合、何が最も適切な処置であろうか」と考えこむことでもなければ、「蜂にさされるなんて、不注意だからだ」という批判でもない。

グライスは、以上の四つは「原則」であって、規則ではない、という。というのも、規則ならそこから逸脱した場合、会話として受け入れてもらえないことになってしまう。けれども、原則だから、たとえ逸脱しても、その人が自動的に排除されるということはない。だが、この原則に従わなければ、コミュニケーションをおこなう上で、いろいろと不都合なことが起こってくるらしいのだ。

明日はそのことをもう少し見てみる。