陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

話し合うことについて考える

2009-08-18 23:19:57 | weblog
現実の会議というのは、かならずしも、本来の会議の目的、すなわちみんなで話し合い、話し合うことによって、みんなの同意を取りつけるために行われてばかりはいないような気がする。

実際、重要な会議であればあるほど、会議を招集する側は、あらかじめ意見調整をおこない、強硬な反対意見を述べそうな人物に対しては、説明をしておき、あるいは反対意見そのものを想定して、それに対してはどう応えるか検討しておくもののようだ。

結局、実際の会議というのは、討議ではなく、確認のため、さらにそれをふまえて実行段階に移す際の役割決定のために行うことが少なくない。
そうした話し合いの場ではなく、手続きとしての会議で反対意見が出ようものなら、多くの場合、紛糾する。こちらの方向へ決定を誘導しようということがあらかじめ決まっているので、それに真っ向から逆らう意見を汲みとることは難しい。仮に受け入れたとしても、大筋には関係のないことにとどまる。

あらかじめどう持っていくか、質疑応答までもがシミュレイトされている会議では、反対意見を聞きながら、そこから何かを産み出すことができるような、創造的な会議というのは、いまの世の中ではなかなかむずかしいのだろうか。

宮本常一の『忘れられた日本人』のなかに、こんな「寄り合い」の風景が描かれる。
対馬にある海岸沿いの村、古くはクジラ漁をしていた村に宮本が訪れた。朝早くホラ貝が鳴り、寄り合いの招集がかけられる。朝から始まった寄り合いは、夜になっても終わらず、明け方まで続き、つぎの日も続いていく。

宮本は、その村に伝わる古文書を貸してほしいと頼みに行ったのだが、容易なことでは話は進まない。
「九学会連合の対馬の調査に来た先生が、伊奈のことをしらべるためにやって来て、伊奈の古いことを知るには古い証文類が是非とも必要だというのだが、貸していいものだろうかどうだろうか」と区長からきり出すと、「いままで貸し出したことは一度もないし、村の大事な証拠書類だからみんなでよく話しあおう」ということになって、話題は他の協議事項にうつった。そのうち昔のことをよく知っている老人が、「昔この村一番の旧家でもあり身分も高い給人(郷士)の家の主人が死んで、その子のまだ幼いのがあとをついだ。するとその親戚にあたる老人が来て、旧家に伝わる御判物をみせてくれといって持っていった。そしてどのように返してくれとたのんでも老人はかえさず、やがて自分の家を村一番の旧家のようにしてしまった」という話をした。それについて、それと関連あるような話がみんなの間にひとわたりせられてそのまま話題は他にうつった。しばらくしてからまた、古文書の話になり、「村の帳箱の中に古い書きつけがはいっているという話はきいていたが、われわれは中味を見たのは今が初めてであり、この書きつけがあるのでよいことをしたという話もきかない。そういうものを他人に見せて役に立つものなら見せてはどうだろう」というものがあった。するとまたひとしきり、家にしまってあるものを見る眼がある人にみせたらたいへんよいことがあったという、いろんな世間話がつづいてまた別の話になった。
(宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫)

わたしはこれを読んで、笑ってしまったのだが、実際、古文書を見たくて、しかもそこより先にも訪れなければならない予定地のあった宮本がどんな思いでその寄り合いの話を聞いていたかを想像すると、とてもではないけれど笑い話ではないのだ。

この寄り合いの方式は、二百年近いまえの記録があるという。世間話のようでもあるが、それぞれが決めようとする意識はある。だからどんなむずかしい話でも、たいてい三日でかたがつくらしい。
気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得いくまで話しあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈を言うのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういうことなのであろう。

これが書かれたのは昭和三十四年とある。このころにはもはや、このような寄り合いの情景も、きわめてめずらしいものであったのだろう。

確かに効率とは無縁の形式で、実際こんな会議が開かれたことなら、わたしたちは正直、たまったものではないと思うにちがいない。そうではあるけれど、それぞれが自分の考えを、過去の経験や自分が聞いたことを参照しながら提出している。それを考えると、非常に優れた会議なのかもしれないと思うのである。

あらかじめすべてが決まっていて、シャンシャンと手を打つ手続きだけの会議では、参加者は単に頭数のひとつに過ぎないし、関心をもって議論することもむずかしい。その結果、結論が出ても、自分とはどこまでいっても無関係としか感じられない。会議が無意味になっていって、結局こまるのはわたしたちなのに。

どうしたらわたしたちはもっとうまく合意を形成していくことができるのだろう。
そのことを少し考えてみたい。