陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

後悔ばかり

2009-08-10 23:13:47 | weblog
今日はずいぶん蒸し暑かったせいか、なんとなく一日中どうも冴えなかった。いままでの経験で、こんな日はあるもの、ということはわかっているのだが、以前、少しのあいだ仕事でお世話になった方に久しぶりにお会いして、せっかく向こうから声をかけていただいたのに、おひさしぶりです……と言ったきり、ろくに話もしなかったことが、あとになって悔やまれ始めた。

その人の几帳面で丁寧な仕事のやり方が好きだったし、昔のことをずいぶんよくご存じだったことで、いろんな面で大変助けられたのだ。

年齢的にそろそろ引退される頃合いだし、つぎに会う機会がいつ来るかわからない。そういうことを考えながら、電車のなかで、そのときに言うべきだった言葉が頭の中に浮かび、そのたびにいまになってこんなことを考えても手遅れなのだ、何であんなにぼうっとしていたのだろう、と後悔した(いまだにこれを書きながら、シマッタシマッタ、何でもっときちんと話をしなかったのだろう、と後悔しているのだ)。

それにしても、後悔先に立たず、とは言うものの、何と後悔することが多いのだろう。確かにすんでしまったことをぐだぐだと言っているのは、端で聞いていて、あまり聞き良いものではない。いつまでそんなことを言っているのだ、言ったって仕方がないだろう、と言いたくもなる。けれども、他人に対してはそう言えても、自分のこととなると、簡単には割り切れない。逆に、あまり深く考えることなく行動し、それで思わぬ結果が出ても、たいして気にも留めず、後悔などしそうにもない人を見ると、なんともいえず荒っぽいというか、ずさんな人のように思えてしまう。

小さい頃から周囲を見るにつけ、どうも人の感情の「量」というのは同じではないのではないか、という気がしていて、小学生のときに司馬遼太郎を読んでいたら、どこかに「感情の量の多い男だった」といった主旨の表現がしてあって、思わず、「そうだそうだ」と思ったことを覚えている。

いまのわたしはもう少し慎重になっているので(笑)感情を量で測れるものだとすることには多少躊躇もあるのだが、やはりここでは「量」と言ってしまおう。「感情の量」というものが多い人は、少ない人にくらべて、やはり、よく喜び、よく悲しみ、よく怒り、かつまたよく後悔するように思うのである。

はてさて、後悔というと、宮本武蔵は「我事に於いて後悔せず」といったという。あの人は、文章にしても絵にしても、大変うまい人で、「感情の量」が少ない人にはとうてい思えない。おそらく「後悔せず」と言明することによって、逆に自分をその方向へ向けて構築しようとしたのではないかと思う。何よりも、彼にはその「感情の量」を振り向ける先があったからこそ、後悔の念を切り捨ててもかまわなかったのだろう。

とはいえ、わたしが「我事に於いて後悔せず」と言ったとしても、その真似ができるはずもないし、そうしたらしたで、その弊害は随所に出てくるような気がする。ちゃんと話をすべき人に対して話をせずにやり過ごしてしまったことを後悔する時間は、確かにわたしにとっては苦しいし、生産的な時間ではなくても、意味があるように思うのだ。

むしろ、ゾシマ長老が言った、悲しむときはどこまでも悲しむが良い、という言葉の方が、宮本武蔵より適切なのかもしれない。自分の内部から後悔の念が湧いて出てくるあいだは、それを浪費させてしまえばいいのかも。そうしておけば、つぎに会ったとき、たとえどれだけぼーっとしていようと、頭をしゃっきりと切り替えることができるような気がするのだ。