陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

身体でわかる、身体で話す

2009-08-27 23:12:35 | weblog
昨日まで二日に渡って書いてきたのは、わたしたちが相手の話を理解できるのは、わたしと相手が身体を持った存在だからだ、ということである。わたしたちは、「理解」というのは、相手の言葉を耳で聞いて、その意味を把握することであるように考えているけれど、実際はそうではない。表情や身ぶりがあるからこそ、本来なら音声でしかない言葉が意味を結ぶのである。

わたしたちの身体は、向き合う相手の身体と共鳴する。だからこそ、同じ話をしようとしても、相手によってその話は否応なく変わっていくし、相手次第で弾んだり、盛り上がらなかったりもする。これまで考えたことすらなかったことが、自分の口からひょいと出てくるのも、そこに相手の身体があるからなのである。

そう考えていくと、会話というものが、およそ情報交換とは異なるものであることがわかってくる。つまらないインタビューとおもしろいインタビューの差はそこにある。つまらないインタビューしかできないインタビュアーは、あらかじめ決まった質問しかしない。相手の返事を受けとれば、そこからさらに掘り下げていくことなく、つぎ、そのつぎ、と箇条書きのように質問をつなげていくだけだ。これでは対面する意味がない。アンケート用紙を渡して、それに書いてもらえば十分だ。けれども、おもしろいインタビューであれば、相手の答えを受け、そこからまた質問が生まれていく。だからこそ話は深まっていくし、思いがけない話を聞くこともできる。

こう考えていくと、人と人が話をすることが、書いた文章のやりとりと、どう異なっているかがわかってくる。
話し合う人は、相手の身ぶりや表情に応じて、自分の言葉がちょうど化学変化を起こすように変わっていくのに対して、書かれた言葉は変わらない。

相手の身ぶりにも表情にも変化を起こさない話もある。相手と会話をするのではなく、自分の話を相手に聞かせようとする人の話は、すっかりできあがってしまっているために、ほとんど変わらない。聞き手はそれを拝聴するしかない。このような一方通行は、ほとんど会話とは呼べないだろう。

だが、非公式な雑談ならともかく、わたしたちは自分の意見を持つことが大切、と言われ、公式の場では、ぐらつかない、書き言葉のような話をするように求められる。その最たるものが会議なのだろう。「~について」の意見が求められ、自分の意見を述べ、批判に対しては、さらに批判で応える。そこではもはや自分が変化することはない。

わたしたちの身体は、本来、相手に共鳴するようになっている。その身体に従って、会話を続けていけば、意識しないでも合意は形成されるはずだ。対面で話すときに比べれば、大勢で話す方が合意を形成するのはむずかしいだろうし、親しい人間に比べて相手がそれほど親しくなければ、やはりむずかしいだろう。けれども『忘れられた日本人』に出てきた対馬の村での寄り合いは、時間をかけながら、雑談のように思いつくことをすべて話し、相手の話に触発されて、自分も話に加わることで、時間をかけながら参加者全員の合意を形成しようとした。わたしたちの先祖はこういうやり方を取っていた、ということは、知っておいた方がいい。