陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

漂泊の思い止まず

2009-08-22 09:51:04 | weblog
先日、中学生になったばかりの男の子が、「人生って旅みたいだね」と言った。とっさに引退時に「人生とは旅であり、旅とは人生である」と言って失笑を買った(のではなかったっけ?)サッカー選手のことを思いだしたのだが、相手の真剣そのものの顔を見て、あわててそれを飲み込んだ。

もうすぐティーンエイジャーの世界に入ろうとするその子は、自分の来し方を振り返って、「旅みたい」という比喩と巡り会ったのらしい。彼は「旅」という一語を発見したこと、それによって、小学校を卒業し、新しい世界に入って三ヶ月を過ごした自分の世界が一点に焦点化できたことを、ちょうど「水」という言葉を発見したヘレン・ケラーのように、喜んで、顔を輝かせていたのだ。

「旅」というのは、あまりに手垢がつきすぎて、ある程度の年齢を過ぎれば、使うのがはばかられるような比喩である。だが、それは逆に言うと、誰もがこの言葉から連想されるイメージ、ひとところに定着するのではなく、知らないところに行き、知らない世界を見る、ということに、どうしようもなく心を引かれてきたから、あらためて口にすることに気恥ずかしさを覚えるまでに、多くの人によって使われてきたのだろう。

芭蕉は

 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

と、「旅人」という比喩を時間になぞらえて使っている。歳月の中を生きる人を「旅人」となぞらえるかわりに、時間の方を「旅人」と逆転させることで、新鮮な感動を生み、その効果はいまなお生きているわけだ。こう考えると、芭蕉の時代から、すでに人が「旅人」である、という隠喩は、一般的なものだったのかもしれない。

だが、旅と日常とはどうちがうのだろう。

わたしたちはたとえ「仮の宿」であっても、どこかに定着せずには生活を営んでいけない。出張も、最初に確保するのは、泊まる場所だ。つまり、ものを入れようと思ったら、袋の底は閉じていなければならないように、何にせよ行動するためには、一方で、留まる場所がなくてはならないということなのだろう。

袋の綴じ目がしっかりしていれば、よりたくさんのものを詰めることができる。けれども同じ袋のままでは、そのうち飽きてしまう。いつか袋が一杯になるかもしれない。

だから、ときに小さな袋、綴じ目もきゃしゃで、ほんの一度か二度使えば充分のような袋がほしくなる。また大きな袋に戻っていくために。あるいは、新しい、自分に合ったしっかりした袋を見つけるために。あるいは、自分が小さな袋になって、風に吹かれていくために。

予定に組み込まれ、スケジュールも決まった旅行は、「旅」とは呼べないものかもしれない。それでも、小さな袋であることには変わりはない。入道雲が鱗雲に変わるころ、わたしは小さな袋を持っていく。大きな袋につめる物を探しに。

ということで、ブログは月曜日まで休みます。
いま引っ張っている話は(こんなに引っ張る予定じゃなかったんですが…)、帰ってから再開します。

そのかんはコメントくださっても反映されません。
申し訳ありませんがご了承ください。

ということで、みなさまどうぞお元気で。